偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏885嵩山(群馬)廃仏毀釈

2019年12月06日 | 登山

嵩山(たけやま) 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

【データ】 嵩山 789メートル▼最寄駅 JR吾妻線・中之条駅▼登山口 群馬県中之条町五反田の親都神社▼石仏 山頂の一角、中天狗周辺、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです


【里山石仏巡礼68】 5月5日の嵩山の祭りは中之条では知られた祭りのようで、山へ向かう途中で会った人や泊まった河原湯温泉でもその様子を耳にした。祭りの二日後に登ったため、まだその余韻が残っていたのかもしれないが、それを抜きにしても地中から一気に盛り上がった要塞のような嵩山の姿は、中之条の風景には欠かせないシンボル的存在になっていた。祭りは嵩山のふもとにある親都神社の祭礼にあわせて行なわれるという。
 親都神社から嵩山の道には三十三観音の石仏が導いてくれる。石仏は西国・坂東・秩父札所の百観音を安置したもので、そのほとんどは山中の経塚と中天狗の間の一角に集まっていた。丸彫りの目鼻がはっきりした観音菩薩だった。中之条町の案内によると、嵩山は戦国時代の山城で、石仏はここで自害した一族の供養のため、江戸時代の元禄から享保年間にかけて順次建立されたという。しかしそのほとんどの首が落とされていた。一部はコンクリートで修復されてはいるが、傷跡が痛々しい。
 嵩山の石仏が首を落とされた確かな理由はわからなかったが、かつて日本では石仏が壊された一時期があった。明治の始めに行われた神仏分離の政策が、仏教寺院や僧侶・仏具まで排斥する廃仏毀釈の動きになり、各地で寺院が取り壊され、仏像が破壊された。石仏もその対象となり、首が落とされた。明治政府の神道を国教化する政策の犠牲となった形だが、背景には江戸時代を通じて住民を把握してきた寺請制度に対する永年の不満が噴出したことも指摘されている。当時の住民は出稼ぎや婚姻など、人の移動には登録されている寺が出す寺請証文が必要で、ほかにも寺院の建立による寄付や戒名料など、寺に対する不満が蓄積していた。その矛先が石仏に向かったともいえる。
 平成16年、首のない石仏の修復が、地元の石工たちにより始まったというニュースを聞いた。

ホームページ・偏平足


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八千代新川千本桜 19-12 | トップ | 石仏886川手山(群馬)馬鳴菩薩 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。