まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学  亡国に表れる学識と人格

2022-12-06 01:26:20 | Weblog

頭山満 タゴール



私論だが・・・

このところ起きる様々な事件、事象を歴史に記述するにあたって、その因果関係を考証するに、旧約聖書の預言に求めたり、地球が宇宙の構成要因として物体経年上避けてとおれない大気の変質や基盤変化などが、人間の所作である歴史の現象に深くかかわっているような論を聞くことがある。

分派、分裂してボスとその他一同を抱える学派にはみることはないが、これも人間の「識」の変遷とすることを歴史考証の成り立ちとして、また現代学徒そのものの考証としても面白いものがあるようだ。

彼らのいう珍奇、高邁な仮説のもとに西洋学にある科学的根拠の組み立てと分類を披瀝する苦労は、東洋にある変化する動態を俯瞰するような活論の透徹さと、将来に評価を委ねる余裕とは異なる学である。もちろんボス依存の食い扶持学、面子学のような類もそこに見え隠れする。

【分派した学派は統合できるが、分裂は滞留する】

あのドイツの碩学、ハイゼンベルグも部分の算術的総和は全体を表さないとその類論を述べているが、もう一歩踏み込むとするなら部分も全体も、時間や所在の「移動」を加味すれば、スパイラル的に上下左右に移動し、かつ人間の観察にある各々の座標の多様を加えたならば、諸学の一隅を占めている歴史学派にしてみれば百家争鳴の態を成すことは必然であろう。

 其処には、名声の有無、手駒である系列研究員の量によって定説化することもあるが、他の諸派との仮説争論によってより不明確な歴史考証を積み重ねているのが実情であろう。よく「壇」にたとえられる文学、絵画もその世界にしか通用しない屯を構築し、似たようなボスを戴き名利獲得に勤しんでいる。

それは人間の作為によってつくられた戦禍や、そこから生まれる悲哀に似た情緒の復活に必要な「活論」の欠乏ゆえ、単に成文化した出版界に位置する「売文の輩」もしくは「言論貴族」の類にに成り下がり、遂には知識人の堕落が亡国を進捗させたような、隣国の歴史に観る臭九老となって、鼻抓み学徒を形成してしまう。

 

黒石


【情理のない論】

当世の歴史学派でみれば、英雄や勳官の技だけの考証ではなく、知識人の堕落が歴史の集積に存在することを、まるで枕屏風に隠す遊女のような媚言論によって、「智は大偽を生ず」にあるような、作為の偽装という責任意識のない一群をなしているものもいる。

よく、゛あの人の研究なら゛とその信頼を高めるものに、宗教や陋規にある習慣、掟の範疇にある人間の規範に属するものがある。それを表裏一体とする、もしくはそれらから邪と考えられている欲望追求や獲得の知恵など、本来あるべき表裏、陰陽、正邪のハーモニーで集積された歴史を構成するものを欠落させ、初頭の部分から片肺考証に陥らしているようだ。

【思考と行動の溝を越えるもの】

それは、簡便に直観できる歴史の俯瞰(全体像を多角的に観察する)することをあえて矮小化して、明治以降、わが国が陥った記誦キ聞学によって、習い考えることが停止しているため、Shinkから Actionへ導くことの行動活学が、明治以降の官制学校歴にいう学歴に囚われ、なんら人格や勇気を涵養することのない「勉強」と称するものに陥り、歴史を糧に自己陶冶や利他の増進という目的に錯誤をきたしているのが実情である。

それは、歴史の考証を知学から活学に高める術(すべ)が欠落したため、食い扶持のための利学に浸り、肉体的衝撃を回避するあまりに臨場感ある実学をなくした我国知識人の無感性的堕落にもなっている。

畢竟すれば、明治の近代化、西洋化は、戦後の分派分裂した個性という賜物とともに、国民の情緒の変質を促し、国民の矜持すら茫洋とした大海に投じてしまったのである

酸ヶ湯

 

【机上の静止考証から動態活学へ】

財は、民族の特異な智学であるタルムードや厚黒学をもとに賄賂学や詐学、性は欲望甘美な高揚のために、隣国の房中の秘の性事学など、どのようなものでも学部にしてしまうことからすれば容易な流れでもあった。
つまり宗教の秘事や陋規を学の机上に上げる愚に反して、いかに動態活学の多面性が人間の歴史構築の上で有効性を支えたかを理解すべきだろう。

歴史のウラに女色、財貨、飽食があり、本(もと)を成しているか、またそれによって事象構成の必須な学として位置づけられるべき内容を含んでいる。

学に品性が亡くなるとの指摘もあろうが、それを学とする人間の人格の問題と考えるべきで、我国の漢文や古典の学を固陋なるものとしたのは、固陋なる人間の存在がそこにあると、側近の元田エイフに指摘した(聖喩記)明治天皇の炯眼にみることができる。

歴史学に厚みを持つことは、理解の淵を広くすることであり、歴史構成と我が身の残像を噛み合わせ、より有効な活学を提供するグランドができると考えるからである。

【「陋規」家庭、朋友、組織などの狭い範囲の掟、習慣に権力は介入すべきではない。まして官制学には馴染まないものだ】

余談だが、教育基本法に「国家愛」とか「祖先を大切に」との記述を挿入するかどうか権力負託者である議員の争論が世間をにぎわしている。
果たして祈りや陋習、あるいは情緒の積層にあるものを国家の遵守規範として成文化する愚は、より愚かな国民を生み出さないだろうか。

しかも親や祖先を守護するという家族、ここでいうのはアメリカンファミリーではなく「家」意識の中で醸成されるべき規範を国家の成文とすることは、官製教育のみならず、わけの分らない日本人を作り出してしまうだろう。

 

平川市 ランタン

文章ハ、経国ノ大業ニシテ、不朽(ふきゅう)ノ盛事(せいじ)ナリ

(文章とは、国家を経営していくのに役立つ重要な仕事であり、永遠に伝えられていく盛大な事業である)

いまさらながらその利功にすぎる国家の成文に、この国の社会と人を観るのである

まして、最高学府といわれ、これまたエリートとも称される東大出の国有財産を統括する官僚が、保存すべき資料を改竄、隠蔽、廃棄したり、国会で虚偽答弁をして政権を守ることを恥じることなく、かつそれが政権なり政治家を護った褒美として栄転させるような国には繁栄もなく、滅んで然るべきものだ。

 

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