日野智貴の雑感いろいろ

日野智貴の雑感いろいろ

龍野高校生時代に使っていたブログですが、ちょっとスピリチュアル系を主に色々とリブロク中心に再開してみようかな、という感じ。

 本日私は、建国記念の日の記念行事と、在日中国人・在日ベトナム人のコミュニティらが開催した春節のイベントとに、参加しました。

 どちらも太陽太陰暦の正月が元になっているという点では同じです。

 最近の日本では愛国心と排外主義思想とが結びつけられがちですが、日本は中国やベトナムと同じ漢字文化圏でした(日本もベトナムも中国から政治的にも文化的にも独立する動きが常にありましたが)。

 本来の日本の建国の原点に還りたいものです。

 建国記念の日(紀元節)については、生長の家兵庫県教化部の建国記念祝賀式に参加しました。

 生長の家の行事に参加するのは久しぶりです。色々と思うことはありますが、再び生長の家の行事に参加できるようになったことを心より感謝申し上げます。

 建国記念祝賀式では、生長の家兵庫教区教化部長・田中道浩先生から「日本建国の理念と世界平和」というお話を聴きました。

 田中先生は、生長の家総裁・谷口雅宣先生が「日本建国の理想とは、あくまでも平和裡に諸民族の共存を進めることです。そして、それに当たっては『背に日の神の御心を負いたてまつる』--つまり『神の御心に沿う』ということが絶対条件なのです。そういう高邁な理想が日本の古典に書いてあるということを、私たちは忘れてはいけない。生長の家は、この『神の御心に従う』生き方を推し進めていく運動です。だから、日本建国の理想を実現する運動でもあるのです」と述べられていることを引用され、谷口雅春先生と谷口雅宣先生の仰っていることが違うという自称「谷口雅春先生を学ぶ会」=日本協議会(日本会議本部事務局)らによるデマを否定されました。

 また、今はネットの時代なので国際平和信仰運動を指導する立場の谷口雅宣先生が日本の特殊性を強調されないこともあるかと思うが日本の神話について触れていない訳ではない、という旨の話もされました。

 そして、田中先生はエルトゥールル号事件とノルマントン号事件の対比を通して、全ての人の生命を礼拝していくのが日本建国の理念であり、最近の防衛増税などによる安全保障の維持は日本建国の理念に反することを説明されました。

 最近の日本ではネトウヨや「学ぶ会」らによって日本建国の理念が歪められていますが、生長の家では谷口雅春先生の説かれた本当の御教えと日本建国の理念とが伝えられています。

 ネトウヨや学ぶ会の実態は反天皇・反生長の家の勢力であり、学ぶ会が公式サイトで稲田朋美議員を称賛していることでも判るように、日本を亡ぼそうとしている岸田政権や稲田朋美議員の翼賛勢力です。

 岸田首相や稲田議員を「タカ派」と言うだけで愛国者扱いするのは、日本建国の理念である「八紘為宇」の本来の意味を理解していないと言わざるを得ません。世界が一つの家族になるのが「八紘為宇」の意味であり、排外主義とは真逆のものです。

 春節では第8回大阪春節祭2024に参加させていただきました。

 日本の正月とは違い賑やかであるというようなところはありました。また、日本のお節料理と比べて肉料理の出店が多かったので、菜食主義者の私も屋台で買うものに困りました。

 一方で、正月に伝統文化を振り返りつつ楽しくお祝いをする、といったところは共通点でしょうか?

 中国には有名な京劇(北京の劇、の略)だけでなく川劇(四川の劇、の略)というのもあるそうで、川劇を上演していたので見ましたが、日本で言う能に近い要素もあるものの、もっと動きが激しくて、とても興味深いものでした。

 日本では太陽太陰暦がすっかり使われなくなりましたが、中国やベトナムでは今でも旧正月を祝っています。

 在日中国人や在日ベトナム人の皆様と春節をお祝いすることは、日本の伝統の復興にも繋がると考えます。

 多文化共生というと外国の文化を受け入れて日本の文化が破壊される、という風に誤解される方もいますが、むしろ多文化共生によって日本の文化が復興・発展していくと、私は考えています。


 箸の持ち方が悪い写真しかなく恥ずかしいですが(笑)、この度、姫路市のみゆき通りにあるベトナム料理店「SAIGON 333 RESTAURANT」に行ってきました!

