自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

閔妃惨殺/王宮乱入の暴漢外交

2020-01-18 | 近現代史 日清戦争

  金 文子著 高文研  2009年

朝鮮王妃殺害と王宮占拠
1895年の三国干渉を受けて「将来の対韓政略は、成るべく干渉を息めyame、朝鮮をして自立せしむるの方針を執るべし」、「右決議の結果として同国鉄道電信の件に付、強shiiて実行せざることを期す」と日本は閣議決定(6月4日)した。
上記利権案件は王室側が猛反発していたものである。

三国干渉前後の日本政府の対朝鮮方針と実際の行動を要約したい。最終目標は朝鮮を勢力下におくことであるが、ロシアと列強の介入を招くような行動は避けねばならない。対朝積極外交は控える。ロシアが日朝関係にも干渉するかもしれないという危惧があったからである。
清を追い出して「朝鮮独立」の目的と「東学党の乱」を鎮圧したのだから日本軍も撤退するのが道理であるが、本音は、最低限、既存の朝鮮内の電信線をキープしたい、そのための守備隊を残したい、憲兵を派遣したい、言いなりになる政府を確立したい、というところにあった。
最大の問題は三国干渉に乗じて朝鮮政府をコントロールしだした国王と王后の懐柔策であった。国王は親日派の軍部大臣を解任した。また、内部大臣が、清の賠償金の内から300万円を寄付するという井上馨外相の内意を国王と王后に奏上したところ「貰ふはナイナイ 」「コハイ事コハイ事」と王后に手を振って拒絶された。
日本は、さらに、守備兵駐留を国王の要請による、としたかった。かつ、朝鮮訓錬隊強化を従来通り日本人教官主導でやろうとした。
ところが国王と王后は主権回復を意図して露・
に接近していた。王宮護衛兵を訓錬隊(日本の肝いりでつくった)と交代するように建議した内部大臣にたいして、「昨年6月[西暦では7月23日、王宮占領]以来の勅令もしくは裁可せられたるものは皆朕の意にあらず」と宣言した。
そのうえ王宮護衛のため侍衛隊(米人退役将官ダイ指導)をあらたに編成した。同時に訓錬隊連隊長にかつて壬午軍乱(大院君と旧軍の1882年の
クーデター)に際して王后の命を救った武官・洪啓薫を任命した。ちなみに洪連隊長は、王宮討入に際して一小隊でもって阻止しようとして、ソウル守備隊高松大尉に斬殺された。
日本政府は朝鮮政治の黒幕は国王を背後で操る王后であるという認識を共有した。1873年末に高宗が実父大院君の執政を廃し親政を宣言して以降、王后が閔氏一族による勢道政治をリードして、血塗られた権力闘争を生き抜いてしぶとく権力の座を守ってきたことは内外で常識であった。言いなりになる朝鮮政府を再構築するには王后を亡き者にするほかない、と参謀本部が中心になって、短絡的な謀略を練って行動に移した。

この時が最初であるかどうか知らないが、日本の近現代史ではいつも一刀両断型の極端な武断派が総理・外務・陸軍・海軍の大臣による閣議と天皇の裁決を経ないで対外事変(先制攻撃の日本的呼び名)を起こす。張作霖爆殺事件と満州事変がすぐ想起される。朝鮮においても忠臣蔵まがいの王宮占拠と王后殺害がわずかな同志たちによって計画され実行された。

外務大臣陸奥宗光(結核療養のため西園寺公望が臨時外相)と参謀本部次長川上操六(日清戦争兵站総監、陸軍中将)が首謀し、特命全権公使三浦梧楼(予備役陸軍中将)が総指揮者として、公使館書記官杉村濬の工作で、朝鮮軍部顧問兼公使館武官楠瀬中佐が日本守備隊(馬屋原少佐隊長)と朝鮮訓錬隊(宮本少尉教官)を動かし、領事館荻原警部が参謀本部の息がかかった48士(安藤謙蔵漢城新報社長を隊長とする熊本国権党と自由民権派崩れ等)を現場で指揮した。
上掲書著者・金文子は、川上参謀次長(長官は宮様)~三浦公使~伊藤総理~西園寺外相の間で飛び交った公電を追って、三浦梧楼が大本営から電信・駐兵問題解決の要請を受けて特命全権公使として朝鮮に赴任したこと、そして三浦公使が朝鮮における日本の軍隊を指揮・動員する権限を手中にしたことを明らかにした。伊藤総理は、頭上を飛び越されて渋る西園寺外相を説得したうえで、陸軍大臣大山巌にも「三浦公使より通知があり次第、何時にでも出兵するよう、大本営よりあらかじめ在朝鮮兵站司令部に訓令してもらいたいと、大本営へ照会するように」要請した。大本営参謀次長から発せられた計画を総理が追認したあとで、「大本営へ照会」せよ、とは、本来なら大山陸相が激怒するところだが、三浦も伊藤も大山も互いに減らずぐちをたたける維新からの戦友の間柄であった。
大本営が朝鮮兵站司令部に訓令を発した三日後の10月8日王后殺害が決行された。なお事件の前日、遼東半島返還の手続きが露・独・仏三国政府との間で終結した、という電報を三浦梧楼は西園寺外相から受け取っている。タイミング上、あらたな干渉のリスクがすこし下がったとはいえ、かつ在朝軍6000超を背景にしていたとはいえ、これはとんでもない政治的冒険である。こういう冒険の末に真珠湾、広島・長崎があった、と振り返ることができる。

