青い花

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『HHhH』ローラン・ビネ

2024-05-08 08:33:04 | 日記
ラインハルト・ハイドリヒ。
ゲシュタポ長官及び親衛隊諜報部長官を務めたほか、ドイツ海軍・空軍軍人でもあった。親衛隊の最終階級は親衛隊大将および警察大将。
〈金髪の野獣〉、〈第三帝国で最も危険な男〉、〈プラハの処刑執行人〉、〈虐殺者〉、〈鉄の心臓を持つ男〉、〈地獄の業火が想像した最悪のもの〉、〈女の子宮から生まれたもっとも残虐な男〉・・・。
いくつもの物騒な通り名で呼ばれた男は、ヒムラーの右腕として第三帝国の政治警察を掌握し、様々な政治工作・迫害・虐殺に関与し、1942年5月27日、メルセデスで執務室のあるプラハ城に向かう途中に襲撃を受け、6月4日、死亡した。死因は「負傷による感染症」。

《類人猿作戦》と呼ばれたハイドリヒ暗殺計画は、ロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだパラシュート部隊によって決行された。それに続くナチスの苛烈な報復と、パラシュート部隊の青年たちや協力者たちの辿った悲惨な運命。
ハイドリヒとは何者だったのか?レジスタンスとは?英雄とは?
史実を小説に書くということの本質とは?

タイトルの『HHhH』とは、Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の頭文字をとったものだ。
長身・金髪碧眼というアーリア人の理想的な容姿に恵まれたハイドリヒだが、父方にはユダヤ人の血が流れていたと噂される。この噂は後々まで政敵から利用された。

歴史を描く小説というより、歴史を描く姿勢を問う小説といったところか。
それ故、作者ビネが唐突に物語の前面に現れ、《類人猿作戦》ともハイドリヒとも直接関係のない作家としての姿勢、歴史との向き合い方、小説の作法などを語るページが多く、スムーズな物語の進行を妨げている。
個人的に、読みやすい小説ではなかった。だが、ビネの誠実な姿勢には好感を覚えたので、何とか主人公二人が前面に出てくる場面まで読み続けることが出来た。

本当に「何とか」という感じだったのだ。
というのも、主人公のヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュが物語の前面に現れるのが、本作の半ば頃。
そこまでは、ハイドリヒについて、ナチスについて、ナチスを取り巻く世界情勢ついてなどの解説に延々と頁が割かれている。占領地におけるユダヤ人問題、チェコ国内のレジスタンス活動が骨抜きにされていく過程、それらの任務の責任者であるハイドリヒの効率的かつ冷酷な実行力・・・。
この辺は、《類人猿作戦》が立案・決行されるに至った流れを理解するためには必要な描写だ。だが、知識として必要だから読むだけで、小説としての面白みは感じられなかった。
なので、ようやくガブチークとクビシュにスポットが当たった時には、「待っていました!」という気持ちになった。

ハイドリヒがチェコスロヴァキアを統治するようになってから、国内の非合法活動は次々に摘発され、わずかに残った組織もゲシュタポによって骨抜きにされた。
この状況を打破するためには、ロンドンに亡命したチェコ政府はどうすればよいのか。
国内の抵抗運動が死に瀕しているのなら、外から加勢するほかない。
訓練の行き届いた士気の高い武装兵士に国際的にも国内向けにも華々しいミッションを成し遂げさせる。それが、《類人猿作戦》だ。
この計画の目的は、国際的にはチェコスロヴァキアを侮ってはいけないことを証明し、国内向けには愛国心を刺激して抵抗運動を蘇らせることにある。
故にビネは、ベネシュ大統領が実行部隊としてチェコ人とスロヴァキア人を選べとモラヴェッツ大佐に命令したに違いないと確信している。二つの民族の統合のシンボルとしての二人だ。
モラヴェッツ大佐が当初選んだのは、スロヴァキア人のヨゼフ・ガブチーク軍曹とチェコ人のアントン・スヴォボダ軍曹だった。
暗殺の標的として何人もの候補者の名が挙がったが、ガブチークとスヴォボダに迷いはなかった。殺害すべきは、〈プラハの虐殺者〉、〈死刑執行人〉、〈金髪の野獣〉・・・ラインハルト・ハイドリヒを置いて他にいない。
だが、スヴォボダはパラシュートの落下訓練中に負傷してしまった。
スヴォボダに代わる人物として、ガブチークが推薦したのがモラヴィア人のヤン・クビシュだった。