 私は一昨年に姫路市内のベトナム仏教の寺院である大南寺を訪問する等、在日ベトナム人コミュニティとは関わりを持ってきましたが、ベトナム料理店には行ったことがありません。

 理由は簡単、私は菜食主義者ですが、これまで私が知っている西播地区のベトナム料理店は肉料理のイメージしかなかったからです。(笑)

「その店ってどんな料理なの?」

「牛肉とかを使ったのが多いですね。あ、これは鶏肉のメニューですが。」

「どれも無理ですね。💦」

というような感じで、ベトナム料理は食べた経験がありませんでした。

 ところが、昨年11月に出来たこの店では、野菜フォーという商品が売ってある!

 店の人に確認して精進料理であることが判ったので、食べてみました。

 ベトナムでは大乗仏教が盛んですので、精進料理も実際にはあるようです。

 この野菜フォーの「フォー」は、お米で作った麵です。実は、だからこそ私は「一度は食べてみたい料理」でした。

 よく「日本の食料自給率は低い!」と言われていますが、令和4年の農林水産省のデータでは、米はカロリーベースが99%で生産額ベースだと100%、同様に野菜は75%と87%、魚介類は49%と41%、という風になっており、さらに米や野菜については国内生産額が増加傾向にあり、今後戸別所得保障制度の導入を始めとする適切な政策を行っていけば、更なる上昇が見込まれます(出典:農林水産省「令和4年度食料自給率について」)。

 しかしながら、小麦に関してはカロリーベースが16%で生産額ベースが17%であり(出典同)、畜産と並んで食料自給率を押し下げている状態です。

 肉を食べない菜食主義者の私もベジカフェのラーメンを好んで食べていますし、私の地元のたつの市は素麺の揖保乃糸の産地。さらに醤油の材料にも小麦が使われており、小麦の自給率が低いことは由々しき問題です。

 たつの市では米と小麦の二毛作を行うなどして小麦の自給率上昇に貢献をしていますが、残念ながら日本全国には波及しておらず、また二毛作が難しい地域も実際にあることから、小麦の自給率の改善にはなお課題があります。

 とは言え、麺類が好きな日本人は多い!

 そこで、日本では元から自給率が高い上に、海外からも日本に輸出しようという圧力がかかっている、いわば「供給過多」の状態であるお米で麵類が作れるのであれば、需要と供給がマッチするのでは?と考えました。

 問題は「日本人に合わない味であったらどうしよう」と言うことでしたが・・・。

 少なくとも、今回食べた野菜フォーはとても美味しかったです!

 味はこれまでベジカフェで食べてきたラーメンと同じぐらい美味しく、また、小麦の麵よりもむしろしつこくなくてお腹に入りやすい感じでした。

 またこの店に関して言うと、量もお腹いっぱい食べられるぐらい入っているのも良い事です。(笑)

 皆様にもおススメです!


 箸の持ち方が悪い写真しかなく恥ずかしいですが(笑)、この度、姫路市のみゆき通りにあるベトナム料理店「SAIGON 333 RESTAURANT」に行ってきました!

 私は一昨年に姫路市内のベトナム仏教の寺院である大南寺を訪問する等、在日ベトナム人コミュニティとは関わりを持ってきましたが、ベトナム料理店には行ったことがありません。

 理由は簡単、私は菜食主義者ですが、これまで私が知っている西播地区のベトナム料理店は肉料理のイメージしかなかったからです。(笑)

「その店ってどんな料理なの?」

「牛肉とかを使ったのが多いですね。あ、これは鶏肉のメニューですが。」

「どれも無理ですね。💦」

というような感じで、ベトナム料理は食べた経験がありませんでした。

 ところが、昨年11月に出来たこの店では、野菜フォーという商品が売ってある!

 店の人に確認して精進料理であることが判ったので、食べてみました。

 ベトナムでは大乗仏教が盛んですので、精進料理も実際にはあるようです。

 この野菜フォーの「フォー」は、お米で作った麵です。実は、だからこそ私は「一度は食べてみたい料理」でした。

 よく「日本の食料自給率は低い!」と言われていますが、令和4年の農林水産省のデータでは、米はカロリーベースが99%で生産額ベースだと100%、同様に野菜は75%と87%、魚介類は49%と41%、という風になっており、さらに米や野菜については国内生産額が増加傾向にあり、今後戸別所得保障制度の導入を始めとする適切な政策を行っていけば、更なる上昇が見込まれます(出典:農林水産省「令和4年度食料自給率について」)。

 しかしながら、小麦に関してはカロリーベースが16%で生産額ベースが17%であり(出典同)、畜産と並んで食料自給率を押し下げている状態です。

 肉を食べない菜食主義者の私もベジカフェのラーメンを好んで食べていますし、私の地元のたつの市は素麺の揖保乃糸の産地。さらに醤油の材料にも小麦が使われており、小麦の自給率が低いことは由々しき問題です。

 たつの市では米と小麦の二毛作を行うなどして小麦の自給率上昇に貢献をしていますが、残念ながら日本全国には波及しておらず、また二毛作が難しい地域も実際にあることから、小麦の自給率の改善にはなお課題があります。

 とは言え、麺類が好きな日本人は多い!

