自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

1968年9月 借家生活と塾生募集/少年サッカー始動

2019-10-04 | 生活史

阪急住宅の端っこだった借家は広かったが、裏に大きな農業用ため池があったため湿気がひどく台所はカビだらけだった。なれない自炊でこんなことがあった。炊きあがった炊飯器の蓋を取ると裏に蒸されたナメクジが張り付いていた。ブラジルで遊び道具にしていたエスカルゴの仲間だろうからと思案して食べてみた。サザエの味がした。
裏の池ではタモロコがよく釣れた。小指ほどの魚だがコイ科らしく口の横に二本のヒゲ状触覚があった。向日町競輪場[の露天商?]を仕切っているという御爺さんと並んで釣り糸を垂れたことがあった。後日の公衆浴場で見かけた。背中一面に入れ墨がしてあった。年老いて小柄であったため倶利伽羅紋々が寂しそうにみえた。

何はともあれ塾生を集めなければならない。塾生募集の折込チラシを大量に作って新聞大手3社の配達店を通じて富田地区全域に配った。市内の塾の先駆けだったので定員を満たすのはたやすかった。そこに付け込んで抱き合わせ募集をしてサッカー少年を集めた。サッカーは無料なので抱き合わせ販売には当たらないが入塾希望がありながら断念しなければならないケースがあることは否めない。
塾が終わったあとサッカーをすることを入塾条件にしたので多すぎない程よい集まりになった。遊戯共同体とか殊勝気なことを綴りながら無意識にせこいことをやっていた。振り返って、せめてもの救いは性別と能力で差別しなかったことである。ただのこどもたちで塾に来る子はまれであった。
塾が終わると富田小学校の校庭で二つに分かれてゲーム=試合もどきをした。高槻市の校庭はどの小学校も5000平米より広い。しかもどの学校にももれなくゴールが設置されていた。明治からの誇るべき伝統に感謝したい。門柱はあるが校庭には放課後であれば夜間も自由に入れた。校庭開放という概念もなかった。集団で勝手にボールを蹴ってもとがめられることはなかった。明かりは職員室の照明である。唯一のボールは革製でわたしの私物だった。
の子は人なつっこい。サッカーをやっていると「おっちゃん、寄せて」と異年齢の地域の子が女の子までが自然に加わる。ブラジルの公園でならふつうに観られる光景である。
中に器量のいい運動万能の少女がいた。今ならすぐスカウトの声がかかっただろう。中卒のあんちゃんも上手で常連だった。よくゲームを仕切ってくれた。わたしも彼らに交じって童心にかえってボールを追っかけた。ラインもポジションもない団子サッカーだったが楽しかった。
塾の5,6年生には、運動能力が高くルールに通じていて技術にすぐれた男子が何人もいた。当時はクラスの有志が自分たちだけで放課後他校のクラスに試合を申し込むこともあった。
他校とはいっても生徒増で分離するまでは同窓だった。第一次少年サッカーブームの底流があったのだ。背景に日本代表のオリンピックでの活躍があった。
1968年10月、日本代表はメキシコ・オリンピックでメキシコに競り勝って3位に輝いた。得点王となった釜本はクラーマー率いる世界選抜の一員に選ばれた。それがどれほどの偉業であるかは、半世紀がたっても、日本代表がメダルに届かない事実と釜本ほどの世界的ストライカーを生み出していないことをみれば、明々白々である。

  値千金の先取点

 



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