青い花

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逃げてゆく鏡

2018-12-13 07:30:09 | 日記
G・パピーニ著『逃げてゆく鏡』には、ボルヘスの序文と「泉水のなかの二つの顔」「完全に馬鹿げた話」、「精神の死」「〈病める紳士〉の最後の訪問」「もはやいまのままのわたしでいたくない」「きみは誰なのか?」「魂を乞う者」「身代わりの自殺」「逃げてゆく鏡」「返済されなかった一日」の10の短編が収録されている。


“すべての現在は自分たちの手によって未来のための犠牲にされ、その未来はやがて現在となるが、またもや別の未来のための犠牲にされ、そのようにして最後の現在まで、すなわち死まで、引き延ばされてゆくであろう。”「逃げてゆく鏡」

浅学な私はボルヘスの『夢の本』を読むまで、このパピーニという20世紀初頭のイタリア人作家の存在をまったく知らなかった。
『夢の本』の中で最もアタリだと思ったのが、パピーニの「病める騎士の最後の訪問」で、この短篇は、本書では「〈病める紳士〉の最後の訪問」というタイトルになっている。騎士が紳士に変わっているせいか受ける印象も少し変わる。訳者が異なるから、というのもあるだろうが。
それは兎も角、何とも奇妙な吸引力のある作品だったので、これはこの人の他の作品も読んでみるしかあるまい、ということで本書を手に取ってみた。

この『逃げてゆく鏡』は、ボルヘスの編集した“バベルの図書館”の最終巻(全30巻)に当たる作品で、日本では国書刊行会から出版されている。
ボルヘス×国書刊行会、これでハズレなはずはないだろうという期待通り、10編すべてが大アタリの良書。装丁装画も美しい。

序文によると、ボルヘスがパピーニの作品に出会ったのは、僅か11か12歳の頃のことだそうだ。何と早熟な…。
パピーニはイタリア人でありながら、その作風はドイツ・ロマン派の伝統にあり、体調の良くない時に見る悪夢のような、曰く言い難い不安に支配されている。

登場人物はたいてい二人。
その二人というのも主人公と彼の分身と思われる人物で、小説らしいドラマチックな展開は起きず、長いモノローグを聞いているような鬱々とした気分になる。
主人公たちもその分身たちも等しくパピーニの自我の投影であり、ひたすらに主我と客我を摩擦させることで、己とは何者なのかを突き詰めていく。こう書くと随分としんどい印象になってしまうが、人物の内面の詩的な描写と場景の写実的な描写とのバランスが良く、言い回しも適度に洒落ているので息苦しさはあまり感じない。寧ろ読みやすいとさえ感じる。淡い憂鬱に彩られた不思議な作風だ。
ボルヘスの、 “パピーニのすべての作品がそうであるように、郷愁と苦悩にみちた戯れである” “この作家が度し難いほど徹底的に詩人だった”という評が、パピーニの作風を端的に表しているだろう。
パピーニが活動していたのは、人類(より正確には先進国)が繁栄の輝きから哀感漂う黄昏へと針を傾けつつある時期だ。このうっすらとした絶望の予感は、パピーニの作品を覆う病葉の色調と同系統のものである。これほどまでに極端に他者の存在しない作家でも、時代の空気には無反応ではいられなかったのだろうか。寧ろ余人より感度の良いアンテナを持っているために、少し先の未来を幻視できていたのかもしれない。


一作目の「泉水のなかの二つの顔」は、古典的な分身伝説に新しいエッセンスを加えたもの。
ポーの「ウイリアム・ウイルソン」のように主人公の破滅が明確に描写されているのではないが、だからこそ余計に怖い。魂の深い部分が死滅したまま、残りの人生を生きていくというのはどんな悪夢なのだろう。

主人公の男は、科学の分野での見習修道士を勤めていたころ住んでいた地方の小都市を再訪する。七年の歳月を経ていたが、街並みは昔と変わらなかった。男は当時一人の時間を楽しんでいた廃園を訪れた。そこにはあの泉水が、男が後にした日と同じ姿を留めていた。

“あの泉水の胸元から、久しく水の迸り出た例はなかった。水は澱んで動かなくなり、太古の昔のような相貌をとった。落葉は一面に泉水を覆い、水の底に積もった病葉は遠い神話の時代の秋を物語っているかに思われた。”

あの頃の男は、泉水をのぞき込んでは、水中にある己の顔に見入ったものだった。長い間見つめていると、それが己の肉体の一部というよりは、水底に嵌め込まれた一つの影のように思われたのだった。
かつてのように男が己の顔を水鏡に映し込むと、その隣には、もう一つ別の顔が映っていた。その顔立ちは七年前にいつも映し出されていた男の顔と完全に一致していた。振り返ると、隣にはもう一人の男が腰を下ろしていて、泉水の中を覗き込んでいるのだった。男が手を伸ばすと、彼の方も男の手を握り返してきた。きみはわたしだね、と語りかける男に、彼は躊躇いながらこう答えた。

