まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

佐藤慎一郎先生「総理秘密報告」・?  改稿

2021-01-06 20:02:32 | Weblog

辛亥革命で殉難した伯父 山田良政の墓 弘前市新寺町 貞昌寺

 

今どきの総理職とは異質な政治家がいたころのことだった。

 

だれが名付けたのか32年3カ月にわたる口述聴取されたのが「総理秘密報告書」と称して独り歩きしている。

1985年の某日、筆者と週刊新潮誌記者門脇氏と佐藤先生の鼎談があった。

当時、門脇氏は張学良を研究、現在は門田隆将というペンネームで活躍している。

佐藤氏はその時91才、この書類についての扱いについて、「焼却しなくてはならない資料だ」と言明している。

理由は、余りにも実在の人物名が多く記されている。また存命の方々もいるとのことだ。

それは、門脇氏の『無くなってしまったのでは惜しい資料だ』との言葉に応えた強い意志だった。

 

 

満州崩壊後、避難民救護活動などをしたのち、葫蘆島から帰朝、荻窪の引き上げ寮では極貧の生活をしていた頃、見も知らぬ調査関係の人物から、折り入ってお話を聞きたいとの連絡があった。電車賃さえ難渋していた頃だが、赤坂の料理屋での聴取がきっかけだった。

どこに出す資料かわからなかったが、すべて手書きでつくっていた。

他には、ソ連、アメリカ、などの主要国などの研究者数人がいて、それぞれ7部作って主要な部署に提出していた。

 

その提出先が判ったのは、安岡正篤氏と懇談していたら福田総理が入ってきて、『やぁ、佐藤先生、いつも拝見しています』と、片手を上げたいつものポーズで鼎談した時、「ははぁ、あれが総理に言っているのか」と、はじめて知った。

 

調べたいことがあれば香港に飛んで、海岸で大陸から泳いで逃げてくる人からも聴取した。あの中国人でも、日本人だとはわからない流ちょうな北京語を駆使した聴取だ。余談だが、津軽弁は北京語やフランス語に適したイントネーションだという。

 

    安岡正篤氏

 

その後,たっての懇嘱で内閣調査室でも中共の法規の翻訳をやっていた。

その頃、池田総理の朝飯会で数回話をした。側近の某氏が遣いに来て中国明代の研究をしてもらいたいと懇請してきた。何度きても断った。すると池田本人から電話があり、信濃町の自宅に行った。池田は『どうしてもだめか、いまは170万しかないが必要なだけ増やしていく』「いや、金の問題ではない、あなたが寄越した人はソ連のスパイではないか」池田は怒ったが、佐藤は事実経過を2つだけ列挙した。池田は押し黙った。『大平に任せる』

しばらくすると大平から呼び出され『佐藤さん、誰にも言っていないか』「知らせていない」

『彼は政策も資金も大きく関係している。今辞めさせると政府が混乱する。任せてください』

 

この人物は池田の親友で戦後シベリアに抑留され、帰国する条件で対ソ誓約書を書いてしまい、帰国して金を受け取ってしまった。この人物が収容所で某氏にそのことを相談した顛末を佐藤先生が聴取してそのことが分った。

 

 

福田さんの意向なのか、田中龍夫文部大臣から電話があって『会わせたい人がいる』とのことで案内された人が玉置和夫代議士だった。この玉置氏が資金を出すので中国問題の研究組織を作ってくれ、とのことだったが、これも断った。※田中龍夫・・田中義一総理の子息

 

佐藤先生は資金と組織は必要なことは分っていた。中国では国家を挙げて日本の瑕疵を調べている。しかもこの結果はいずれ歴史問題として反論しにくい煩いとして日本を苦しめることも分っていた。しかし、日本人は組織と金において、とくに官製組織の慣性となる弛緩と堕落は歴史問題に無責任な態度を取りかねないと危惧していた

孫文側近の叔父山田純三郎の薫陶もあったが、国境・民族を超えた普遍な精神もなく、看板思想の争いや経済の熱狂が烈しくなるなか、偏見が将来の思索を閉ざす昨今、だだ、手前勝手な歴史観で争いの種を、研究として行うことの愚を憂慮していた。それは日本人そのもののの変質だった。

