青い花

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別荘

2020-06-27 09:10:39 | 日記
ホセ・ドノソ著『別荘』

私がドノソの作品を読むのは、長編『夜のみだらな鳥』と、『美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー』収録の短編「閉じられたドア」につぐ三作目だ。

登場人物はベントゥーラ一族だけでも、大人14人、子供35人。そのほか、召使、外国人商人、一族の人々が〈人食い人種〉と呼ぶ原住民など。
『夜のみだらな鳥』に比べると大人数だが、登場人物も作品そのものも『夜のみだらな鳥』ほど癖は強くないので読みやすかった。

巻頭に一族の人物表が載っているが、これが名前、年齢、性別、配偶者と親子関係のみという簡潔なもので。14人の大人たちはまだしも、35人もいる子供たちを覚えられるはずはないだろうと当惑してしまった。
ところが読み始めてみると、人物が大きな動きを見せる直前に、その人物についてドノソの解説が入っているのが分かる。
これほど時間軸が不規則な物語なのに、どの人物もその人らしくない言動を選ぶことは無い。彼らは皆、与えられた役割を脱線すること無く全うしているのだ。

“心理的厚みを欠いた、現実味の無い人工物として登場人物全員を提示してきた。”

作中に『侯爵夫人は五時に出発した』という奇妙なごっこ遊びが出てくるが、物語全体が極めて人工的なごっこ遊びの舞台のようだ。
五歳や九歳の子供たちが年齢に不釣り合いなほど老成した話し方をする。作中でもっとも精神性の高いアドリアノ医師は、まるで理念を体現するマシーンのようで人情を感じさせない。ほかの大人たちは別荘の壁に描かれた騙し絵のように存在感が曖昧だ。
ドノソが、母国のクーデターに衝撃を受けて執筆を始めたこの作品を、舞台劇のように人工的なテイストに仕上げた意図は何だったのか。

『別荘』は、チリのある富豪一族がたった一日の間に崩壊する様を描いている。

ベントゥーラ一族の大人たちは、一年のうち夏の三カ月を過ごすマルランダの別荘から、すべての使用人を引き連れ、ハイキングに出発する。
マルランダは、グラミネアという繁殖力の強い植物に浸食された荒野で、秋になると銀色の綿毛で一面が多い尽くされる。一万本以上の槍で作られた境界の向こう側には、〈人食い人種〉が住んでいるという。

一族の大人たちは、自分たちがハイキングを思い付いたと思っているが、実は塔に幽閉されたアドリアノ・ゴマラの指示で、息子のウェンセスラオが巧みに誘導していたのだ。そして、計画に必要な情報は、図書館に籠りきりのアラベラが与えていた。
当日の朝、別荘に残された33人の子供たち(人物表の35人のうち、アドリアノの長女次女は既に故人)は、荒野に馬車の一団が消えてゆく様子を眺めていた。そんな彼らに、ウェンセスラオは不吉な御託を並べ続ける。

“……もう大人たちは帰ってこないから、そのうち食料は底を尽くし、蝋燭もなくなって、僕たちは途方に暮れるのさ……そうしたら人食い人種たちは、グラミネアの茎を編んで作った梯子で敷地の柵を乗り換え、呻き声を上げながら敷地に侵入して僕たちを食べてしまうんだ……”

ハイキングに出発して帰るまでの時間を、大人たちは一日と捉えているが、子供たちは一年と認識している。この齟齬が一族を混乱と衰退へと導いてゆく。
一日なのか一年なのか不明な時間の中、33人の子供たち、アドリアノ、使用人、原住民といった関係者の間で、多彩な陰謀・裏切り・虚偽・逃亡・失踪・盗み・暴力・淫行と、それに伴う立場の変動が起きる。
いくつもの企みが同時進行するが、彼らの時間は無秩序な伸び縮みをするので、辻褄の合わない現象があちこちで頻発する。

