まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学から「伸びしろ」をみる 13 ・ 8 再

2022-07-20 01:38:54 | Weblog

新聞の読み聞かせ  バングラデッシュ



多くは「容」「像」「体」から読みとる人物像である
「容」は相の具合だが、顔色はもちろん柔和とか溌剌感、目線の落ち着きや口元の締りだ。
「像」は容に加えた雰囲気だが、仕草やたたずまい(佇まい)、もしくは圧倒的な威力や謙虚さに観る姿だ。そして「体」は言うまでもなく身体の歪みや緩慢な動作など気力衰退や患いから発する形だが、容と像は体との調和として表れる解り易いイメージと考える

もし相も悪く気分は弛緩して行動が緩慢な人間に財や知恵を付加したkらどうだろう。
まだ元気溌剌で柔和な貧乏人の方が感覚を震わせる
それから先は相手の説明や行為から知ることだが、往々にして金と地位とその継続性を詮索することでその価値の優劣が決まるようだ。近ごろは金持ちの未亡人や熟女狙いの狡猾な男が増えたようだが、見えるものが見えなくなった一過性の遊戯なのだろう。

さて標記の、゛伸びしろ゛だが、浮俗の観点からの推測とは異なるものだが、幅を許容量なり器と考えると解りやすい。可能性ともいえるが、ときに想像を超えた飛躍もあるが、俗では大きく化けるともいう

近ごろは体型に合わせた立体裁断やフィット感覚のオシャレが流行りだが、子供のころは成長のはやい身体を想定して大きめのサイズを着せた。一昔前の衣装の縫製はアゲやマチをあらかじめとり、成長時にほどいて着せていた。つまり、想定した伸びしろである。

よくスポーツでも「あの選手は伸びしろがある」とか、逆に「頭打ち」とかいうことがある。
とくに一人前になるまで期間が掛かる力士などは中学生のころから目利きの親方が部屋の存亡をかけて新弟子の発見に血まなこになっている。

ときに異民族の力士をスカウトしてくるが、あの横綱白鵬もモンゴルの背が高いが痩せた男の子だった。逆に出来上がった既成品ではないが大学相撲の優秀力士をスカウトするが、よくいわれる、出来上がって伸びしろのない力士も少なからずいた。
多くは親方の目利きと指導力、くわえ先輩力士や裏方を仕切る母親かわりの女将さんの援けが左右するが、狭い範囲の掟や習慣にある濃密な人間関係に多くの理由がある。

伸びしろのある逸材はあらゆる世界にある。政治や経済、はたまた任侠の世界など人物次第によってその組織なり社会の興亡が大きく変わる場合には、その伸びしろを見抜く将来観と、゛そもそも゛という本来の姿を維持継承を目的として、その意志共有の有無を人物観の座標とする先達が必要になる。

あの白鵬の横綱としての仕草や発言などは単なる格闘技のチャンピオンとしての荒々しさだけでなく、その世界の歴史を知る者だけでなく社会に模範的人格として自らを自制している。つまり相撲界では剛だけではなく心技体(容像体)といわれるような総合力が横綱になるための人格の伸びしろなのだろう。





医者いらずの療法  それにしても、゛欲張らなければ貧しいとおもわない゛とは




それにつけても現在は部分に拘泥しすぎるきらいがある。
それは解り易い表現こそが部分の有効性を示す手段との認識から、特技や特徴の誇張した表現が政治演説や学説の論争など、長いスパンでみれば一過性や途上の切り取り議論に終始する姿にみることがある。

スペシャリストも必要ならゼネラリストのもつ俯瞰性を含めてプロデュースする人物の必要性が問われているが、解り易いだけの証拠の投げ合いでは、より混沌とした世界を作り上げ、それが眼前を覆い尽くすこと(情報過多)で、より茫洋な社会観を構成し、終いには何でもアリの様相になってきた。

それは伸びしろではなく、頭を衝く(限界)ことで柔軟性をなくし、対人許容量も乏しく、より解り易くリアルな表現を求めるようになってきた。そこで技術の領域ではバーチャルリアリティー(架空現実)がより有効性を発揮して、人の感情を均一化し、さらに思索力と観照力が衰えた人々は安易に流行便乗という安逸さに浸り、選択と判断さえ待機状態におくようになっている。

伸びの「しろ」は狭くなり、放埒した自由さえ囲われた既定の範囲におかれ、かつそれさえもオボロゲニなり、自暴ならずとも自棄にある諦め観すら漂わせている現状がみえる。
このコラムではよく「習う」ことより「倣う」ことを推奨している。

つまり、自意識が衰え怠惰になり、他に解決を求めることではなく、感動や憧れを求めて対象から倣う、汲み取ることがなければ、自身にあった伸びしろさえ、ときに自虐的になったり批判したりするようになりかねない。
前記した作為的な流行便乗さえできなくなり、自滅状態に陥ることもある。

よく夢はなにかと尋ねられるが、「恥かしくて口に出せない」と小生は応える。
それは伸びしろのどこかに夢が潜んでいると思うからだ。それと、人と異なることを恐れないという古人の教えを倣い、あえて天の邪鬼として人生を編んでいるからだ。
その編んだものを身の丈に合わせて装っていたいのだ。

つかみどころのない可能性、太陽黒点のような地場の発揮と吸収性、そんな茫洋な世界にも定理があると、たかだか人間の浅慮で追い掛ける愉しみは、自身の伸びしろの有無を眺める気分にもなる面白さがある。

いわんや、その伸びしろが先端まで届かなくとも嘆くことはない。

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