 そこで、日本では元から自給率が高い上に、海外からも日本に輸出しようという圧力がかかっている、いわば「供給過多」の状態であるお米で麵類が作れるのであれば、需要と供給がマッチするのでは?と考えました。

 問題は「日本人に合わない味であったらどうしよう」と言うことでしたが・・・。

 少なくとも、今回食べた野菜フォーはとても美味しかったです!

 味はこれまでベジカフェで食べてきたラーメンと同じぐらい美味しく、また、小麦の麵よりもむしろしつこくなくてお腹に入りやすい感じでした。

 またこの店に関して言うと、量もお腹いっぱい食べられるぐらい入っているのも良い事です。(笑)

 皆様にもおススメです!


 今日は生長の家総裁谷口雅宣先生の誕生日です。謹んでお祝い申し上げます。

 谷口雅宣先生は人類光明化運動・国際平和信仰運動の指導者で、今や日本よりも海外の方が信徒が多くなった生長の家を率いられました。

 また、気候変動の問題に前世紀から取り組まれている他、ES細胞(胚性幹細胞)や動物性集合胚と言った生命倫理問題についても古くから警鐘を鳴らされてきました。

 初代総裁・谷口雅春先生ご存命の頃から生長の家は自民党と訣別していましたが、平成21年(西暦2009年、皇暦2669年)に民主党への政権交代を支持され、平成28年(西暦2016年、皇暦2676年)には自民党と公明党、おおさか維新の会(現・日本維新の会)への不支持を機関決定されたのも、谷口雅宣先生の偉大な功績です。

 最近ではスーパーシティ構想への反対も訴えられています。

 私は今後も生長の家総裁・谷口雅宣先生に中心帰一して、「神・自然・人間」の大調和した新しい文明の構築を通した日本国実相顕現へと邁進させていただきます。


 今日は生長の家初代総裁である大聖師・谷口雅春先生の誕生日です。

 谷口雅春先生の説かれた御教えを真摯に学び、谷口雅春先生の悲願であった「日本国実相顕現」「優生思想反対・生命尊重」を実現するために、生長の家総裁・谷口雅宣先生に中心帰一して「人類光明化運動・国際平和信仰運動」に邁進させていただきます。

 また、我が国の実相を顕現するために、立憲民主党の党員として微力ながらも政治活動に邁進させていただきます。


 令和5年(西暦2023年、皇暦2683年)10月22日、生長の家白鳩会前総裁・谷口恵美子先生が薨去されました。

 谷口恵美子先生は大正12年(西暦1923年、皇暦2583年)に生長の家創始者・谷口雅春先生の長女としてお生まれになられました。生長の家総裁・谷口雅宣先生のお母様に当たります。

 昭和60年(西暦1985年、皇暦2645年)から平成21年(西暦2009年、皇暦2669年)まで生長の家の女性組織である生長の家白鳩会総裁として、人類光明化運動・国際平和信仰運動を指導されました。

 また数々の歌を作詞作曲されており、私の好きな歌で言うと「あかるい窓」という歌があります。

 晩年は次女の宮澤寿美先生と高知県で過ごされていました。

 谷口恵美子先生、これまでありがとうございました。私は谷口恵美子先生への報恩感謝の気持ちを込めて、今後も人類光明化運動・国際平和信仰運動、神・自然・人間の大調和する新しい文明の構築に励ませていただきます。


 昭和20年(西暦1945年、皇暦2605年)8月15日に我が国が『ポツダム宣言』を受諾してより、78年が経ちました。

 『ポツダム宣言』受託の際には、戦争継続派によるクーデター未遂事件も起きましたが、郷土の偉人である田中静壹大将がそれを鎮圧し、無事終戦へと向かうことが出来ました。

戦争を終結に導いた「平和の軍神」田中静壹大将――母校・龍野高校が誇る偉人|日野智貴
 戦争によって、多くの人が命を投げ出しました。  しかし、戦争を終わらせて、平和を築くために亡くなった人のことは、あまり注目されていません。  「一億玉砕」――このようなスローガンが飛び交っていた、戦時中の日本。一人の大将がいなければ、無事戦争を終えることなど、出来ませんでした。 戦争継続派のクーデターを鎮圧した田中静壹大将  私がかつて修行していた、宝蔵神社の楠本加美野前宮司の次男である楠本忠正先生(現在、龍宮住吉本宮勤務)が次の投稿をされていて、思わず感謝の気持ちが湧いてきました。 楠本忠正【75年前の本日 無条件降伏のご聖断、その大御心とは!】       本日

