今回は戸沢神社から、真田信之と清音院殿について述べてみようと思う。

戸沢神社というのは、信綱寺から東南に約500mほど離れた場所にあり、現在は宮司も不在で真田町一円の神社管理をしている、山家神社の管轄となっている社である。

神社縁起によれば、延暦年中に、諏訪大社の分霊を勧請し、諏訪大明神と称して戸沢地区の産土神とし、郷主戸沢道公も深く崇敬し社領も多かったが、村上義清により没収される。その後、慶長六年辛丑八月十二日真田伊豆守より高領五貫文下賜追認の御朱印を賜り、後同氏上田在城の際、御家中奥様より初穂として銀子壱包を賜る、とある。

 

さて、ここに出てくる「御家中奥様」というのは、おそらく清音院殿であろう。何故ならば、信綱寺とさほど離れていない場所の神社であるし、山家神社の押森宮司も二つの場所の位置関係から見ても、同じ領地内に座していたのではないかということであった。仮にそうであったとするならば、信綱寺は真田信綱の菩提寺であるので、この「御家中奥様」というのが小松殿であった可能性は低いと言える。どちらかといえば、自分の父親の菩提寺がある領地内の神社であるから、初穂料を奉納したと考えるのが自然だろう。また、奉納したのは信之が上田に在城していた時期であるので、一人で奉納したとも考えられるが、信之と連名で奉納した可能性もある。

さらに「御家中奥様」という文言は、ニュアンス的に捉えれば「真田家中にとっての奥方」という意味合いにも取れる。そう考えると、やはり小松殿は対外的な存在の正室として、清音院殿は真田家中における正室として存在していたのではないかと思うのである。清音院殿は真田家にとって非常に重要な人物であり、彼女がいなければ信之はおろか、昌幸も家督を継承できなかった。清音院殿を蔑ろにすれば、家臣たちからの反発も免れないのは必至であろう。

これは小松殿が入輿しても、変わらない部分だったのではないだろうか。ただ、外交的な面を考えれば、小松殿を正室にせざるをえず、かといって清音院殿を側室にすることもなく、あくまで清音院殿は家中にとっての正室として存在し続けたのではないだろうか。そうしなければ、やはり家中の反発は免れなかったように思う。

ただ、これもひとつの可能性であるので、続考を待ちたい。

 

追記(2017/01/19)

先日、山家神社様より、神社庁に保管されている戸沢神社に関する資料を送っていただいた。明治時代に提出された資料で、出典等は不明であるものの、おおまかな内容は長野県立図書館所蔵の資料とほぼ同一であった。ただ、興味深い一文が記述されていたので、要約としてこちらに追記しておく。内容は、清音院殿が銀子一包を奉納した後のことで、記述によれば、その後、信之は勿論、遠近の領民たちも慶び尊信し、祈念したというのだ。これはどういうことかと言うと、清音院殿が奉納したことにより、諏訪大明神へ参詣する者が増えたことを示唆しているといえよう。こうした背景からも、清音院殿は真田家にとって、ひいては領民たちにとっても、非常に重要な人物であったということがうかがえるのである。

また、平山優氏によると、真田氏館には暮らしぶりがわかるようなものが少なく、女性一人(おそらく清音院殿の母於北のことだろう)が住んでいたらしいという、地元の方々の言い伝えがある。それが仮に事実だとすれば、昌幸一家は真田氏館には住んでいなかったということになり、また同じように松尾本城にも生活していた形跡が残されていないことなどから見ると、戸沢地区を含む真田郷の領民たちにとって、信綱の娘である清音院殿は馴染みがあるものの、信之に関しては昌幸ほどまだ人物像が浸透していなかったのではないか。そこで清音院殿自ら、諏訪大明神へ奉納することで信之も祈念するようにし、その存在と知名度を上げようとしたのではないだろうか。だとすれば、まさに内助の功といえよう。

 

追記(2017/04/30)

神社縁起中にある、「後同氏上田在城の際、御家中奥方より初穂として銀子壱包を賜る、」についてであるが、時期をある程度比定することができるのではないかと思い、調べてみた。

