先日、行政機関の某現業職の幹部に特別講話を行う機会があった。
三回になるが以下の標題だった。
多くは官制の学校制度から忌避されたような「人間学」であり、自案の「人間考学」である。
よく「土壇場になって学問の質が解かる」とか、「人間の本質(本性)がみえる」とあるが、まさに平時の無事と有事ではその学問の有効性が試される。
「智は大偽を生ず」といわれ、集積された学びを、責任回避や立身出世の道具として用いるエリートがいるが、まさに智は己を虚飾し欺くために使う者もいる。
それが土壇場における責任者になったなら、政治では腐敗堕落、戦争なら惨禍を招くこと必然である。
最後は人間の問題となり、その証は歴史の栄枯盛衰に数多の例があり、また倣うべき事象でもある。
また色、食、財の三欲に自己制御について、その学びの幹として、人間の人情や情操の養いについても伝えている。
それは従前の問題意識から、新たな覚醒をもって柔軟な思索のもと、あらたな問題意識の喚起につなげる作業でもあった。
雄姿
初回は「組織の統御」についてだが、あらゆる組織での世代間、職掌上下、法令など、複合的に考えるための「本(もと)」となる内容だった。
第二回は、「機略」縦横無尽や臨機応変について、機会を逃さない知力、資力、能力など、現在の職掌のみならず人生を活かす手立てを知る内容だった。
そして、第三回は
平成29年 冬季講話 (概案)
≪学びを肉体に浸透させ習慣化する「自得」について≫
副題「集団の統御と任務の機略を、より有効にするには・・・・」についてだった。
以下はその資料として配布し、例として「学術的」(アカデミック)な説明と、企業の成功例を添付した。
岩木 嶽温泉
現代社会はその人間の問題の解決を成文法、理学的(病理)、もしくは普遍化された数値教育的な援用を求めて彷徨(さまよう)っているが、それらの引用はすべて人間の言葉や行動によって表現されている。
当然なことだが、その透過する人間と受ける人間の接する機微や情感については、数値ある論証にそぐわない、いや表せないからと、対象が知ったか、覚えたかのみの数値判定で解決したかの如く問題の本質を看過している。
「教えない教育」がある。賢者は「背中学」とも言った。
人は往々にして事象を「察する」ことができるという。動物的反応なのか直感も磨けば優れるという。しかし「察する」とか「直感力」は自身の問題だ。
とくに肉体的衝撃など危機を想定したり、面前での突発的変化に際して、事前認知したり、発生の原因を想像したりすることの端緒となるものだ。
しかし、直感は他にとっては合理とならない。かつ、説明すら難しいものだ。かといってリーダーの素養には、ここで云う俯瞰視から導く感性が必要だといわれる。まして様々な要因を複合した事象の出現に対処するには、その様々な部分ないし場面での人の観察感にある「感性」が必要となる。リーダーに集約するまでには数多の職掌と多くの人間を透過する。しかしリーダーはその集約とは別の判別力や事後の推考を加えなければならないだろう。つまり「責任」に適う判断であり、歴史に耐える判断を求められることもあろう。
説明を求められれば証拠を添えることも必要となる。
それが可能だとしても、人それぞれ優劣問わず感性があるゆえ、体系的な合理を得たり、人の統御には難解なシステムが必要となってくる。ここまで来ると直感は夢想となり、選択の範囲には留まらない。
ゆえに直感を既存の定理や遵法にトレースしたり、前例になじむようにと難解な人間解明作業が発生する。しかも、これでは既存の突発的行動にそぐわないと、既存の概念に責を求め、回避し、拘泥する。
あとは自ずと勇気と突破のパワーだが、ここに「背中学」と「教えない教育」が必要なのは言うまでもない。それを可能にするには古来の賢人が謂う、知学ではなく教えを養う(教養)学びを、行動を以て具現する耐力と明白な意志の醸成に他ならない。