その最たるものが、カシルダとファビオだ。
彼らは荒野で子供を産み育てるが、当然のことながら一日で妊娠出産に至るなどあり得ない。
荒野の礼拝堂に潜んでいた二人は、ピクニック帰りの大人たちと最初に顔を合わせる。
ここで起きる、一日しか時間が過ぎていないと主張する大人たちと、この一年の間に飢えやグラミネアの襲来など、様々な困難を乗り越えて来たと言う子供たちとの間の、埋められない溝の描写は巧みだ。

ベントゥーラ一族の欺瞞が、もっとも愚かで残酷な形で表出するのもこの場面だ。
先祖代々近親婚を重ねてきたこの一族の掟は、物事に直接向き合わないこと、生活のすべてを暗示、儀礼、象徴として解釈することだ。それでも片付けられない問題には、呼吸するようにナチュラルに「分厚いベール」を被せてしまう。
一族が原住民から土地を取り上げ、彼らを使役することで富豪にのし上がってからピクニックの日まで、大人たちはその作法であらゆる珍事(実際おかしなことばかり起きる一族なのだ)を片付けてきた。自らの浅はかで冷酷な人間性に向き合うことなく、実に、優雅に、上品に。

この殆ど未開的と言ってもいいシンプルな行動様式は、それ故に迅速な判断が可能だ。
一族の大人たちは、カシルダとファビオから赤ん坊を取り上げると、ボロ人形として井戸に捨てる。
その上で、お前たちは『侯爵夫人は五時に出発した』を演じているうちに暗示にかかったのだと決めつける。『侯爵夫人は五時に出発した』では、一時間を一年と計算することがよくある。偽の楽しい時間の方が、現実世界の退屈な時間より早く過ぎていくのだ。
それに対し、カシルダは「あんたたちのハイキングの時間こそ偽の時間だったのよ」と反論する。
大人たちは、カシルダとファビオは気が狂ったと判断し、カシルダは修道院に、ファビオは海外に追いやることにする。二人は無理やり馬車に載せられ、その後の消息は知れない。

それは、かつてアドリアノが塔に幽閉された顛末に似ている。
アドリアノの次女ミニョンは、父親の誕生日に姉のアイーダをオーブンで焼いて、皿に盛り付けプレゼントした。
それは、アドリアノを慕う〈人食い人種〉が、彼の誕生日祝いに豚の丸焼きを振舞ったことの、悪意に満ちた模倣だった。口に林檎を突っ込まれたアイーダの丸焼きを見たアドリアノは、逆上してミニョンを殴り殺してしまった。
このカニバリズムのイメージは、物語の中で形を変えながら幾度も反復されている。
アドリアノは狂人として塔に幽閉され、二人の娘は速やかに忘れ去られた。
大人たちはこう解釈した。
アドリアノは元々頭がおかしかったのだ。なんせ、彼は〈人食い人種〉に肩入れして彼らの治療をし、彼らの病の原因は一族の金鉱から流される汚水だと主張する変人なのだからと。

大人たちは、カシルダとファビオを片付ける前に、二人から以下のことを聞き出していた。
カシルダ、ファビオ、イヒニオの三人で、倉庫から金箔を持ち出したこと。途中、マルビナが連れてきた原住民と共に馬車に金箔を積んで逃走したが、カシルダとファビオだけ荒野に置き去りにされたこと。別荘ではアドリアノの一派が原住民の解放運動を実行に移し、〈人食い人種〉が襲撃の準備を始めていること。飢えた子供たちが人肉を食べているらしいこと。

これらの始末をどうつけるか。
大人たちは、召使フアン・ペレスの進言を採用し、無法地帯と化した別荘に執事をリーダーに据えた召使部隊を送り込む。同時に自分たちは首都へ向かい、マルビナとイヒニオが外国人商人に金箔を売却するのを阻止しようとする。
フアン・ペレスは、一年ごとに執事も含めすべての召使を入れ替える別荘において、唯一毎年採用されてきた男だ。使用人の顔など一人として覚えていない一族の人々は、本人に言われるまでそれに気づかなかった。フアン・ペレスという名は、チリではありふれているらしい。
大人たちは、フアン・ペレスの心中に秘められたアドリアノへの奇妙な執着にも全く気付いていない。速やかに別荘の混乱を平定させるために、この危険人物の申し出を全面的に採用してしまう。

