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小説西寺物語 42話 空海出直しで稲荷神社に習い街道整備に汗流す・京都不粋大学 京都不粋大学観察部
空海は稲荷神社の宮司の伊呂具から稲荷神社が全国に末社約2万社まで増やした初代宮司(711年)の話を聞いていた。初代伊呂具がまず信者を増やすために手掛けたことは神社の前の大和街道の整備だった。そのころの大和街道は東山の麓を山に沿っていたが、東山全体が花崗岩できているために岩が風化した砂が鴨川まで流れて東山から鴨川の間は畑も出来なかった。もちろん街道も砂に埋もれてしまい通れなくなる。当時~幕末までの東山は草木もない岩肌がむき出した荒れ山で山紫水明などとは無縁だった。 この街道は北陸、東北、関東などから奈良の都や難波への1級国道だが、街道が砂で埋まれば旅人が協力して砂をどけなくてはならない、それもまた雨が降れば元の木阿弥になる。そこで伊呂具はこの砂を止めるために伊奈利山に杉の苗木を植えたが、この苗木は街道を通る商人に夏は冷たい水を、冬は温かい白湯を無料で接待していたが、その旅人らの商人に街道の整備をするから杉の苗木などを寄付してほしいと願っていた。この旅人というのは荷車を3台~10台の隊列で車夫は9人~30人で北陸や関東の年貢米、油や海産物などを奈良の都や難波に運ぶのだか、荷車と車夫が多いのは山賊対策と荷車が峠や悪路で通れなくなる場合の人海戦術でもあった。この伊奈利山の植林も旅人らが各地から持ち寄った苗木で10年後には成功して砂の流出も止まり稲荷神社の信仰は日本中に広まった。 街道が整備されれば旅人も増えるし稲荷神社経営の茶店も大繁盛になる。そこで伊呂具はこれら旅人に「山賊避け、病気治癒、家内安全、雷避け、道中安全」のお守りを売っていた。この稲荷神社の御利益と人気は大和街道を起点にして街道から街道へと蜘蛛の糸(ネット)のように日本全国に広まっていた。(余談だが、現在のインターネットの仕組みと同じで昨今、インターネットの神さまとしても人気になっている) それから100年後の大和街道(三条~奈良)は幅6メートルで人、牛馬、荷車で踏み固められて少々の雨では泥濘みにはならない日本一の街道になっていた。空海はその話を思い出していたが、その大和街道を旅人のために整備したのは稲荷神社でそのおかげで信者は増えた。しかし、空海は稲荷神社のことは若いころから知っているからこそ稲荷神社で15歳から2年間神教を勉強していたが、稲荷神社の宮司の名前は100年後の今も信者も都の民衆も知らないのに稲荷神社の信者と朱塗りの社殿が全国に増え続けていることが不思議だった。 空海は日本の信仰の歴史を考えていた。そもそも仏教が中国から入って来たのが552年頃でそれまでは自然信仰で太陽であり、そびえ立つ山、樹齢1000年の大木、大岩などに神は宿ると信じられて来た。稲作が始まる縄文時代、それらを保存したり煮る土器が使われた弥生時代、そして仏教が広まるまでの約5000年間の長い間に人間の遺伝子には自然信仰が刷り込まれて信仰対象とは自然の「神さま」となっていた。 その仏教が日本に入ってきてもそれは仏教という神であり、その神が宿るのが木彫りの仏像であり、奈良の大仏であると信じられてきた。いわば自然信仰の延長線上で奈良仏教も敢えて神と仏とはまったく違うということを民衆に説明しないまま布教を続けてきた。しかも、神さまは全国津々浦々にあるが、神さまそのものは神社を増やそうと空海のように布教活動をしなかったが、各村には必ずある。その村も裕福になって村の鎮守の神さまが鎮座する神社以外にももう一つぐらいは村をあらゆる災難から守る神さまがあってもいいかと仏教という「神さま」を祀っていたのが「寺」になった。 一つの村に神社と寺ができるが、この神社も寺も村の経営で村が発展するためにはこれらの仕事の役割りを決めなければならないが、先輩各の神社が「ゆりかごから墓場」までの人の一生の「ゆりかご」を取り、寺は「墓場」になった。また神社は祭りの広場、寺は村民が一同に集まる集会所となり、村の会議から台風などの避難場所にもなりなるべく安全な高台で広く頑丈に作られていた。ただ、神社と寺の土地が確保出来ない村は神社と寺を合体させて赤い鳥居で本堂には神さまと仏さまが仲良く並んでいる神社と寺は1000年後の明治時代まで現在していた。 空海はこの日本人に刷り込まれている自然信仰を上手く利用したのが最澄の布教活動だと今頃気が付いていた。奈良仏教はその歴史から神が宿る仏像をそれこそ寺の門の仁王から仏舎利の五重塔、本堂まで中国の経典に登場する仏さまを粗製乱造して民衆の自然信仰を仏さまへと上手く転換させていた。