それは、あくまで人間の資質の問題でもある。人は育つまでもなく、直感を衰えさせ、動物的感性や突破力をもつ良性のバーバリズムすら磨くことはできない。
・・・・統御を整え、機略(縦横無尽、臨機応変の具申や行動)を活かし、目的を遠望して使命を達成するすべとして「小学」的思索の援用を試みてみたい
ブログでは省略した引用の概要2例
知識としての古典「小学」の説明 (抜粋引用)
応用としてのトヨタの「5S」について (抜粋引用)
はじめの例は、習慣化された作法や礼としたものを学術的に説明しています
次の例は、トヨタの5Sで産業の効率化のために引用しています。
先の例は「知識」と「効率」についての例ですが、切り口を変えて人生考察の幅を増やし、職掌においてときに想定する死生観の感受を考えて一考察を呈します。
「礼」とは、以前お伝えした孟子の「四端」に簡潔に説かれています。
心を譲ることが礼の端(はじまり)であり、生まれながらもっている人間の情(こころ)と説いています。
礼は修練などで形式から始まるものもあるが、心が備わらなければ、それこそ形式的です。国家もスローガンがあり、技芸や組織集団も特有な形式があります。
現代人は、その形式に問題意識を持ち、ときに怨嗟の気持ちで反抗さえします。集団行動の必要な組織は必要において掟や習慣のなかで形式を作り、人を当てはめます。連帯や共助に必須なことでも始めは戸惑いつつも慣れてきます。理解はともかくそれを成立させるのは別の要因もあります。
職掌の応じた報酬や集団の安堵感、いずれも逆な反発要因ともなりますが、目的意識が欠けても曲りなりに維持機能は保持できますし、その意味では形式が整います。
そこで、生まれながら保持している人間の情や能力についてですが、孟子も自己と他人の存在を前提において説いています。
慈しみ,可哀そうと思う(惻隠)の心は「仁」
忌まわしいもの、汚れたものに正しく向かう心「義」
人に我が心を譲る「礼」
善悪の是非「智」
※説明のため簡意
弘前城
これらの四つの情(こころ)は誰でも備わっている。しかし心が放たれる(放心)してしまう事がある。
その原因は「我欲」であり、現代では人格を何ら代表しない附属性価値である、地位、名誉、財力、学校歴への奔走だろう。
小学での習慣性は「仁義礼智」の四字の知識や理解だけではなく、浸透し特徴ある行為として具現されなければ無用な記学でしかない。
「礼」についても、無条件に心を譲る、分ける、情(こころ)が自然な行為として行われなくては、それこそ形式でしかない。
ありがとう、お世話さま、お疲れさま、などの挨拶、「分ける」に「譲る」気持ちが添えられると「分配」となり、強弱を四角四面な平等感に拘らず配慮(思い量って)「分ける」ことは何ら型式的不平等であっても「礼」の効用は計り知れない。
「平ならぬもの、平すれば、平ならず」
もともと、身体の大きい人、肉体的に弱い人、など千差万別がある。暗記の得意な人、足の速い人、気が利く人、人にやさしい人、みな人間は無駄に生きてはいない。またみなが同じ人間だとは思わない。
それを、もともと平らでないものを、無理に平らにしようとすれば、不平が起きるのは当然のことだ。
だからといって制服職掌に背広を着せたり、事務の得意なものに野戦訓練などは適さない。考え方も習慣も異なるものを囲うことは有効性を損なうだろう。区別や分別も人物の器量だが、異なることを認めることも度量如何だろう。
つまり、「分ける」ことに情があれば配慮となり、言葉や形式がなくても個々の情感はふれあい反応し、全体の融和に導くことになる。
数値で比較する国力の評価はいくばくの努力でまかなえるが、目標に向かう全体の融和は情操涵養という、深層の国力に潜在する人の情感にある。
形式に情感(情理)がなければ魂の欠けた組織といっても過言ではない。
それは土壇場の醜態として歴史の栄枯盛衰に記されてもいる。