まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あれは、小泉進次郎君の特異点だった 2019 8 あの頃

2020-01-08 08:16:05 | Weblog

   横浜市金沢区野島より遠景

 

結婚報告にタレントの妻を官邸に連れて行った

 

歴史には立ち戻ってみれば、あれが特異点(ターニングポイント)だったと思えることがある。

その時点では世俗において何気なく起きる出来事でも、その関連性と影響をその時点に立ち戻ってみると、政治家ならまさに慙愧の極みと思えることがある。その逆に繁栄や勝利の種となるポイントがある。また、それは見過ごされる小事であることが多い。

昔の政治家は人を騙して雄弁家と身内から頼りにされ、色事は妾や二号と称して生計を庇護する人情家もいた。

最近では、政務活動費での遊興や、ごまかしが野暮になったのかガソリン、切手、キャバクラ会議、はたまた議員同士の不倫や秘書の奴隷的使役など小賢しい議員も増えてきた。

 

とくに、政治家が国民の耳目を集めるために色々な姿を装うには、時々の虚ろで狭窄した政治家像を描く大衆の意識や一過性の欲求に沿った戯れが必要になってくる。

 

父親は事情があってできなかった。いや事情が許してもしない雰囲気を醸しだしていた人物だが、いつ頃からか歴代総理は諸外国に倣って女房と手を繋ぎタラップを降りる姿が当たり前のようになってきた。人前で三歩下がって歩くことはないが、大よそ手繋ぎ、肩抱きは、屋内もしくは房中(寝室)と決まっていた。それが、この国の人前でのありふれた所作だった。

 

官吏の狡猾さが忖度となって為政者の顔色にフォーカスか当てられている

もともと同僚とて人情薄弱な関係だが、これが政権交代になれば、元の為政者は池に落ちた犬に礫(つぶて)を投げる隣国の官吏同様となる。その質からいえば、土壇場になったら国民のことなど顧みることもないだろう。

 

その歴史事実はある。満州崩壊の土壇場ではエリートと称された高級軍人、官僚、勅任官の多くは。ソ連侵攻が国境まで数百キロとの知らせが入ると、国境から内に数百キロの新京の宿舎から夜陰に紛れ、電話線まで切って逃げている。最近はあの社会保険庁や原発被災時の東電幹部も同じ類の群れだ。

 

これは腐敗の類ではなく、日本人エリートの堕落だ。彼らは法匪のように触法に敏感だ。ましてや余計な知識を溜め込んで、言い訳、虚言に磨きをかけている。本来は腐敗なのだが愚かな立法府をそそのかし、官域に恣意的な法を乱造して蟻塚に安住している。掲げる言い訳は、安全安心、国民の生命財産、働き方改革、教育改革、子育て、など様々ある。その一つ安全だが、面前権力として交通規制は、多額の罰金を反則ノルマとして徴収される。国民は為政者の意識とその感覚を読み取り、怨嗟と離反を惹起させている。これは政治政策の前提となる人心との信頼の毀損なのだが、感応することもない。

 

安全のためと云われれば国民は言葉ない。しかし怨嗟は、゛しかたがない゛といつの間にか流される。参議院選のN国、れいわ、の躍進は、忌まわしいが、抗弁が許されない大衆の依頼と期待の行動なのだろう。

振り返れば、゛いつの間にかうまく丸め込まれた゛と思いつつも慣らされる、狡猾な統治の手法ともいえる姿だ。小泉総理は感応よく「自民党をぶっ壊す」「抵抗勢力」と、期待をあおって当選した。

 

     

     横浜市金沢八景 称名寺

 

そんな民情でも心根は優しい。

明治以降、あり得なかった官邸への結婚報告を人寄せパンダと揶揄される小泉君によってその先鞭はつけられた。

初めてのことなので事の良し悪しは時の経過をみなければ判らないが、筆者はあの行動が小泉君の特異点、いや将来を推考し、かつ振り返るとき、我が国の政治家の姿に大きな問題を増幅させる端緒になるのではないかと思えるのだ。