武器を装備した召使部隊が別荘に到着すると、虐殺と拷問が開始された。
原住民は手当たり次第に殺害された。死体の山の中には、原住民を先導していたアドリアノと、彼の警護を務めていたマウロも含まれていた。

『別荘』は、1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍の指導するクーデターが、サルバドール・アジェンデ政権を崩壊させた政変をきっかけに執筆された。
作品のテーマの一つが権力と自由を巡る闘争なのだが、アドリアノには、医師として貧困に接してきたアジェンデ大統領の人間像が投影されている。

“階下からフアン・ペレスは、マウロと警護隊を引き連れたアドリアノ・ゴマラが階段の高みに現れるのを見た。(略)先頭を切ってゆっくりと階段を上がっていったフアン・ペレスは、もっと、もっと近くへ寄るためにじっと我慢し、ほかでもない、この銃弾で相手を仕留めねばならないと自分自身に言い聞かせた。しかし、彼が階段を上がっていくにつれて、部下たちとともに槍を構えてひるむことなく前進してくるアドリアノ・ゴマラの表情を見ていると、人間的なものへの信頼と平和を求める心に貫かれた者だけが持つ凄まじい神秘がそこに浮かび上がっているのが分かった。アドリアノの目にはフアン・ペレスなど映っておらず、つまり、彼は存在しないも同然なのだ。彼のことなど目もくれないアドリアノ・ゴマラはまさに道徳的正義の化身であり、イデオロギーを超えた力、体の芯からあふれ出る力で相手の仮面を剥ぎ取ろうとしているばかりか、欲しい物を譲ってくれると言うなら自分の魂を売ってかまわないという気持ちで召使の制服を手に入れた男のさもしさを告発し、拒否しているようだった。”

もしこの時、アドリアノが、自分の体を貫いた銃弾がフアン・ペレスの発射したものだと認識したならば、フアン・ペレスの魂も少しは救われたかもしれない。
しかし、銃声は一発だけではなかった。
召使部隊が一斉に発射した銃弾によって、アドリアノの体は蜂の巣にされた。アドリアノは、誰が自分を殺したのかなど考える暇も無かっただろう。彼はフアン・ペレスに何も与えてくれないまま絶命した。

フアン・ペレスは子供たちを室内に押し込めると、弟のアガピートに監視を命じた。
しかし、アガピートの考えは兄とは違っていた。
アガピートは、ウェンセスラオ、アマデオ、アラベラと共に荒野へ逃走した。
アマデオは潜伏中に深手を負って死亡し、遺体は本人の遺言から飢えた子供たちの食料とされた。
自由を尊び、『侯爵夫人は五時に出発した』への参加を拒んだコスメは、メラニアの恨みを買い、食事に人肉を混入され、〈人食い人種〉の悪癖に染まったとして、召使から顔半分を硫酸で焼かれた。
ウェンセスラオの協力者で、コスメを図書館に匿ったアラベラは、召使に捕えられ、凄惨な拷問を受け、外国人女性に看取られ死亡した。

その間も、フベナルとメラニアを中心とする〈上の階〉のメンバーは、『侯爵夫人は五時に出発した』を演じ続けていた。
現実を虚構で覆う術に長けている彼らは、この一年の間に起きたあらゆる変事を『侯爵夫人は五時に出発した』の一部にして来たのだ。
外国人商人たちを連れて帰宅した大人たちもまた、己らの愚行の産物である眼前の惨状を、素早く『侯爵夫人は五時に出発した』の一幕と解釈した。
お茶会の最中、大人たちは、格下だったはずの外国人たちの無礼な態度に当惑し続けていた。そこに、豪華な衣装に身を包んだマルビナが乗り込んできた。