 近年、一部の方に大東亜戦争を「自存自衛の戦争」であったとして美化される方がいますが、結果的に他国に占領されたところも見ても、決して「自存自衛」の目的は達成できなかったわけであり、そのことも含めて大東亜戦争を美化することはできません。

 一部のタカ派はともかく、最近はリベラル派も表向きは「平和主義」を言いながら「自衛戦争ならば正義!」という論調で露宇戦争も評価しています。しかし、「自存自衛」は戦争を正当化するマジックワードには、なり得ません。

 岸田文雄首相は「核兵器の使用は個別的自衛権と集団的自衛権の行使に限定するべき」と発言していましたが、少しの期間とはいえインドに住んでいた私は、その言葉に怖ろしさを覚えました。

 インドとパキスタンは国境地帯で小規模な衝突ならば頻繁に起こっていますが、もしもいずれかの国が「自衛権の行使」であるとして核兵器を使用したならば、広島と長崎の比ではない大惨劇が起きること、明白です。

 現に露宇戦争ではロシアもウクライナも「自衛権の行使」を掲げており、どちらも一切妥協する気はなく、戦争は長期化しています。核兵器こそ使用されていませんが、日本を含む多くの国々が非人道的であるとした廃棄した、クラスター爆弾は使用されています。

 一方で、大東亜戦争の結果としてフィリピン、ベトナム、カンボジア、ラオス、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアが独立できたことは紛れもない事実であり、その事実を否定する一部左翼勢力による歴史改竄は、断固糾弾されなければなりません。

 ただ、例えば日本政府は当初インドネシアを独立させる気が無かったことが最近の研究で明らかとなっており、インドネシアが独立できたのはインドネシアの独立運動家と日本内部で本気でアジア解放を目指した人々の尽力の結果です。大東亜戦争に良い面があったからと言って、当時の政府の行為を全肯定は出来ないのです。

 最後に、住吉大神が谷口雅春先生に啓示したとされる「日本の実相顕現の神示」を引用し、本稿を終わらせていただきます。

「現象の三日月は沈んでも実相の円満玲瓏一円相の満月は依然として虚空に輝いている。それと同じく、心狭く尖りたる排他的な軍国主義の似非日本の国は沈んでしまっても、実相円満の日章旗のようにまんまるい日本の国は無くなってはいないのである。有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、必ずそれは日本人全体の心が円満になり、実相の波動に日本人全体の心の波動がぴったりと合うようになれば、現象界にもその不滅円相のすがたをあらわすのである。汝等歎くことはない、滅びしものは本来無きもののみが滅びたのである。無きものは滅びるほかはない。軍国日本の如きは本来無き国であるから滅びたのである。」


 今日は古田史学の会の例会に参加しました。私は「『日本書紀』の史料批判方法について」と題して発表しました。

 最近、これは古田学派(多元史観)の研究者に限らず、通説派(一元史観)の学者も含めて『日本書紀』の記述を矢鱈疑う人が多すぎます。

 ベストセラーになった河内春人氏の著書『倭の五王』や最近店頭で並ばない日はない倉本一宏氏の著作でも、『日本書紀』の内容を疑うどころか、継体天皇以前には我が国に世襲の王権が無かったという仮説が堂々と述べられています。

 一昔前には継体天皇の時に王朝交代があったという説が一世を風靡しましたが、まさか存在自体を否定する説が出てきて、それも歴史学者として名の知られた大学教授たちがそのような暴論を主張するとは、異常な状況です。

 このような立場を「疑古派」と言い、日本の歴史学界は基本的に史料の内容を「理由が無くても、疑う」ことに重点を置く研究者が多いです。それは世界史の分野でもそうで、未だに(世界の歴史学者の間では何十年も前に否定されている)「夏王朝架空説」が堂々と大学の教科書にも載っているような、ガラパゴスな学界となっています。

 史料の記述を重んじて手堅い論証を行うことを旨とするはずの古田学派でも、講演会に河内春人氏を招聘していることに象徴されるように、疑古派的な立場の人がいます。しかし、それは学問的な立場とは言えないので、その点について発表させていただきました。

