自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

王后虐殺/志士と紙誌に責任あり・・・国民、戦争に熱狂/列強帝国主義犯罪史の一ページ

2020-02-01 | 近現代史 日清戦争

正月、わたしは三つ目の故郷博多に里帰りした。泊ったホテル名に祇園の地名がくっついていた。すぐ近くに櫛田神社がある。
博多祇園山笠のフィナーレを飾る追い山7流の山車は、スサノオノミコトを祭神とする櫛田神社を発着点とする。その神社に王后を斬ったとされる肥前刀が奉納されている。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐 夢庵謹識」と刻まれている。
夢庵=藤 勝顕の号。藤 勝顕は1895年春自由党同志と共に渡鮮して「狐狩り」に加わった。「女狐」は壮士達が用いた王后の蔑称である。

 秘蔵になる前の肥前刀*
*韓国の肥前刀還収委員会が2010年以降日本外務省に凶器廃棄を求めているため、神社側は肥前刀を非公開とし、いっさいのコメントを控えている。京都見廻組・桂早之助が竜馬を斬った小太刀は霊山歴史館に展示されている。肥前刀も秘蔵ではなく公開を望む。 歴史を風化させないためにも、武器は公文書と同じく両国の歴史記憶遺産として保存し公開すべきだ。

今回は日韓の「不幸な出来事」を軸に虐殺を考える。私の思想の根本に、人間はみな同じ、心底に仁=惻隠の情を共有して扶け合うが、状況次第で憎しみで集い殺し合う、という考えがある。桜は観たいがその下の骸は見たくないひとは注意しながらスクロールしてください。

古来大虐殺の歴史をもってない国はない。帝国と名の付く大国は云うに及ばず、何らかの覇権を争った大国で虐殺と無縁だった国はない。韓国もベトナムで虐殺をした。
身近なところでは、私が生を受けた国ブラジルは5百万か1千万かの先住民を開拓でその生活圏を奪うことによって滅ぼした。その間討伐による虐殺、奴隷狩り、それにポルトガル人がもたらした伝染病と同化政策でその人口は激減した。現在も「ブラジルのトランプ」たちによってインディオ最後の生活圏であるアマゾンの密林が焼かれている。焼け跡は輸出向けの牧場か大豆畑に変わる。
私の父母は原始林開拓者である。うちのコーヒー農園の低地にあった湧水の廻りには土器片があったのを私は憶えている。密林が伐採される前に小さな家族が野生動物同様追われるように奥地に避難した跡である。私が今在ることと彼らグワラニー族の衰亡とは無関係ではない。
自由と民主主義で鳴るアメリカはどうか?  空爆による大虐殺をアメリカほど大規模(10万単位)に永年やっている国は他にはないが、カストロが東京大空襲を虐殺であると告発するまで私もその自覚がなかった。ちなみにキューバにはマタンサス(虐殺)名の州と州都がある。先住民は1,2世代でほぼ絶滅した。絶滅すると代わりに労働力として黒人奴隷が輸入された。
私を含めてほとんどの日本人が知らないアメリカによるフィリピン併合についてWikipediaで関連部分を
メモしよう・・・。
米西戦争は独立戦争中のスペイン領キューバとフィリピンの二方面で戦われた。アメリカ艦隊はマニラ湾海戦でスペイン艦隊を全滅させた。米軍と相互協力を盟約して独立革命を戦ったアギナルドがルソン島中部を解放し1898年6月12日フィリピンの独立を宣言した。アメリカが独立支援を約束したのは開戦の大義名分を得るためだったことはまもなく判明する。
マニラ占領に向けてアメリカは万余の大軍を派遣した。護るスペイン軍はフィリピン人の報復を恐れてアギナルド軍を市内に入れないという条件で米軍と密約を結び戦ったふりをして降伏した。アメリカは敗れたスペインから2千万ドルでフィリピン領有を継承した。ほぼ棚ぼたの併合である。
フィリピン共和国軍(初代大統領アギナルド指導)は独立の約束を反故にされ、米比戦争が起こった。アメリカは独立を認めず反乱として対応した。マニラを制した米軍は、増援部隊を得て、各地でアギナルド政府軍を撃破した。アメリカはゲリラ化した部隊を山賊と規定し残酷に掃討した。
「1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺(英語版)が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサー[かの有名な元帥の父]は報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された」

 「バランギガ虐殺」
「ニューヨークジャーナル」の風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。

フィリピンでの主権を確立するまでにアメリカは15年を要し10数万の兵士を投入し、4000の戦死者を出した。フィリピン人の死者は20万人(米上院報告)から150万人の間である。
日本が並行して朝鮮、台湾で独立軍との戦いに際しておこなった「討伐」という名の虐殺に列強の干渉がなかったのは、一つには列強も同じことをやっていたからである。列強が仕掛けた戦争は宣戦布告のない「戦争」つまり「警察行為」だったから、捕虜の拷問、殺害は日常茶飯事であった。ゲリラが潜んだ村に対して「全村焼夷、皆殺し」は列強共通の植民地支配のための常套手段であった。