私生児のマルビナは、遺産相続権を奪われ、軽んじられてきた。彼女は一族への復讐のために、カシルダの脱出計画を利用したのだ。
カシルダは父親の仕事を手伝いながら、密かに倉庫の鍵を手に入れていた。そして、金箔を運び出す男手の必要からファビオとイヒニオに声をかけた。一部始終を目撃していたマルビナは、自分はペドロ・クリソロゴという原住民に伝手があると売り込んで同行させてもらった。
その後、マルビナは、カシルダとファビオを荒野に置き去りにして首都に出ると、金箔を元手に実業家になった。彼女は邪魔になったイヒニオを外国に追いやると、アドリアノと連絡を取り合いながら、クリソロゴと協力して、一族のあらゆる利権を裏から簒奪し尽くした。大人たちにとって、たった一日だった時間の間に……。
別荘を訪れた外国人たちは、既にマルビナと手を結んでいたのだ。もはや大人たちは、マルビナと外国人たちの商談を茫然と眺めることしか出来なかった。

ベントゥーラ一族は、いつから崩壊のレールに乗ってしまったのか。
バルビナとアドリアノの結婚を許した時からか?アドリアノを塔に幽閉した時からか?エウラリアが私生児マルビナを産んだ時からか?マルビナから遺産相続権を奪い、のけ者扱いした時からか?瓜二つの双子なのに、カシルダを醜女、コロンバを美少女と、差別した時からか?マウロが境界の槍を密かに抜き始めた時からか?……遠い昔、ベントゥーラ一族の先祖が、マルランダにグラミネアの種子を持ち込み、原住民の土地と財宝を取り上げた時からか?
いずれにしても、ベントゥーラ一族の栄華は大人たちが誇るほど盤石ではなかった。
人々のそれぞれ無関係に見える選択が、水面下でベントゥーラ一族の基盤を蝕み、荒廃した別荘が銀色の綿毛に覆われる終幕に収束する。

マルビナと外国人たちが去ると、彼等の計算通りにグラミネアの飛散が始まった。
夏が終わったのだ。
フアン・ペレスと大人たちの一部は馬車で脱出を試みるが、グラミネアの綿毛に埋もれて窒息死した。
この一年の間に、既に一度、綿毛の吹き荒れる秋を経験していた子供たちは、荒野に出るのは危険と判断し、残された大人たちを引っ張って別荘に籠った。
テラスに出たセレステとオレガリオの姿は、息子フベナルが窓越しに見守る中、銀色の嵐にかき消された。

“すぐにダンスホールには、原住民の女たちが編んだ縦縞のマントに身を包んだ大人、子供、原住民が入り混じって横たわり、クッションの間で互いに支え合うような格好で彼らが息を潜め、目を閉じ、口を固く閉ざし、ほとんど生命活動を停止させる一方、騙し絵の壁画に描かれた人間たちは、優雅な姿でてきぱきと働き、綿毛で重くなった空気に人々が窒息してしまわぬように気を配っていた。”

すべてが『侯爵夫人は五時に出発した』の劇中だった可能性を残して、物語は幕を下ろす。

第二部の第十二章で、『別荘』の決定稿を小脇に抱えて、エージェントの事務所へ向かうドノソが、シルベストレと邂逅する場面が幕間劇のように差し込まれている。
そこで描かれるシルベストレやその他のベントゥーラ一族の印象は、本編に描かれる彼らの印象とは重なる部分もあるがズレている部分の方が多い。
ドノソは作中で何度も、この作品はすべて人工物であると説明してきたが、この場面で、作者ドノソと登場人物シルベストレにベントゥーラ一族ついて語らせることで、『別荘』の虚構性を強調しているように感じた。

“この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在するものとして受け入れてもらおうとは思っていない。それどころか私は、言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在――何度も同じ言葉を繰り返すが、生身の人間としてではなく、あくまで登場人物――として受け入れてもらったうえで、その必要最小限だけを提示し、最も濃密な部分は陰に隠してしまおうと思っている。”

ドノソはピノチェト将軍のクーデターから受けた衝撃を、単なるリアリズム小説にはしたくなかったのだろう。ドノソの不安定な心情は作中にも描かれている。それも含めて、『別荘』は、優れたメタフィクションなのだ。

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