事件の本筋だけ述べる。何も知らされていなかった内田定槌ソウル領事が西園寺外相代理に送った11月5日付機密文書を掲げる。「今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者[三浦全権公使]、これ有り。独り壮士輩のみならず、数多の良民[居留民]及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を扇動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候」 
内田領事は職務権限上ただちに関係者の嘱託審問に当たったが、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本軍人・公人の関与を隠蔽する工作を行ったことも報告している。犯行で重要な役割を担った荻原警部、堀口通訳*たちが関係者の審問を行ったという事実から、審問は口裏合わせ工作の一環だったことが分かる。

討ち入りのやり口は日清戦争直前の王宮占領と同様である。前回同様朝鮮軍部兼宮内府顧問・岡本柳之助(陸奥宗光の同郷後輩、朝鮮浪人)が別荘で蟄居中の大院君を説得し担いで王宮に突入した。大院君説得に時間がかかって夜があけてしまって、王宮侍衛隊のアメリカ人指揮官ダイとロシア人顧問サバ―チンに現場を見られ、大勢の群衆と米露公使等に異様な風体で中には血刀をさげて引き揚げるところを目撃されてしまった。大院君と訓練隊のクーデターに見せかける計画が狂ってしまった。
日本側は始末をつけるために形だけの軍法会議(佐官尉官8名)と裁判(軍人以外48名)を開いて証拠不十分で全員を無罪放免にした。朝鮮政府側は大混乱となった。三浦公使を恐れて、犯人として高官を処刑したり、詔勅で亡き王后を庶人に落としたりした。
金弘集新内閣は、王后暗殺事件と断髪令*で民衆、儒生の憤激を買い「国母復讐」「衛正斥邪」を掲げる義兵闘争を招いた。東学革命の李康季も慶尚北道で挙兵している。日本守備隊と訓錬隊が全国化する蜂起鎮圧に出動して王宮監視が手薄になったすきに、親露派はロシア公使を後ろ盾にして密かに高宗をロシア公使館に移し、新政権を樹立した。1896年2月11日のクーデターである。金弘集首相は路上で群衆に撲殺された。
*「身体髪膚、これを父母に受く」という儒教の教えによる孝道に反する。
新任の原敬公使は西園寺外相あて8月19日付報告書「朝鮮の現況及び将来の傾向に付上申」で次のように述べている。
「官民一般はもちろん在留外国人に至るまで排日の風潮すこぶる盛んにして、我が行為には其事の何たるを問わず、みな反対を試むるの情勢にこれあり候。これ申すまでもなく一両年来内政干渉の反動と、昨年10月8日王妃殺害事件とに原因いたし候」 角田文子『閔妃暗殺』より。

当然相対的にロシアの影響力が揚がった。また、国家意識が片鱗もないと日本人が見下していた朝鮮の民族主義に火が付いた。1896年、初めてハングルの「独立新聞」が発行された。

閔妃という呼称は日本人が王后を軽蔑してつけた呼び名(閔姓の妃)である。正しくは王后である。王后は読書好きで聡明だったが民衆の困窮など一顧だにせず呪術と宴で浪費をして国政の腐敗を招いた
。閔一族を高官に登用し凄惨な権力闘争を潜り抜けて来た。民衆と政敵の両方に恨まれたまさに后王、王の黒幕であった。
1897年高宗はロシア公使館から遷宮し、皇帝即位式と大韓帝国改称宣言を実行した。そして明成皇后(贈り名)の国葬を挙行した。
明成皇后は外国に暗殺されたことにより国母になった。韓ナショナリズムの母である。
明成皇后は日本帝国主義に憎悪され殺されるほど邪魔で不服従だった標しを惨殺によって証明された形になって、反日帝の烈士になる、と論理的にわたしは結論する。
韓国の対日観を反日にしぼるのは浅薄である。不平等条約を結ばされ国土を蹂躙されたうえ王宮に2度も踏み込まれて王后を惨殺された恨の記憶を、日本政府が呼び覚ますたびに韓国人は怒りが噴き出すのである。相手と立場を入れ替えてみよう。右も左もない、怒りに震えない日本人はいないことを願う。

* 領事館補堀口九万一が事件翌日に親友の漢学者に宛てた手紙が発見された。「塀を越え・・・、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」「存外容易にして、却てあっけに取られ申候」(朝日新聞 2021.11.16記事、同日に本稿更新)

 



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