ガブチークは自動小銃、クビシュが爆発物という役割分担だ。
プラハの軍事博物館に残る資料から、この二人の容姿や性格の一端が伺える。ガブチークは小柄でエネルギッシュな熱血漢。クビシュは大柄で温厚、思慮深い。
陽気で外交的なガプチークと、慎重で生真面目なクビシュ。ともに好感度の高い人柄で、多くの協力者を必要とする《類人猿作戦》には、最適な人物だっただろう。
スロヴァキア人のガブチークとモラヴィア人のクビシュは、プラハに行ったことが無い。
これは二人が選ばれた基準でもあった。知り合いがいなければ、彼らの素性がばれる危険も低い。
しかし、プラハの土地勘が無いということはハンディでもある。なので、任務遂行の学習の中には、首都の地図学習も含まれていた。だが、それだけでは限界があるだろう。
全く知り合いのいない状態から、命がけの任務の協力者を得るためには、他人に好印象を与える彼らの性格は大きなプラス要因だったのではないだろうか。
彼らは現地で友達もできたし、恋人もいた。結婚を夢見たりもした。でも、死の覚悟はできていた。

私はガブチークとクビシュについては名前さえ知らなかった。
パラシュート部隊の面々がなぜ、成功しても失敗しても生還できる見込みの無い作戦に参加したのか。この絶望的な状況の中にどんな希望を見出していたのか。
ハイドリヒについての記述が重ねられれば重ねられるほど、パラシュート部隊への興味が煽られジリジリした。
ハイドリヒについてもだが、ビネは、ガブチーク、クビシュ、ヴァルチーク、そのほか《類人猿作戦》に関わった人々の記述に際し、エンタメ的な盛り上げ方は極力排除している。
それでも、物語の進行的に憶測で描かなければいけない、彼はあの時こう言っただろうとか、こんな表情をしただろうという描写を加える場面に行きつくと、必ずと言っていい程、ビネ自身が前面に出てきて、あれこれと思いを表明し出す。
どうしても「チープな比喩」を用いなければならない時には、「〇〇と僕は想像する」とか「△△にちがいない」とか付け加える。

“僕はいつものようにオスカー・ワイルドのことを考える。思い出すのはいつも同じ話だ。「午前中ずっとかかって、ある文を直そうとして、結局はコンマをひとつ取るにとどめた。午後、私はそれを元に戻した」”

ビネが本書を執筆中にワイルドと同じことを何度もした様子は頁の端々からうかがえる。
それが煩わしくなかったと言えば嘘になるが、どうしてこうもクドクドと弁明したがるのかが、《類人猿作戦》決行の場面以降、ハイドリヒのしぶとさや7人のパラシュート部隊メンバーの死の描写と共に、押し寄せる波のように理解が追い付いてきて、もらい泣きしそうになった。

ナチスやハイドリヒの資料は豊富にある一方で、《類人猿作戦》の実行者であるパラシュート部隊の資料は少ない。
《類人猿作戦》に協力した無名の人々のついての資料は猶更少ない。
彼らについては、いつ・どこで・何人殺されたという数字が情報のメインだろう。
その事実にビネが、魂が引き裂かれるほどの痛みを感じていることが、この小説の端々から伝わっている。

“この物語に協力してくれた人々は、ただの脇役ではない。結局は僕のせいでそうなってしまったのかもしれないけれど、ぼく自身はそんなふうに彼らを扱いたくない。重い腰を上げ、文学としてではなく――少なくとも僕にその気はない――あの一九四二年六月十八日に、まだ生きていた人々の身に何が起こったかを記すことにしよう。”

ここから、《類人猿作戦》に協力した無名の老若男女の残酷で悲惨な最期の記述が続く。
ビネは可能な限りの人名を記したが、それでも、それは犠牲者のごく一部なのだ。
逮捕され、拷問され、収容所送りになった人もいたし、銃殺された人もいた。
拘束される直前でかろうじて自殺した人もいたし、ガス室送りになる前に発狂した人もいた。丸ごと焼かれた村もあった。
パラシュート部隊員の血縁者というだけで罪に問われ、一族郎党すべてマウトハウゼン収容所に送られたクビシュ家の人々、ヴァルチーク家の人々もいた。

“現在、ガブチークとクビシュとヴァルチークは救国の英雄となっていて、定期的に記念祭が催されている。襲撃場所の近くには、それぞれの名を冠した通りもできているし、スロヴァキアにはガブチーコヴォという名の小さな村もある。死後、軍隊の階級も昇進しつづけている(たしか三人とも、今は大尉になっているはずだ)。それに比べて、彼らを直接的であれ間接的であれ、助けた人々はそんなに知られていないから、こういう人たちにこそ敬意を払うべきだと一所懸命頑張りすぎたせいか、すっかり消耗してしまい、無名のままで死なせてしまった、数百、数千の人々のことを思うと、罪悪感で震えてしまうのだけれど、彼らはたとえ語られなくても生きているのだと思いたい。”

この無名の犠牲者たちへの熱い思いが、ビネが苦心して資料を集め、試行錯誤しながらこの小説を描き切った原動力なのだろう。
この感想文の最初にも書いたが、この小説はお世辞にも読みやすいとは言えない。
ビネのためらいや苦悩によって小説のリズムは不規則に停滞しがちで、作品としての完成度は高くないかもしれない。それでも、そこから伝わる非人道的行為への怒りや悲しみ、作家としての罪悪感こそが、この小説の最大の魅力なのだろう。
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