まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

落ち着きのある思索と学風

2020-01-28 09:19:28 | Weblog


寒風の中、柱上の思索



吾が身をつねって人の痛みを知る、と格言にある。
栄枯盛衰、世の倣い、もよく云われた。

世上では事あるごとに様々な切り口と例証をもって、ときに百家争鳴のごとく、或るときには一派を形成しつつ正否を争っている。
それをアカデミック(学術的)と言うらしいが、落ち着きの無さは、よりその騒がしさを増している。口角泡を飛ばす空中戦の落とし所は、どちらかがギブアップしなければ治まらないのか行儀の悪い仕草とともに浮俗の見世物イベントの様相になっている。

官制大学の雄といわれている東京大学も旧制の頃は鎮まりの教養が満ち溢れていた。それが新制になると一挙に変化した。変化は知識の厚みや技量ではない、落ち着きの無さと旧制を野暮扱いする学生の出現だった。ことさら教養主義を謳うものではないが、学生食堂でも新制はすぐに判った。騒がしく落ち着きがなかった。今でいう多動性である。
あの校歌も古臭くて野暮ったいと歌うことを忌避する学生も出現した。教科とて食い扶持に有効なカリキュラムは生徒も集まったが、それをどのように活かし人生を有効に生きるための自他の厳存認識や、普遍的な自己探求や技術を技能に高める他との融和意識などは求めるものも少なくなってきた。

多動性は、゛うつる゛という。病気でいえば感染症だが、ここでは「習う」ではなく「倣う」だろう。
この「倣う」だが、「食三代」ということがある。
食生活の習慣性なのだろう味覚(舌)は三世代それに倣う。各家庭でも祖父母の出身地の味覚は三世代後の孫に継承(うつる)。味の濃淡から調理方法だが、それぐらいは出身と現住所が離れていても、たかだか日本列島だ。
困るのは作法までとは云わないが食べる姿だ。
ミー・イズムといわれた自分本位な生活や、個性化を唱えた極端な家庭内の不調和や分裂は食台を囲む共食から、まちまちの時間帯にそれぞれが有るものを食べる、あるいは好きなものを買い食いすることで他人と会食するときのマナーさえ好き勝手になってきた。
椅子の横座り、足組み、テレビや雑誌をみながら食べる、突っつき箸、食べ散らかし、皿もちかき込み、など一昔前の三世代同居の共食には見られなかった姿が展開される。
つまり、イイじゃないかという自堕落が「食」に表れ、続いて「他人との不調和」が異性との関係にも及び、自立を促す糧の費用である資金の収集や使用にまでが放埒になり、三欲といわれる「食・色・財」のコントロールさえ失った。

しかも情緒の涵養を失くした数値評価の選別はお下がり情報にまみれて、より言語行動の多様性は、より混沌、迷いの近視眼的目的しか考えられなくなり、より思索と観照力を衰えさせている。浅い多様な知識は発信力向上のスローガンに踊らされ、各々の特徴の発揮ではなく自己完結を妨げとなる一過性の表層的納得を繰り返している。
これが自由と個性であり、民主の価値であると謳っている現状ではないだろうか。






秋山真之氏  関係サイトより転載




良を見て倣う、人なら尊敬が加わることが自由や個性の意味を知ることでもあるが、善きにつけ、悪しきにつけ弛緩した三代を是正するには、やはり三代かかるといわれている。

法律(清規)は都合に合わせて追加すればいいが、習慣や掟である(陋規)の是正は食と同様に三代かかるという。約五十年以上かかる。
国でも堆積したものを改革や更新の名のもとに代えるのは余程の刺激が必要となる。
簡単には革命か戦争が今までの歴史だ。多動性、つまり落ち着きのない騒がしさだが、これを落ち着かせ深い思索を求めるには、多くは肉体的衝撃である死の臨場だった。
あの震災時の都会の混乱を体験した独身を謳歌していた女性は、流行りごとのように結婚願望に走った。恐かった体験だ。いまは喉元も通り過ぎている。
親や教師の体罰もそうだった。前に書いたがそこには人の尊敬や畏敬が伴っていた。

もう一つはその臨機に表れる畏敬する人物の存在だ。
現在の絶対価値のように思われている附属価値には収入、学校歴、地位、出自があるが、それらのてんぷらのコロモ価値ではなく、真似のできない心の許容と精神の高さに驚愕する人格だ。それは浅薄な思考で考える想像ではなく、自己制御も効かず肉体がわななく状況を起すゾーンだ。
あの、映画「永遠の〇」に集う観客は生まれてもいないあの時代の未体験の臨場感に、たとえバーチャルでも涙している。いつもは、゛いいんじゃん゛と子供に言う女性だ。

怖れと涙は情緒の発露だ。もう一人の独立した自分の心の発見だともいえる。
居酒屋談議やファミレスの要らぬ協調ではなく、独りの感激や感傷、あるいは感動体験が、一時でも制御も適わない精神と肉体の躍動が、もう一人の自分を発見する。
それが国家のバーチャル宣伝ではいただけないが、良質な情緒涵養なら有効な連帯を促すことにもなる。

現代はいっときの感情による疑似協調として一過性の社会運動を起すが、しばらくするとその話題さえ重くなり、再び分裂多動に戻る。つまり群行群止だ。またそれが流行りの文化として、サブカルチャーまで発生させている。震災ボランティアや多種の市民運動もその一例だろう。
有効性をみるのは選挙運動と大量消費だが、それでさえ、刺激がなくなれば大量得票でも一年で引きずり下ろされる。だから手練手管という小細工をするが、まともな政策や利便な商品でさえ遠ざけられるのが現状だ。

いみじくも昭和の碩学が呟いた「デモクラシー変じて、デモクレージー」、民主でなく落ち着きのない民狂ということだ。

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