「同氏上田在城の際」とあるので、信之が上田へ移住した後だということがわかる。嫡男信吉に沼田を譲ったのが元和二年(1616)なので、それ以降ということになり、清音院殿が亡くなるのが元和五年(1619)九月二十五日であるから、おおまかな時期としてはこの辺だろう。ただ、元和五年九月では、月初の時点で既に発病しているので遅すぎるか。そうなると元和四年頃まで、ということになるのであろうが、清音院殿にしてみれば生まれ育った地へ、しかも当主の妻として帰るのであれば、やはり奉納や参拝などは帰国して早々に行いたかったのではないか。以上の事を踏まえると、元和二年頃に奉納したのはないかと考えられる。信之の居場所はというと、元和元年は正月、四月、閏六月、十月には江戸である。元和二年だと、二月と九月に江戸へ参勤している(黒田基樹著『真田信之』より)。やはり、元和二年の二月から九月の間が、可能性として一番高いと言えるのではなかろうか。記して続考を待ちたい。

 

余談ではあるが、戸沢神社の写真を山家神社へ持参すると、「真田信幸」と「清音院殿」の名が入った御朱印が頂けることを追記しておく。

 

※調査にご協力頂きました、山家神社様、長野県立図書館様に厚く御礼申し上げます。

※参考資料:「上田市付近の伝承」編/箱山貴太郎

         「長村誌」代/倉島蔵二

         「上田・小県文化大辞典」編/伊澤和馬

 




第2回目のリブログです。
今回は放送回の中で、本多忠勝におこうと仙千代のことを打ち明けるというシーンがありました。
かなり信幸は緊張していたようですが、実際はどうだったのか?ということについて戦国時代における正室・側室・子息について書きたいと思います。

まず、結論から申し上げますとドラマのようなことはほぼ皆無です。武家の男子に生まれると、正室を娶るまでに夜伽(よとぎ・性行為のこと)についての指導が家臣や侍女からあります。そして最後に実技練習というのがあるんですね。たいていは出産経験のある侍女がその役を担っていました。その後も本人が希望すれば、他の侍女ともできます。正室を娶ってやり方がわからないようでは御家の恥とみなされますので、これも文武共に大事な勉学のひとつだったわけです。そんなこともある時代ですから、正室を娶る前に侍女との間に子ができる、などということも当然ありました。ですから正室より先に侍女との間に子ができることは、罪でも何でもないわけですね。実際、稲姫は忠勝の側室、乙女との間にできた一番最初の子です。さらに言えば、稲姫もドラマの中ではまるで初産のように描かれていましたが、実際は百助より前に長女と次女を産んでいます。「先に子を成す」ことを前提とするならば、信幸はその役目をちゃんと果たしたということになるわけですね。

では武家の姫君はどうであったかというと、実技練習はさすがにありません。生娘のまま嫁ぐのがしきたりです。ですので、姫君の場合は乳母から一部始終を教えてもらうことになります。その際使用される教材が、有名な「春画」と呼ばれる絵です。まさに行為そのものが描かれていますが、それを以て、姫君は夜伽とはどういうものなのかということを学ぶわけです。ちなみにこの春画は嫁入り道具としても使われていました。今のように「アダルト漫画なんて恥ずかしい」という風潮はありません(笑)。
正室にしろ側室にしろ、「御家のために子を産む」ということが大事なのであって、そこに至る経緯はあまり重要視していません。今の感覚とは違うので、驚かれる方もいらっしゃるのですが。ただ、ツイッターでも以前書いたことがあるのですが、側室は主人の寵愛を最初から受けているのに対し、正室はあくまで「政略結婚」ですから、寵愛を受けることに対しては割と必死です。通ってもらわないことには、子も産めませんからね。ですから、男にとっては戦場で功を挙げることが重要ですが、女にとっての戦場はまさしく「寝床」だったわけです。それがゆくゆく側室同士で大掛かりなものへと発展していった結果、皆さんもご存知の「大奥」になります。

話はそれますが、おこう(清音院殿)は、史料上では信吉のみを産んだことになっていますが、個人的見解としては信吉の後に女子二人を産んだのではないかと考察しています(当ブログに記載)。