 

父は新聞記者の到着を待って鎮まりのある靖国の社を騒がした。なにも衆目を集めて周知するために祈るのではなく、その意気があるなら早朝の門前に首を垂れるのは毎日でもできることだと記したことがある。

まして鎮護の国といわれ,靖んじて不特定多数に生命を献じた御霊を鎮魂(魂を鎮める)する社を、総理が騒がすことはないとの苦言だった。まして国を靖んじる(靖国)心根があるなら、それは己の祷りとして完結すべきことだ。衆を恃み、かつ祷りを見せる、不純な行為でしかない。

 

拙論には、理屈だ、考えすぎた、との異論もあったが、内外の政治状況と大衆の歓迎などは「祷り」とは何ら関係のないことだ。人の空気(人気)を気にするなら、有名芸能人を帯同すればいい。あるいは反対派に事前周知して一過性の騒動を政治利用すればいいことだ。それが政治のリアリズムとしても、いずれその正邪の評価は鎮まりのあとに秤の均衡を保ち、評価の置くところを変えるだろう

 

それを想うに、小泉進次郎君の行動は政治家としての特異点として逆賭するのだ。将来起きることを想定して、いま手を打つ、それが逆賭だが、今回の行動は政策立案の前提となる人物としての本(もと)の置き方が問われるのではないかと、一抹の危惧がみえるのだ。理解はするが、どこか腑に落ちないものが内在する。

        

        北京の友人の作

 

政治政策が遍く浸透しない、あるいは国民の狭窄したかのような欲望や権利意識が政治を混沌とさせていることは為政者自身が鎮考すべきことだが、退廃、遊惰に陥った社会は、より多量なパンと刺激あるサーカスを求めて流動している。

翻って、政治情況はパンのための増税と配るための経常経費に苦しんでいる。劇場型と云われる政治は、政治とは似つかわない派手な衣装と嬌声を挙げる女性議員、大義を装い抗論や詭弁を応答する落ち着きのない議員、資質とは何ら関係のない出自や学び舎経歴の選別、添え物の三百代言のような学識経験者を援用して為政者の雄弁を支えている。

巷では、政治家は人を騙して雄弁家と、諦観が定まっている。

 

ゴマメの歯ぎしりのようだが、前記したように腐敗は見えない(隠蔽)が、堕落はいつの間にか招来する。軍も予算と装備と危機をあおれば、結果、組織は堕落し、高邁になった。

役人と今流の政治家は、収入が保全され担保となり、中身のない虚言でも大衆に歓迎されれば堕落する。なによりも虚言を磨き、大衆の歓心を得ようとすればするほど心根は劣化し腐る。

 

いつの間にか」、「誰も止められない」、しかし、前記の群れにとっては、その状況は居心地がよい。「世の中を変えよう」と、仲間五人の中でいえば、それに関係して食い扶持を得ているものは「このままでいい」と、必ず一人はいる。五分の一は現状維持だ。主にタックス・イーター(税を喰う)の関係者だ。

 

耳障りの良い政策(対策)を飽きがこない程度に乱発するが、真の国情を隠す屏風のように興味をそらす手法も弛緩した政治の姿だ。多くは人寄せと称される顔と口や経歴が用をなす類だ。

 

その意味では小泉家の慶事は舞台回しも役者も優れている。

心から小泉君の成長を期待し禱るものだが、いっとき騒動を鎮考してほしい。

秀逸な絵画でも「目垢」がつくと価値は下がる。コレクター(大衆)の「知ってる。見たよ」の世界だ。

 

当ブログでも記したが、横須賀を走りまわった新聞配達、離島僻地や震災地復興の実働、それは無名で有力な深層の国力を支える人情の涵養だったはず歓迎されるのは、非人情にも映る現実政治の拙さにたいするカウンターのような姿なのだ。

 

それを以て、騒動に似た情況は小泉君の「特異点」と観るのだが。

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