 

旅順水師営の中国人小学校が始まった中国体験は、満州崩壊とともに終わった。その間20数年、つねに中国民衆とあった。国民党に捕まり処刑前に自分の埋められる墓穴も掘った。内地の教員の時「墓穴は掘るような人間にはなるな」と、教えていた時を想起して笑った。

それも、こともが四人いたことで、看守から『逃げろ』といわれ救われた。男は四人で机を支える縁起ある人間だとの諺ゆえだ。

 

゛満州の大悪党゛と新聞に書かれたが監獄では唯一自由に行動した。多くの民衆は名を隠して差し入れした。衣類はもちろん三日三晩歩いて卵を持ってきた人もいた。金はリックサックに入りきらないほど集まった。

上海で叔父がその新聞を見て,国民党湯恩伯将軍を呼び記事を見せた。将軍は黙って「佐藤慎一郎を釈放して長官官邸にひきとれ」と電報を打ち釈放した。

 

金は使えなくなった満州紙幣だが、公文書をつけて米ドルに換えると云われたが、もともと洗面道具一つで来たので、それも断った。それは監獄での会話だった。

桃太郎を知っているだろう。鬼征伐までは好いが、金銀財宝を車に乗せて犬や猿やキジにまで曳かせて持ってくるなど略奪民族ではないか

その言葉は染みついた。

 

   大同学院教授のころ 新京

 

崩壊後の最後の重臣会議で甘粕もいた。しかし彼らは右往左往するだけで結論が出ない。

勅任官や高級軍人官僚だが国内でもそうだが、五族協和と謳った満州でも威張り、何も満州のことも民衆のことは知らなかった。自分が呼ばれた。そしてこう言った。

満洲のことはここに棲んでいる人たちに任せなさい

 

ソ連が国境に近づいたと彼らは知った。まだ国境まで数百キロ。国境地帯には彼らが夢の国だと煽って内地から集めた開拓民が大勢いた。その一報が入った翌日、新京の官舎は家族ともどもぬけの空だった。高級官僚、高級軍人、勅任官は我先に電話線まで切って遁走した。

 

関東軍恒吉副官から作戦第一号から見せてもらった。すべて嘘だった。

満洲の人々にお詫びしなくてはならない。遺書を書こうと日本刀で腕を切った。血書は指だが何も知らなくて血が大量に出て遺書どころではなくなった。

女房と子供は内地に返そうと汽車に乗せた。しかし、家族は鉄領まで行ったとき、また戻ってきた。ソ連侵攻、国民党占領と満州は混乱し、その中で生活が始まった。

いつも助けられたのは現地の人たちの人情だった。

 

帰国しても極貧のなか多くの中国人を援けた。

国務省の高官が荻窪団地に訪ね相談した。朱徳の甥、鄧小平の近い縁者も来た。

北進を南進策に誘導するために謀略をした組織の幹部も来た。

さりとて、彼の国や国内権力に迎合することなく、浮俗の走狗に入ル学徒を忌避し、超然として精神を歪めることもなかった。

安岡正篤氏も佐藤先生の体験に裏打ちされた学識に自身の過不足を委ねていた。

 

  

 

その「総理秘密報告」だが、総理もその一人でしかない。7部だが、間を置くことなく中国大使館に届けられている。たとえ秘密でも、諜報員の倣いか、互いに情報交換することがある。2重3重と国策使命を複合する情報工作員もいる。

しかも、情報は生きている。聞けば嘘が出る。自然に話し始めれば真実もある。金に絡めば尚更のことだ。

 

この資料は自宅の居間つづきの長押に30センチの棚を設けて、菓子箱に入れてあった。

いつもこれを差して、「死ぬまでに焼いてしまう」と云っていた。鼎談だけでなく、了解を得て録音した大量なテープの随所にその言葉が出てくる。

筆者はそのつど「いずれどんな意図を持った人間が現われるかもしれない、」と、意を合わせていた。

 