参考になれば幸いです。




はじめてリブログします。
おこう(清音院殿)について少し補足しておきますと、清音院殿に関する史料というのは極めて少なく、『真田家御事跡稿』という、江戸時代末期に編纂された史料の中にほんの少し出てくる程度で出生年など、そのほとんどが謎に包まれた女性です。


『真田家御事跡稿』に出典されている項目は以下のとおり。

・「信綱寺院殿御事跡稿」(清音院殿の父信綱の御事跡稿)内

『滋野世記』
信綱女子一人有、男子ナキニヨリ、勝頼ノ命トシテ舎弟昌幸ヲ以テ家督トス、信綱ノ女子ハ後ニ昌幸ノ嫡男源三郎信之ノ室也、

『高野山蓮華定院過去帳』
清音院殿徳誉円寿大姉
 奉為真田伊豆守殿御簾中
 元和五年九月廿五日御逝去
  取次
    日置五右衛門
    桑那少兵衛



・「天桂院殿御事跡稿」(信吉の御事跡稿)内

『滋野世記御系図河田分流』
信吉 真田河内守
 母 真田源太左衛門信綱女

ちなみに信幸(信之)の御事跡稿である「大鋒院殿御事跡稿」の中に、清音院殿に関する記述はありません。

また、他にも『真武内伝』、『加沢記』という史料があり、こちらにも記載されています。

『真武内伝』内
「真武内伝付録系図」
信綱―――女子 真田伊豆守信幸室と也早世也

『加沢記』内
「信綱公娘一人御座れば後に源三郎信幸公に合せ参らせ家督成参らせよと勝頼公被仰出也、此娘早世し給ければ信幸公は後に家康公の下知にて本多美濃守の御聟に成給ける」


このように清音院殿に関しては「存在した」ことは確かであるものの、詳細はほとんどが謎です。また史料によっては「早世した」とあることから、時代を経ていく中で情報が錯綜したことも伺えます。ただ過去帳を見る限りにおいて、元和五年に亡くなっていることから、早世したとは考えにくいと思われます。
尚々、河内守煩候様子、いかが候哉、此御報ニ懇ニ可承候、
(尚、信吉の病状はいかがでしょうか?この手紙を受け取ったらまた知らせて下さい。)

毎々内やくをも用候様ニ才覚専一候、已上、
(毎回薬を服用させ治療に専念してください、以上。)

一筆申候、仍我等所労しかと無之候間、能次而ニ候間、
(一筆お便り申し上げます。よって私ははっきりとした仕事もないので、次はいつになるかもわからないので、)

上方ニて、尚少養生候ハんかと分別いたしふと上洛、
(京都にて、少し養生したいと思いふと来ました。)

令養生候へ共、寒天故、煩再発之躰ニ候間、先々下着候、
(それで養生しているのですが、寒くて、病気が再発してしまったので、帰るのはもう少し先になります。)

然者、河内守も相煩候由申候、様子いかが候哉、無心元候、
(それから、信吉も病気になったそうですが、様子はどうでしょうか?心配しています。)

ちと湯治などいたし候者、弥悪候ハんか、其方分別候て無油断養生いたし候様ニ可被申頼入候、
(少し湯治などさせてみたら、ますます悪くなるでしょうか?貴方の判断で油断なく養生させるようにお願いします。)

我等煩ひめいわくいたし候、恐々謹言、
(私も煩って困っています。恐々謹言)


伊豆守
  信之(花押)