民衆は今まで通り自然を信仰しているつもりだったが、人が作った仏像に神が宿ると錯覚していた。 最澄は奈良仏教から独立したばかりで信仰の対象である仏像がなかなか手に入らなかった。そこで人の遺伝子に刷り込まれていた自然信仰の山岳信仰を利用したのが比叡山という山になった。この神なる山で修行した僧侶のみが、「民衆を救い、民衆を幸せにする」という最澄の思想は元々山岳信仰の民衆にはこれを拒否する理由はなかった。つまり、稲荷神社の御神体は伊奈利山そのものが神であり、仏教が必ず必要とした仏像は必要がなかったのと同じ理論で最澄は稲荷神社の布教作戦を無断で拝借していたことになる。 空海は新しい真言宗本山神護寺の仏間で元の高雄山寺からある観音菩薩立像の前で坐禅を組んで観音菩薩に語っていたが、当然ながら観音菩薩は空海に何も返事はしなかった。それもそのはずでこの仏像は奈良の仏師が掘ったものでどこの誰かは知らない上に、どこの馬の骨か分からない僧侶がこの木の彫刻に魂を入れた瞬間にありがい仏像になるが、空海は木や石に仏像らしき物が掘られた物に魂を入れる方法は知らなかった。これは墓石に魂を入れることと同じで硬い石に魂を入れる方法なども知らなかった。 しかしながら空海は全国行脚して布教した寺の仏像に魂を入れたのは墓石を含めて千回を越えていたが、今、こうしてその末寺も失くしたことへの反省と今後の生き方を考えていた。神は誰も魂を入れないのに民衆から信仰されている。仏像は私のような生臭い坊主が魂を入れても仏像にはなれるが、それでも民衆は仏像を拝み信仰している。 奈良仏教の守敏僧都は粗製乱造した仏像を数万体保持した上に奈良の大仏がある。最澄は比叡山を神と崇めた仏教で信者を集めている。私は最澄でもない、守敏でもない、第三の道を進みたいが…こんな自問自答を3ヶ月も繰り返していたが、結論はでなく空海は稲荷神社が大きく発展した機会になったという街道の整備から始めた。 神護寺門前の街道は京の都から若狭国高浜への道で約18里(約72キロ)で歩くと20時間~24時間ほどで高浜街道(周山街道)になる。この若狭国への街道は他に3本あり、この高浜街道は一番西にあり都側の入口は西大路一条で平安京大極殿には近かった。 しかし、旅人に人気のある街道は一番東側の小浜街道で山を越えれば琵琶湖があり、高島港から大津まで船がでている。大津からは都まではすぐで大量の荷物を北陸、若狭から運ぶのには都合がいい。空海はとりあえず僧侶100人を引き連れて高浜街道整備への下調べの旅にでた。僧侶100人はそれぞれ比叡山で専門分野を学んでいるので高浜までの道路工事の設計、峠の修復、川の堤防から水量、さらに水田に出来そうな地質の専門僧侶を揃えていた。 神護寺を出発したのが813年3月1日、一行100人の僧侶はゾロゾロと行進するのではなく笠峠では倒木などを取り除く部隊はそのまま作業を続けていた。また、土木工事が必要な箇所を地図に記したり、橋の架替え場所、がけ崩れも同じになる。笠峠を越えれば周山の集落になるが、周山にはまだ寺はなく空海は村長を訪問して寺の必要性を訴え布教をしていた。 各僧侶も農民たちから稲作の問題や村民の病気までの相談を聞いてその分野の僧侶が話を聞いていた。また、後日、さらに精通した専門僧侶を神護寺から派遣する約束までしていたので周山の農民からは大歓迎されて関係僧侶を家に泊める農家も多数あった。また、農閑期になれば高浜街道の整備に協力すると周山村の村長は空海に約束をしていた。つまり、100名の僧侶はそれぞれの任務を果たしながら高浜港に向かっていた。その高浜までは栗尾峠や深見峠があり、その峠と峠の間には集落があり、その村々で布教するので空海が高浜に着いたのは神護寺を出発して10日後の3月10日だった。 一方の西寺官主の守敏僧都は空海が粗製乱造と揶揄する仏像の大量生産を目指していた。それは都の人口もうなぎ上りに増えた上に民衆が豊かになってきたので、各地域ごとにその地域の守り仏と民衆の集会所が必要になってきたからだ。そしてある地域が立派な寺を建立すると隣近所の地域の民衆はそれに負けじとさらに豪華な寺の建立の競争となっていた。 そうなると寺には僧侶と仏像が必須条件で守敏の西寺には僧侶と仏像の要請が数多く寄せられていた。そこで守敏は仏像の工房は奈良には30数軒、それに仏像、仏具の工房も数多くあるが、それらを一つにまとめて腕を競う仏像工房団地があれば空海がいう「粗製乱造」の指摘は当たらないとやんわり空海に反論していたが、空海は色々守敏には世話になったからとこれには反論はしていないが、心の中には何か釈然としない物が残っていた。 #京都不粋大学観察部 72 #京都造形芸術大学 京都には #京都市立芸術大学 と #京都芸術大学 がある。紛らわしいと市立が裁判をしたが、「市立」があるので紛らわしくないと京都造術大学が勝訴した。しかし、紛らわしいのは事実で造形芸術大学側ももっと学校に相応しい校名を創造、造形を考える知恵と能力がなかったのか不思議に思う。京都を越えなければ日本一にはなれない。 #京都造形芸術大学 のやり方は京都では「不粋」といい忌み嫌われます。反対語は「野暮」。京都は粋でできていて粋をとればただの観光地になるが、全国からの学生も「粋」を勉強して芸術に活かしてほしい。口汚い #京すずめ に #京都不粋芸術大学 とウワサされないように…? #京都芸術大学 #京都市立芸術大学 #京都不粋大学 京都不粋大学観察部 73 #ヨーグルトレビュー #発酵乳酸菌 は体にいいと聞き、この歳で #ヨーグルト を初買いしました。最初は安いのでいいと食べたが、少し酸っぱく馴染めない味…そこで夏の残りものの練乳をヨーグルトの表面にたらして #練乳 とヨーグルトをスプンですくって食べたら美味…ただ、練乳はヨーグルトより高い!のが腹立つ。 京都不粋大学 ★★★★★新連載小説をはじめました。 小説盆栽物語 1話 空海唐から盆栽50鉢持ち帰りへ 小説盆栽物語 2話 宗景造園業に弟子入りで盆景和尚となる 小説盆栽物語 3話 盆景(盆栽)のルーツ、雅山少年が発見 小説盆栽物語 4話 宗景、玉林の禁断の恋から若者たちが盆景を爆買い 小説盆栽物語 5話 玉林、宗景皇帝に祝福され結婚…豆盆栽 小説盆栽物語 6話 日本茶のルーツは武夷岩茶の盆景になる 小説盆栽物語 7 話 椿の盆景が明懸尼寺を再興させた 小説盆栽物語 8話 玉林(ユーリン)に赤ちゃんが! 桓武天皇崩御 小説盆栽物語 9話 空海屁理屈禅問答で盆栽は戦争をなくす 小説盆栽物語 10話 玉林、盆景和尚長安での最後の別れの夜 小説盆栽物語 11話 最澄、空海官位剥奪の上5年間謹慎処分 小説盆栽物語 12話 遣唐船嵐でニ隻難破、空海長崎で説法会 小説盆栽物語 13話 空海真言宗を開山、1月7日は「盆栽の日」に制定 小説盆栽物語 14話 盆栽無事京の都に、その夜、比叡山燃える 小説盆栽物語 15話 東寺、日本大観覧盆栽・植木市へ 小説盆栽物語 16話 第一回東寺盆栽展、大植木市大盛況 小説盆栽物語 17話 盆景日本初の茶の種を撒く、坂本、信楽、朝宮茶 小説盆栽物語 18話 坊主が太ろうと思えば、まず農民を太らすこと(最澄) 小説盆栽物語 19話 盆栽の大流行で「清水焼」が誕生した 小説盆栽物語 20話 盆景和尚東九条村で小麦栽培指導へ ★★★ 小説西寺物語 1話 守敏と空海の因縁の争い・西寺跡発掘調査・女装小説家 オカマのイナコ 小説西寺物語 2話 九条葱が西寺を救った 小説西寺物語 3話 守敏、芹と葱で大僧正に! 小説西寺物語 4話 稲荷神社のお告げで長岡京遷都決定 小説西寺物語 5話 寺と村落ぐるみ乗っ取り大作戦 小説西寺物語 6話 東大寺権操、守敏長岡京へ抗議の旅 小説西寺物語 7話 東大寺僧兵300名稲荷神社と戦へ 小説西寺物語 8話 農民稲荷神社炎上を救う 小説西寺物語 9話 守敏僧都、都を代表する名僧に! 小説西寺物語 10話 最澄、空海唐へ、守敏奈良仏教から破門 小説西寺物語 11話 僧侶不足で奈良から僧侶引抜き大作戦 小説西寺物語 12話 神野親王武家源氏を旗上げ 小説西寺物語 13話 巨大権力(奈良仏教)には経済封鎖を 小説西寺物語 14話 皇太子の不倫…人妻・薬子の変 小説西寺物語 15話 平安時代の美魔女薬子の野望 小説西寺物語 16話 平安時代のスーパースター光源氏誕生 小説西寺物語 17話 薬子の限りない野望…その1 小説西寺物語 18話 807年空海真言宗を立ち上げる 小説西寺物語 19話 最澄罪人ながら凱旋門から入城、比叡山へ 小説西寺物語 20話 即戦力になる奈良仏教の僧侶改宗大作戦 小説西寺物語 21話 奈良仏教稲荷神社の仲介で金銀三十万貫を比叡山へ 小説西寺物語 22話 西寺東寺塔頭60ヶ寺建造工事着工へ 小説西寺物語 23話 西寺建造僧侶350名の大ストライキ 小説西寺物語 24話 西寺守敏僧都は最澄、空海、稲荷神社に騙されているのか? 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最終更新日
2020年09月14日 08時37分04秒
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