 私が今回例として挙げたのが、多くの研究者が造作扱いしがちな仲哀天皇説話と聖徳太子説話です。仲哀天皇説話は「神に天皇が殺される」という、大和朝廷にとって造作の動機が皆無の説話であり、聖徳太子説話も『日本書紀』に載っている内容は特に造作の動機があるとは言えないものである、ということを指摘させていただきました。

 今回の発表で注目したのが、古賀達也代表による「東日流外三郡誌の考古学」という発表です。

 『東日流外三郡誌』は激しい「偽作キャンペーン」を受けて「偽書」との評価が定着してしまっていますが、戦後の偽作ではありえない内容が散見されます。

 その例が福島城の築造年代についてです。

 東北地方有数の城館遺跡として知られる福島城跡は、1955年に騎馬民族征服説で有名な東京大学教授の江上波夫氏らによる調査によって南北朝時代から室町時代の遺跡であると判断されました。一方、『東日流外三郡誌』では平安時代の承保元年(1074年)の築城としていました。

 『東日流外三郡誌』は市村村史版が1975年に、北方新社版(当該記述のある第3巻)は1984年に、それぞれ出版されていました。出版された当時では考古学の成果と矛盾する内容だったのです。

 ところが、1991年から富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館による発掘調査の結果、福島城は平安時代後期に築城されたことが明らかとなりました。つまり、考古学の成果が既に出版されていた『東日流外三郡誌』の内容を証明したのです。

 ネット上では一部で「『東日流外三郡誌』の考古学と一致する内容は、発掘されてから偽作しているのだ」等と言うデマが流れていますが、この福島城跡をめぐる経緯はこうした主張の誤りを示しています。しかし、偽作論者はデマであると判っていてそうした情報を一方的に流している訳ですが。

 今回の古賀さんの発表は、既に約30年前から古賀さんが言われていたことではありますが、今年に東北への実地調査をした成果も含まれており、改めて『東日流外三郡誌』の真作性が証明されたと思います。

 しかしながら、こうした『東日流外三郡誌』を含む「和田家文書」は、笠谷和比古教授に江戸時代の史料であると鑑定された史料も数点は存在するものの、それ以外は明治以降の写本です。そして、そうした写本の原本に当たるものはまだ発見されていません。

 今回古賀さんは、写本の中でも和田末吉による明治写本とその息子である和田長作による大正以降の写本とは区別して論じる必要がある、という旨のことを述べられていました。実は偽作論者から不審であるとされている部分の多くは大正以降の写本による記述ですので、私もこうした区別は重要であると考えます。

 さて、今回の古賀さんの発表で注目を集めたのは、「和田家文書」の大正以降の写本を作成した和田長作さんと秋田重季子爵らが一緒に移っている写真が“発見”されたことです。

 秋田子爵家は旧三春藩主の家系で、実は『東日流外三郡誌』は三春藩によって作成されたと伝わっています。「和田家文書」の発見者である和田喜八郎氏も秋田子爵家の当時の当主である和田一季氏と親交がありました。

 これについて偽作論者(例えば、原田実氏)は「和田家と秋田子爵家に親交があったのは和田喜八郎氏の代からであって、和田喜八郎氏が偽作に信憑性を持たせるために秋田子爵家を利用していた」等と主張していますが、和田喜八郎氏の祖父である和田長作氏が秋田重季子爵と親交があったことを示す証拠写真の登場は、こうした主張の誤りを示すものです。

 ただ、この写真は秋田重季子爵が移っていること自体は確実なのですが、他の人物が誰かについてはまだ「顔が似ている」「メモ書きがある」程度の傍証しかありません。さらに精度のある情報とするためには、秋田子爵家の記録と照合する必要があります。

 古賀代表は秋田子爵家に伝手が無いと言われていましたが、話を聞いて私はあることを思い出しました。

 実は、私がかつて修行していた宝蔵神社は、秋田子爵家と関わりがあります。

 というのも、秋田重季子爵には宝蔵神社はかなりお世話になっており、宝蔵神社では今でも秋田重季子爵の祥月命日には祭祀を行っているからです。

 そう言えば宝蔵神社には昨年亡き祖父の永代供養を申し込んで以来、参拝していません。いつもは一年に何回も参拝しているのですが、コロナ禍でここ数年は殆ど行っていないのです。近く宝蔵神社を参拝し、宝蔵神社で祀られている天界の秋田重季子爵にも挨拶をさせていただきたいと思います。

 他に正木裕さんの「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐戦』」や大原重雄さんの「男でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ」も興味深い話でした。賛否は今は保留ですが、いずれ私も研究してみたいテーマです。