(元和五年)
十二月十五日
夕庵
   御報

※信濃史料 巻二十三 一三三頁


 この書状は前回、「元和五年九月九日付 坂巻夕庵宛書状」において触れた、清音院殿死去後の信之の動向を示すものであり、本題は嫡男信吉が病に臥せっていることを知り、夕庵に看病を託す様子が綴られている。この時、信之の所在は京都で、しかも大坂から移動しており、内容をよく見るとどうやら仕事が一息つき、まとまった休暇が得られた為、静養も兼ねて旅へ出ることにしたらしい。所謂、完全なプライベートの旅行である。この「仕事が一息ついた」という部分に注目したい。当時、上田から大坂・京都までは通常の行程で移動すると約一ヶ月弱を要する。書状の書かれた日付から逆算すると、十一月十五日前後に出立したのであろうか。そうだとすれば、信之がこの日を境に大きな休暇を得たことになる。では何故、この日だったのだろうかということを調べてみたところ、十一月十五日はまさしく九月二十五日に逝去した清音院殿の四十九日であった。そう考えると、信之は清音院殿の四十九日法要を終え、旅に出たということになろう。
 ここにはどんな意味が込められているのか。これは完全な私的見解であるが、おそらく清音院殿に思いを馳せたかったという、一種の「傷心旅行」ではなかったか。四十九日が終わるまでは何かと家中も慌ただしいであろうし、一人になれる時間も限られている。そこで前もって清音院殿の四十九日が終わった時点で、旅に出ることを決めていたのではないだろうか。清音院殿の最期も看取れず、失意の胸中にあったとすれば、せめて清音院殿との思い出に浸りたかったと考えても不思議ではない。仮に清音院殿が天正十七年に出された秀吉の在京命令によって、京都と大坂に在住していたとすれば、尚の事ではないだろうか。同じ地を踏んで思い出を噛み締めていたのかもしれない。寒さが増すことを知っていても尚、京都にまで足を伸ばしたことについても、信之の思いの深さを知ることができよう。信之の書状は膨大な量が残されているので、すべてを精査しきれてはいないが、現段階において、こうしたプライベートな旅行のことを書いた書状はこれのみである。この書状からは、信之が清音院殿のことを大切に思っていた可能性がゼロではないことを示す、貴重な史料といえるかもしれない。
ちなみにこの書状が出された四日後にあたる十二月十九日に、信之は夕庵に対し吾妻内において十貫文の知行宛行を行っている(詳しい領地は、出浦昌相から聞くようにと添えられている)。これはおそらく清音院殿に関する、一連の看病に対する恩賞ではなかろうか。
また、信吉の病状についても心配しており、「湯治などをさせてみては」と、藩医である夕庵に提案している。薬を毎回服用させて、しっかりと養生するように伝えているところから見ても、殊の外、信吉を気遣っている様子がうかがえる文面で、嫡男である息子の身を案じている父親の一面が垣間見える。

(追伸部分)

尚々、上様へ蝋燭指上申候間、乍軽御指引被成、

(尚々、上様(家光)へ蝋燭を差し上げることになったので、どのようにすればよいか軽く教えてください。)


能様ニ御披露候やう、御年寄衆迄御仰遣可被下候、以上、

(うまくできるように見てもらいたいので、年寄衆(家老衆)を連れてきて下さるとありがたいです。以上。)


(本文)

一書令啓上候、路次中御無事ニて御着被成候哉、無御心元奉存候、

(お便り申上げます。道中、無事に着かれたでしょうか?心配しています。)


万端御苦身共奉察候、随而拙子儀、上様御立之前日御暇被下候間、

(上洛に関して色々と苦心されていること、お察しします。追って私には、上様が(江戸から)お立ちになる前日に暇をくださったので、)


即罷帰休息仕事候、就中其地如何様之儀共御座候哉承度存候、

(すぐに帰って仕事を休みます。とりわけそちらで何がありましたか?聞かせてください。)


兎角御仕合能、秋中御下奉待候、猶吏者口上ニ申含候間、不詳候、恐惶謹言、

(とにかく何事もなく、お帰りになるのを待っています。なお使者に口頭で伝えていることもありますので、詳細は書きません。恐惶謹言。)


河内守

   信吉(花押)


七月三日


伊豆守様



年次を書いているが、家光上洛時に書かれたものであろう。本文には、家光が江戸を発つ前に暇をもらい、仕事を休んだとあるので、おそらく病気になったものと思われる。信之とは元々、二人で供奉する予定だったのか、その後の経過について教えてもらいたいことなどが書かれている。病とは言え、上洛に付いていけなかったことは事実で、それに対して信之が家光や幕閣から何か小言などを言われていないかということが気になったのだろう。自分のせいで、父親が非難されはしないかと心配している様子がうかがえる。