“(略)ぼくにはわかっていた、きみが必ず帰ってくるであろうと。おのれの魂の深い部分をきみはこの泉水の底へ残していった。そしてその魂を、今日まで、ぼくは生きてきたのだ。けれどもいまは、ふたたびきみとひとつになりたい。きみに寄り添っていたい。きみと一緒に暮らして、過ぎ去った歳月のあいだにきみが生きてきた物語を、きみの口から聞きたい。ぼくは、あのころのきみと、まったく同じなのだ。あのころきみが知っていた以上には、きみのことを何も知らない。きみにはわかるはずだ。ぼくが知りたい、聞きたいと願っている、この気持が、どういうものか。どうかぼくを、ふたたびきみの道連れにしてくれないか(略)”

男は承知した。二人は兄弟の様に手に手を組んで廃園を後にした。
暫くは歓びの日々が続いた。
二つの個我は、飽くことなく語り合っては、懐かしい回想に浸った。なんせ彼はかつての自分なのだ。彼のすべてが理解できる。
しかし、回想の日々が過ぎると、男は彼との生活に倦怠を覚えるようになった。
彼が絶え間なく露わにするある種の純粋さと無知が、男には不快だった。彼の頭の中を占めている思想や理論が、男には滑稽で時代遅れに思え、同情にも似た侮蔑の念が芽生え、やがてそれは嫌悪にまで募った。

“いま、こうやってわたしが嘲笑っているこの男は、滑稽で無知なこの若者は、かつて、わたし自身であったのだ。そればかりか、若干の点においては、依然として、わたし自身でもあるのだ”

果たして人は過去の己を丸ごと愛し、受容することが出来るのだろうか。
この物語の二人の間には七年の年月が横たわっている。
七年もの年月があれば、若い人ならそれなりの経験値を積むことが出来る。それに伴って価値観も変わる。七年前の己が真善美と崇めていたものが悉く陳腐に思えてしまっても仕方がない。
そんな羞恥に赤面してしまうような過去の己が実体化し、現在の己にとっては既に色褪せてしまった詩や音楽をうっとりと賛美し、薄ら寒い理論や哲学を得意げに語りだしたらどうか。どうにかして無かったことにしたいと願うのではないか。

男はついに彼に対して憎しみの情を堪え切れなくなる。
男は彼と決別するために小都市からの出発を試みるが、その度に彼に阻まれ、憎悪と絶望感が募っていく。彼の監視を振りほどけないと知るや、男はもはや残された手段は一つしかないと思い詰めるのだった。

その日、男と彼はあの廃園へ連れ立って出かけた。
二人は泉水へと近づくと、水鏡に映る自分たちの姿をのぞき込もうとした。

“そして、わたしたちの二つの顔が寄り添いつつ、暗い水鏡の上へ浮かび上がってきたとき、やにわに、振り返って、わたしは過去のわたしの両肩をつかみ、彼の顔が浮かび上がってきた水面めがけて、その中を覗きこんでいた顔もろともに、彼の身体を押しこんだ。そして水のなかへ彼の頭を押さえつづけ、煮えたぎる憎悪をこめて、力を緩めようとしなかった。(略)やがて、彼の身体が力を失い、ぐったりとなるのを感じた。押さえつづけていた手を、わたしは放した。すると彼の身体は、水の底へ、ゆっくりと沈んでいった。憎むべき過去のわたしは、過ぎ去った歳月の、愚かしくも滑稽なわたしは、こうして、永遠に死んだのである。”

過去を殺すことで、男は現在とやがて訪れる未来だけになった。男は晴れやかな心で小都市を後にした。

“わたしこそは、おのれを殺して、そのあとになおも生きつづけている、唯一の人間である”

しかし、本当にこれで解決したのだろうか。
男は今、ある大都会で暮らしながらも、我が身のうちの何かが欠けたようなもどかしさを感じている。
何より恐ろしいのは、時間が経てば、現在の男は過去の男になり、未来の男が現在の男になるということだ。その時、現在の男はかつて自分が過去の男を軽蔑したように、未来の男に軽蔑されるだろう。延々とその繰り返しだ。
これらの軽蔑する者と軽蔑される者はすべて、同じ名前を持ち、同じ肉体に宿る、同じ人物なのだから、おそらくは何度でも同じ破局を迎える。一直線に流れる時間の中で、人生が続く限り、数年おきに現在の男が過去の男を殺し続ける、という絶望的な展開が予想される。

ボルヘスは、 “パピーニという人は不当に忘れられているのではないかと私は思う”と述べている。
これほどの傑作を生みだした作家が忘れられるのには、それなりの理由があるはずだ。近年になってボルヘスによって発掘され、多くの読者から好評を受けている理由もまた。
それらについての回答は、ボルヘス自身の “私はパピーニを読み、そして忘れてしまった。そしてそのことは、それと気づかないうちに、かえっていっそう鋭敏に作用した。忘却はしばしば記憶の深い形式にもなりうる”というのが、正鵠を得ているのだろう。
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