まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」 唐学にみる現代生活のおける利と義について  (転載)

2021-01-23 21:09:42 | Weblog



国家社会において何が利なのか、あるいは義なのかを、我が国になじみの深い唐学(漢学)をひいて
考えてみます。一部原文に加筆して紹介します


(各部抜粋)
           月刊 医学界寄稿 監修 佐藤慎一郎先生

利義の辧(べん) 「利と義の区別」

「君子は義に喩り、小人利に喩る」(論語) 喩 サトる

 すぐれた指導者なら、まず、自分の言動の義(道理)かなっているかどうかを考えてから行動を起こします。ところが小人は、目先の損得だけを考えて「利」を利とします。考える能力があっても、普段の世界のつき合いに没頭し何ら自省もなく、怠惰に過ごし、決断の要点を歴史の真理や自らの無垢なる良心に問い掛ける余裕がなく、情報のみに片寄る小人の姿があります。指導者という立場になるほど社会悪の一偶を形成していることさえ気がつかなくなります。

 世の中は、一身を天下の為に犠牲にしようとする人は少なく、自分の身を犠牲にしてでも私利の追求に必死になっている人が多いようです。
 だから

「利は義の和なり」(易乾)
 利は正しいことの結果に表れる

「義は利の和なり」(伝)


などと教えているのです。

「義は万事の始め、万利の元なり」(呂覧、無義)

義はすべての事の出発点であり、あらゆる利益を生ずる根本であると云っています。
 私利私欲の為に心を曲げ、人間として守るべき義を欠くことは、本来の人畜(人と動物)の違いをわきまえた人間の所作ではありません。
 利に直面したら、まずその義は、利と調和されたものかどうかを確かめ、行動を起こすことが本当です。利を義と云いくるめたり、先人、先哲を方便に使い、私利をすりぬけ公人面をしている諸人には耳の痛いところです。

あの易経にも「元、亨、利、貞」として利の重要さが記されていますが、利は財利のみではなく、
「利は裁制」といって自らを裁く、制するとも記されています

 
孟子は、  

義を後まわしにして私利私欲だけを追いもとめてゆけば結局他人の物まで奪わなければ
満足しないようになる。(梁恵王 上)


と警告しています。

 先ずもって義ありです。言い訳や、近ごろでは立場の効用を「利」として責任逃れする輩が多いようです。

 「国は利をもって利と為さず。義をもって利となす」( 子伝)

 国家として重要なことは、単に目先の利が本当り利でなく、国家の良識の随った義が本当の利益だと教えています。 

「尭桀の分、利義に在るのみ」(漢書)
 
あくまで附属である知的属性を人格と錯覚し、格言を、てってとり早い座右と拝借し、本性を磨くことを忘れた“心”の閑はさぞかし耐え難いものでしょう。







筆者撮影






「義」について  

「義」は羊と我の合字です。羊は古代、生贄として神に献上した習慣から吉祥だとか善などの意味が含まれています。ですから、善い、正しいと解されています。

 事宜を知り、恥を知り、為すまじきを、なさぬは義
成すべきを為し、為していけないことを為す。それは「正」に見ることができます
「正」は「一」に「止」まるです。為してはいけないこと、あるいは成さなくてはならないこと、のポーターラインです。ここに止まるか、ここを起点に出発するかの一線を表わすのが「正」です。
その基本が「義」にある善か否かの判断です。つまり観点、視点、歴史観、将来観の座標のための学問教養が必要となります。現在の官制の学校制度やカリキュラムにはない修学です。

人あって国家、それを悟り是正するのも指導者の務めです
つまり国力とは深層の情緒、人心の模様にあることに気がつかなくてはなりません。

「義は人の大本なり」(准南子 人間訓)

 義は無条件で正しいとおもうことに我を捧げることです。それは、人間のあらゆることの大本であり、根本であると定義されています。

 又「義は己の威義なり」(説文)といいます。

 威義は、その人の修養の程度によって、その人の体から自然ににじみでる、厳かな畏敬すべき徳のことです。
例えば、政治で云えば国会議員から町会役員まで。あるいは、社長から従業員まで誰にでも平等に生まれながら保宥する才能でありますが、地位、財力という属性の虜になり、本来の公的目的を欠落させることは、まさに「義薄し」であります。

 安岡正篤先生が、終戦の詔勅に「義命の存するところ」と挿入した意味がそれです。
「時運の赴くところ」と記されたものを、あうて「義命」と記したものを、当時の閣僚が、難しい、意味が判からない、ということだけで「時運」として発せられました。

 「義」とは、日本そのものの姿であったのです。さまざまな評価はあるが、戦を挑んだ国家が、単に時の流れのままに、なんとなく戦争を行い、なんとなく敗けたのでは、日本人としての意義が失なわれてしまうと考えるのも当然の事でしょう。

歴史は、その時々の現象評価も重要ではあるが、東京裁判におけるインドの国際司法家、ラダ、ビノート、パルは
「時が、その熱狂と偏見が過ぎ去ったあかつきには、女神は秤の均衡を保ち、多くの賞罰にその処を変えることを要求するだろう」と述べています。
 永い東洋の歴史観から、裏打ちされた東洋民族の大義が唱えられているようです。

「仁は人、義は我なり」(段注)です。

「万物みな我に備わる」(孟子 居心上)

といっているように、万物は同一の原理で貫かれているという事でしょう。
それほど「義」とはとは大切なものです。

 要するに、人間の正しい道の根本なのです。
 当世は、時と、場所と、解釈などと都合よく考えられる「義」ですが、知、私欲で考える属性理論では決して触れることがないものでしょう。

 流れに逆らう、体制に随がわないなどと、生活する上で具合の悪い「義」とおもわれがちですが、孤高に甘んじ、平常心で、世の中の公利を心に宿せば「義」は黙っていても寄り添い行動に表われます。
現代では大勢を恐れぬ精神に「義」は宿るようです。  

義憤や義勇は他に望むものではありません。誰でも、生まれながら内包しているものです。
ただ、平和遊情、怠惰に過ごすと、義は存在すら判からなくなることも事実です


以上は現代生活のさまざまな現象を考察し、文章構成致しました。
 浅学非才の若輩なれど、身の程を忘れ、先人、師、恩人の言を無断で活用いたし、いくばくの利他の増進に役立てばと考え、世代の役割を感じつつ、将来にむけて記したものです。                                            

     
昭和58年
郷学研修会代表世話人 寶 田 時 雄  稿

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