また、追伸部分には家光に初めて蝋燭を直接献上することになり、一連の所作や方法などを教えてもらいたいということが書かれている。さらにそれに際して、信之の家老衆にも見てもらいたいから、連れてきてほしい旨が添えられている。おそらく信吉が信之の名代としてではなく、はじめて単独で行うことになったのではなかろうか。父親から、献上するにあたって大事なことを学ぼうという姿勢が垣間見える。




早々御飛礼忝候、京都ニ而御暇被下候間先罷下候、

(早々の飛脚、ありがとう。京都で暇を下さったので、先に帰れることになった。)


右ニ替、又江戸へも頓而可致参府候由候、方々苦身中々不相成事候、

(代替えとして、また江戸へすぐに行き、参府するようにとのことだ。色々と苦心しているが、なかなか思うようにはいかない。)


上方ニても色々気遣、万事いなるり御奉公之次第も及老後失面目候而已ニ御申所候、

(大坂でも色々と気遣い、奉公次第で万事がうまくいくとは言え、私も年老いて名誉を失いつつあることのみを申上げたところだ。)


貴殿ニも近々江戸へ御越候ハん者、御太儀共候、御奉公之次第も能々御見計、御気遣尤候、

(お前にも近々、江戸へ来てもらいたい。苦労を掛けるが、奉公次第ではいろいろなことを考慮してくださる、わかってくれ。)


いか様以面上万々可申談候間、不能具候、恐々謹言、

(とにかく会って相談がしたいので、ここでは書くのを控える。恐々謹言)


伊豆守

    信之(花押)

八月廿二日


河内守(信吉)殿

          御報



こちらも年次を書いてはいるが、家光上洛の時に書かれたもので「真田家御事跡稿」を編纂した河原綱徳は、信吉の書状の返信として掲載している。内容は、自分も年老いて上洛に供奉することが困難になってきたので、どうにかならないかと幕府へ言上したこと、代わりに息子へ江戸に来るよう頼んでいることが書かれている。

ここから見えてくることは、この時点で信之は信吉へ家督を譲る準備をしていたのではないかということだ。「老後失面目候而已ニ御申所候、」とあるがこれは、年も取り、身体も昔に比べて丈夫ではなくなった、このままでは家の面目も保てそうにないということで、そろそろ隠居をしたいとも取れる内容である。また書状の最後にも「いか様以面上万々可申談候間」とあるように、とにかく会って相談がしたいと述べており、この「相談」というのは、今後の奉公についてのことを踏まえて考えると、家督そのものの相談をしたかったようにも思える。ということは、信吉が存命中の頃には、既に信之も隠居を示唆していたということにならないだろうか。前述した信吉の書状を見ても、行事について教えを請たりしているところは、家督継承前の準備と捉えることもできる。

また、これより前に信之が老臣である出浦昌相に宛てた書状でも、「大御所様が病気になったので見舞いに行きたいが、私も煩っているので信吉に行かせることにした」ということが書かれている。信吉を嫡子扱いとしていなければ、最初から信政を行かせるのが筋だろう。あくまで信之の中で嫡子は信吉であり、次の家督継承者であると認識していたということではないだろうか。

ところが、この後信吉は病にかかり、そのまま帰らぬ人となってしまう。信之が信吉に家督を譲って隠居をするという計画は、ここで頓挫してしまったのではないかと推測する。


二人の書状からは、当時の徳川政権においての真田家の立場も知ることができる。「苦身」「気遣」など、幕府に対して想像以上に尽くしている様子がうかがえる。関ヶ原の際、昌幸と信繁が敵方に付いたことで、真田家は他の大名家以上に注視されることとなった。少しでも疑われるようなことや、粗相があってはならないという思いも他家より強かっただろう。ただひたすら忠誠心を見せることで家を守っていくことが、信之に課せられた責務であったに違いない。そしてそんな父親の背中を見て育った信吉も、その姿勢を受け継いでいこうとしていたことがわかる書状でもある。