W A K I の気ままなトンボの目

自分流の勝手な生き方ですが、何か気付いたことを書いてみます。
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国民学校4年生の夏 「ひもじさに耐えてしたたかき延びる」

2020年08月15日 | 80代

・暑い暑い毎日であった。・私の仕事はなすびの水遣りで池の水を土手を越えて運ぶのがえらかった。・学校は空襲に備え通うと危ないので近くの大きなお屋敷の門の軒を借りて、敵機が来たら竹藪へ逃げろと言われた。・学校の校舎は兵隊の兵舎に。・食べ物は麦とか芋ばかリ。・近くの軍需工場への艦載機の攻撃は恐ろしかった。・みんなで玉音放送を聴いたが何となく戦争は終わってやれやれと感じた。

 

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4 コメント

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疎開して学んだこと (Mont)
2020-08-15 10:30:43
 75年前の夏、私は倉敷の叔父の家に疎開していましたので空襲で逃げ惑うことはありませんでした。それに幸いなことに毎日麦ご飯は食べられましたし、スイカの他、ブドウなど果物はよく食べました。この1年半の疎開生活での収穫は農作業をいろいろ覚えたことでした。それに農業のしんどさや大切さも知りました。これは都会生活では得られなかったことだと思います。
終戦 (yama)
2020-08-15 14:57:38
私は、まだ、2歳でしたので何も疎開のことは記憶がありません。しかし、疎開先では、十分な食べ物がなかったことを親から聞いてました。ただ、親の職業が野菜などの卸業だったので、まだどこからか食物は届いたそうです。同窓会などで終戦当時の各家庭の様子を聞いていると大変難儀だったことを話していました。
いろいろと学ぶ。 (WAKIの気ままなトンボ)
2020-08-17 08:36:58
私も縁故疎開でしたので水遣りはしんどくてつらい仕事でしたが、お陰で生き抜く術をいろいろと学びました。
2度と嫌だ。 (WAKIの気ままなトンボ)
2020-08-17 08:45:46
Yamaさん
一般的な疎開は集団疎開ですので学校ごとにお寺などに集団で寄宿するのですがそれもまた大変なことでした、みんなシラミやノミを沸かしていて衛生状態は劣悪でした、2度と体験したくはないですね。

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