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サンピエトロ大聖堂は服装規定があります。露出が多くなければ良いようです。

 

 聖堂は7時からクーポラは8時からです。1月で7時と8時に来ましたが入場待ちの列なしで待たずに入れました。入場無料です。

 

オーディオガイドはセキュリティチェックの後聖堂手前のガラスの扉奥のカウンターで料金を払い自分でQRコードをスキャンして専用アプリをダウンロードするのでIDは必要ありませんでした。イヤホンがあった方が聴きやすいのでご持参ください。

9時からと地球の歩き方にありましたが2回目に8:20には借りられました。

一度聖堂内に入ると南側から出るしかないので聖堂に入る前に借りた方がよいと思います。

 

オーディオガイド画面

ヴァチカンは湿地でマラリアの発生源でもあったので外に実質的な住居を構えた教皇が多かったそうです。夏のコンクラーベで3週間で8人の枢機卿がなくなった例もあります。

 

それでも教皇座と教皇宮殿があるのはペテロがネロの命で殉死して葬られた場所にあるからです。

ネロの戦車競技場の脇に葬られた場所に建っているのがサンピエトロ大聖堂で1940年に墓にあったはずの記念碑と昔の外国の硬貨が発見されて間違いないことが確認されています。

 

そこに巡礼者が後を絶たず、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝がそこに巨大な聖堂バジリカを建て巡礼の最終目的地となりました。

 

コンスタンティヌス帝が首都をローマからコンスタンティノープルに移してからローマは凋落しますが、ピピンの寄進で広大な教皇領ができ、800年にカール大帝がコンスタンティヌス帝のバジリカで戴冠式を行うと神聖ローマ皇帝がここで戴冠式を行い教皇と皇帝の関係が出来上がります。

 

アヴォニョン捕囚から戻った教皇は荒れ果てたラテラノ大聖堂とラテラーノ宮殿を去り教皇座とともにヴァチカンの小要塞へ移りました。

 

ミラノのルドヴィコ・イル・モーロがフランス王の侵入で失脚すると教皇庁はイタリア首位の座につき多くの芸術家たち、特にミラノからブラマンテとダ・ヴィンチ、政情が不安定なフィレンツェからミケランジェロとラファエロが集まり現在のヴァチカン宮殿が建造されました。

 

さらに1506年ユリウス2世は老朽化して使用できないバジリカを壊して新しい聖堂を建てる決意をし、ブラマンテ案のギリシャ十字型で建造が開始されますが、儀式には不便なのでラファエロの縦長案に、ミケランジェロの集中式ギリシャ十字に戻りクーポラが完成しますが、最終的には1612年マデルノのラテン十字形で完成しました。起工から120年が経っていました。

 

ラファエロのスタンツェに描かれているユリウス2世とレオ10世の時代がローマ最盛期でカール5世によるローマ略奪と宗教改革の影響に翻弄されつつ、宗教改革に対抗した政策により生み出されたバロック建築は最後の輝きとなり現在も世界中の人々を魅了しています。

 

 

サン・ピエトロ広場

広すぎて写真に収まりません。

 

アレクサンデル7世の命でベルニーニが設計しました。切り取られて残ったでこぼこな敷地を広場にするためベルニーニは聖堂正面から台形と楕円形の組み合わせにしました。しかし楕円に見える部分は重なりあう2つの円でできています。

円の中心から放射線上に柱が並べられています。幾何学的な美を重んじたルネサンスとダイナミックな効果が重要なバロックが見事に融合しているとのことでした。その証拠に柱廊の中心と書かれた円盤の上に立つと4列の円柱がぴったり重なります。

柱はドーリス式円柱が284本、角柱が88本で高さ13m、上に高さ3.2mの歴代教皇と聖人像144体があります。

ファサードが少しでも高く見えるようにファサードより低く設定したそうです。

 

和解通りができるまでは巡礼者は受難の道を通り細い路地からこの広場に出て壮大さを目にするよう意図されており、コロナートはカトリック教徒を両手で抱える形になっています。ベルニーニは第三の柱廊を作り広場を閉じるつもりでしたが教皇庁の財政難で完成しませんでした。確かに足りない感じがします。

 

ここに信徒が集まりファサードの2階から教皇の祝福を受けました。2019年には毎週水曜日10:30から広場での謁見がありネット予約すれば無料で参加できました。コロナの影響で中止になっているとニュースで見ましたがどうなっているのでしょうか。

隅は角柱

 

オベリスクはエジプトの神殿にあったものでカリグラ帝がローマに移し競技場に建てました。そして競技場で行られたペテロをはじめとするキリスト教徒の処刑を記念するものとして1586年シクトゥス5世により広場中央に移されました。高さ25m。

広場にある噴水の一方は1613年マデルノ作でベルニーニが広場を設計した際にオベリスクを挟む位置に置きもう一方を製作しました。高さ14m。

毎年クリスマスシーズンにしつらえられるプレゼピオ(キリスト生誕の場面を再現した飾り)が1月に残っていました。ローマの他の教会でもありました。

聖堂左右の台形の場所に建つのはコルティポ(前廊)コンスタンティヌス帝の像がある左側がコンスタンティヌス翼で右はシャルルマーニュ大帝の像のあるシャルルマーニュ翼でどちらも長さ120m。

コンスタンティヌス翼

トイレ、売店、郵便局があります。

 

シャルルマーニュ翼

すぐ後ろに教皇宮殿があります。

中に入るには北側の柱廊でセキュリティチェックを受けます。

 ファサード

ミケランジェロの集中式でクーポラが完成してから縦長になったので正面から見るとクーポラがあまり見えなくて横に平べったい気がします。ブラマンテとミケランジェロが描いたクーポラが完全に見えて全体を支配するイメージは伝統と実用性の両立を重んじた反宗教改革によって変更され完成しました。

 

ファサードは公募で選ばれたマデルノ設計で途中で亡くなり後を継いだのは弟子のベルニーニ。マデルノ案では両端に高い鐘楼を計画していましたが地盤が弱く重さに耐えらずヒビが入り現在の高さになりました。今ほどボーング調査できないと思われる時代にベルニーニの失敗でない気がしますがかなり非難されたそうです。時計の下に鐘があります。

 

2階に教皇が祝福を与えバルコニーが設置されて新教皇誕生の際はここから知らせます。破風の下には聖堂を完成させた「ボルゲーゼ家のパウルス5世」と記されていて、上部にキリストと洗礼者ヨハネ、ペテロ以外の11人の使徒があります。

 

ファサードの前にはパウロとペテロ

 

ナルテックス(玄関廊)

一度出るとまたもとの場所に戻り並ばないといけないように区切られています。

5つの扉があります。中央はコンスタンティヌス帝の旧バジリカにあった扉でフィラレーテと呼ばれています。他のは現代作家の作品で左端は死の扉で葬列の退出に使用され、右端は聖年の扉で25年に一度の聖年に教皇によって開けられます。

フィラーテの扉

扉中央は教会の支柱ペテロとパウロの浮き彫り。

 

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