突然の逝去によって、主のいなくなった荻窪団地の自宅は、研究資料に興味の湧かなかった縁者の代わりに、いっとき教師時代の教え子が出入りしていた。

師恩の果たし方は様々だが、単なる探求心のみで師の体験浸透を徒に縁の効用として使うことに戸惑いはある。「佐藤慎一郎選集」が発刊されたとき、嬉しさと戸惑いが師にはあった。本に署名すら断っていた師は、あの安岡正篤氏の没後記念著書にも文を添えることを断っている。しかしお世話になった人には自著を買い、不自由な身体で5部づつ束ね、奥様と郵便局まで度々通っている。

 

   新京

 

周囲は先生を世に知らしめようと、度々資料の出版をすすめるが、筆者は逆に師がつねづね言っていた『学問は行為によって完結する』ことを念頭に、後に輩出するであろう人物に期待して、「ご無理をなさらずに、お身体の方が大切です」と、護るべきか方の守り方を提唱していた。

なぜなら、満州崩壊の重臣会議で思いついた『物知りのバカは無学のバカより始末が悪い

そして『吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず』という言葉に、師の意を忖度していたからだろう。

 

その間、度々長文を添えたさまざまな資料が茶封筒で送達された。錯学の徒は、それを、゛持ち去った゛と、喧伝するものもいた。

また、古典を現代の事象に合わせて挿入し、飲みながら楽しく共著として歴史の先賢を顕し、

師の縁者とともに創造した「明治の日本人と中国革命」を主題とした拙書、「請孫文再来」をつくり縁ある方々に配布した

「年代を入れたらいいね、まだ資料はある」と愉しんでいた。原稿をお持ちすると一晩熟読して、『嗚呼、日本は終わってしまう・・』と、突然涙を流した。奥様も驚いて目の前に正座した。いつものかすれた声で『ありがとう、ありがとう』、辞すときには必ず辺りを見回して、『ばあちゃんが具合悪いので、ちっとも勉強が手につかないが、持って行ってください』と、資料封筒を渡された。

『これは、燃やしっちまう』と津軽弁で長押の上の政府機関宛ての資料控えを指さすのもしばしばだった。

 

   馬賊の頭目 白氏 

佐藤氏の紹介で・・北京  1989 6/26

 

   同年6/25

 

筆者が20代のころ、あの新橋の善隣協会で行われた「笠木良明を偲ぶ会」の邂逅から、教育会館での安岡正篤氏の師友会の佐藤先生講義で、目ざとく見つけてくれて名刺をいただき、『いつでも来てください』とお誘いを受け、ぶしつけにも我が家に上がり込むごとく家族ぐるみの縁だった。

講演には何度もお伴させていただいた。安岡氏から督励されて作った小会の折、参加者が少なかったことを嘆くと、いつも柔和な先生が怒気を含んで、『そんな弱気ではいけない、陽明でも一人でも少なしといえず、千人でも多しといえず、と云っている。一人でも国は興き、一人でも国は亡ぶ。少ないからと云って嘆くことはない。私は一人でも真剣に聴くものがいれば、いつでも来ます。もっと自分の行いに自信を持って頑張ってください』

満洲大同学院の子息の会では、『日本は異民族に悪いことをしてしまった』と、号泣された。

 

 

標題だが、もし総理云々と読者の耳目を集める手法で、邪まな意図で漏えいされたとした場合、商業出版の糧にしてどのような使い方をされ、先生の人物像さえ偽作され、歴史の歪曲に使われるかもしれない。

そもそも資料は作成提出された控えであり、要は国策に用されたものである。内容はどうであれ、記載された人物も知らず知らずに利用された者もいる。それを一方のあら捜しや、事後に起きる現象を強引に想像し、理屈付けすることは売文の輩の常套手段である

しかも、知った、覚えたようなことを得とする浮俗の読者は、難なく錯誤の知学に陥ってしまうだろう。

 

まして歴史上の有名人にコピーペーパー宜しく貼つけようものなら、商業的成果は益々上がり、遊惰な執筆生活に供することも適うだろう。

それを先生は学問の堕落として、社会変質の大きな現象として視て、語っていた。

 

よもや、売文の学徒も知らぬはずはないとおもうのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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