コミュニケーションは自分から!? ー 人と人、人と仕事をつなぐ秘訣は

私たちの思いとか意識はどこから始まっているだろう

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組織内の摩擦はなぜ起こるか

組織内の摩擦のほとんどは、たがいに相手の仕事、仕事のやり方、重視していること、目指していることを知らないことに起因する。問題は、たがいに聞きもせず、知らされもしないことにある。
….「明日の支配するもの」

出典:P.F. ドラッカ- 氏著 / 上田惇生 氏編訳・「ドラッカー名言集 仕事の哲学

風通しのよい組織を目指そうとか、コミュニケーションを大切に… ということは誰もが分かっているはずだし、よく口にすることのように思うのですが、その一方で、この一節に語られていることも「そのとおりだな」と思うのはなぜなんでしょうね?

私たちはみんな、「分かったつもり」で暮らしているのかと思うほど、「確かめたの?!」「どうしてそう思うの!?」と聞きただすことがなんと多いことか!^^;

私の場合、誰に教わったんだったかよく覚えていないのですが、仕事における報告・連絡・相談に関してこんなことを言われたことがありました。
「おまえさんがどう思うかは聞かれてからにしろ! 今大事なのは事実だ!」と。

その先輩は、個人の考え(主観)を差し挟まない客観的な事実が「報告」の基本だ! と言ったのです。
「たぶんこんなことが原因でああなったんだと思う」?? という報告している人物の感想とか印象、説明はいらないというのです。報告している人物がなぜそう感じたのかも含め、「事実」をもとに起きたことが群がっていては、「事実」を正確に把握し正しい判断をくだすことはできなくなると説明されたのです。

たしかに、事実を正確に把握できれば、公平で公正な判断ができるようになる -
それは逆から言うと、事実がはっきり分からないうちは判断ができない・判断はしないということにつながります。

つまり、短絡的な怒りや動揺は起こさなくなるということでもあり、摩擦も起きなくなるということだと思うのですが…
実際には、短絡的に怒ったり、動揺したりしていた方がどれほど楽だろう! と思うほど、周囲の人たちの感覚に置いてきぼりにされる、という感覚に陥ります。

たとえば、偏りのない、客観的な事実を求めようとすると、相手の物の味方・捉え方が偏っているよ! と言うのと同じ波を立てることがあります。その波を立ててしまうと、相手は「客観的」であろうとすることを攻撃したり、認めようとはしないということが起こります。

もしも、その波を立てずに客観的であろうとすれば、相手に投げかける自分の言葉が相手を尊重した、偏りを感じさせない客観的な言葉になっているだろうかと、自分自身の客観性を問題にするようなことになります。言ってみれば、客観性の入れ子状態です。

普通はそういうややこしいことはしないでしょう。
偏りのない客観性を求めて、偏っている! と感じる人物のものの考え方や捉え方と激突することになることの方が多いと思います。

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そして気づくのです。「説明が足りない!」「言葉が足りない!」と。

摩擦はその摩擦にあってみないと分かりません。
あまり会いたくないものではありますが、会えただけまだいいのかも知れません。『問題は、たがいに聞きもせず、知らされもしないことにある。』というのですから。

言い換えれば、摩擦は、その立て直そうとする気持ちの力を求めるものだということなのです。

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