再び本題=朝鮮半島をめぐる日本帝国の軍事行動に戻る。今回は人にしぼって壮士と記者を対象とする。

王后暗殺は、井上馨に代わり駐韓全権公使となった三浦梧楼巨魁の下で杉村濬が工作して、安達謙蔵率いる壮士組および岡本柳之介・柴四朗等の暗躍浪人が、陸軍士官、外務官、警官からなる公人組と連携して実行した。

安達謙蔵は、1894年東学党の乱に際して佐々友房(拡張国権主義の九州日日新聞発行者)の指示で朝鮮半島に渡り、日清戦争が勃発すると特派記者として勇躍従軍した。

日清戦争に際して初めて従軍記者管理規則が創られ、66社延べ129人の記者、画工と写真師が軍の統制のもと戦地の報道に従事した。日清戦争は国民に熱狂的に支持されたが戦意高揚に新聞と記者が果たした役割はどんなに強調してもし過ぎることはない。かれらは例外なく軍人と戦意=敵意を共有する壮士であった、と想わせる虐殺の足跡を残している・・・。
「追伸 被害者は9人と13人にして計22人なり。・・・新聞通信者総員之一行*は従軍して牙山[アサン]に赴き、戦争終りて帰途に就き、偶ま帆船の来るを認めたるを以、一行中之朝鮮服を着けし者岸に立ち、手を以招けるに、船は少時にして岸に来れり。彼等は咄嗟の間に乗組の支那商人9名を斬殺或は射殺し、貨物は之を略奪し、一行の内乗船し得る丈け之人員之に乗り、当地に帰来せしなりとぞ。又残りたる一群は、翌[8月]3日支那商人13名を虐殺せしものなりとい云ふ」(仁川領事館書記天野恭太郎の9月8日付外務省原敬宛報告書)

 アサンへ出発記念写真
*一行23人中21人は新聞社名と記者名の記載がある。空白の2人は幹事役の九州日日新聞の特派員で、後列右から2人目が安達謙蔵と推察できる。

日清戦争一段落すると、安達は、外務省の機密費で日朝両語による『漢城新報』を発行して、途切れていた朝鮮新聞の代役をしつつ、諜報活動に従事した。最大の奉仕は、三浦梧楼じきじきの要請で「キツネ狩り」の「若い者」を秘密裡に短時間で集めたことである。

1895年 漢城新報社前で記念写真
The alleged murderers of Empress Myeongseong took a pose in front of Hanseong sinbo (Hanseong newspaper) building in Seoul, Korea.   
事件後内地に送還され拘引された48名中21名が安達と同じ熊本出身で熊本国権党系でその他の出身地は全国にわたっている。多くがロシアの脅威に立ち向かう憂国の士として参謀本部の援助を受ける情報員を兼ねていた。48名の職業は新聞関係が10名で多く、領事館警部・巡査8名、朝鮮政府雇員3名、同医師・教員2名、農業3名、その他2名(売薬・雑貨業)、残余は10名の無職と公使書記官杉村濬である。
彼らの証言には軍人、公人の関与を隠すための口裏合わせと自慢話が多い。中でも朝鮮国法部顧問・星亨の子分である寺崎泰吉の回顧談は、一番乗りと功名を独占したい気持ちに駆られているかの感がする。まるで自由党員「中村と、藤と、私の三人」でやった、と云わんばかりである。
たしかに藤 勝顕と中村楯雄は大陸浪人の間では下手人として後々まで語られている。中村は手に刀傷を負ったが、その刀を振り下ろしたのは当の寺崎泰吉ではなく、訓錬隊教官宮本少尉であると思われる。内田領事が10月8日の午後に書いた原敬外務次官宛のホットな報告書簡に下手人は「陸軍少尉」とある。
記録では下手人として寺崎をふくめてほかに何人も名があがっているが、斬られた女性は3人で誰も王后の顔を知らなかった。あとになって俺が俺がと手柄自慢が広がった。
殺戮が終わった後、遺体を確認する必要があった。王后はこめかみにごく薄いあばたがあるという官女の証言に基づいて遺体を確認したという内田報告書のほかに「その女の顔は若かりしも、乳を改め」て歳を確認できたとする小早川秀雄(漢城新報編集長)の手記がある。この文脈で考えると、10月9日付末松法制局長官宛石塚英蔵 *書簡にある「裸体トシ局部検査ヲ為」という文言は興奮さめやらぬ壮士が吹いた法螺話であろう。だが言葉による凌辱であることは消しがたい。しかも遺骸を焼却したのだから王后暗殺は虐殺とすべきだ。*朝鮮国内部顧問官。1930年セデック族蜂起時の台湾総督



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