青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

パラケルススの薔薇

2019-09-12 08:06:12 | 日記
ボルヘス著『パラケルススの薔薇』は、フランコ・マリーア・リッチによる序文と、「一九八三年八月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」「等身大のボルヘス」「ボルヘス年譜・書誌 目黒聰子編」が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”シリーズの22巻目で、私にとっては23冊目の”バベルの図書館“の作品である。
“バベルの図書館”シリーズの装幀は、全巻表紙を前面に向けて並べて飾っておきたくなるほど美麗だが、中でも、前方に赤い薔薇、後方に燃える青い虎、という配置の本書は、高貴と神秘を兼ね備えた最高のデザインだと思う。

本書はボルヘス自身の作品集なこともあって、通常はボルヘスが担当している序文を、編集者のフランコ・マリーア・リッチが務めている。短くも洒落た内容で、リッチの編集者としてのセンスが光っている。

“本書はボルヘス自身にとっても驚きとなるであろう。というのも、わたしが《バベルの図書館》の館長の特権を奪って、同氏の名を叢書のなかにすべり込ませたからである。ねがわくば、著書にとっても、もちろん本叢書の読者の方々すべてにとっても、うれしい驚きとならんことを。”

随分と素敵な言い回しではないか。
私は“バベルの図書館”シリーズを読むにあたって、自分なりに読む順番を決めて表にしておいたのだが、この序文を読んで、本書こそを最後に取って置くべきだったと少しだけ後悔したものだ。
本書に収録されている「一九八三年八月二十五日」「パラケルススの薔薇」「青い虎」「疲れた男のユートピア」の四つの短編は、ボルヘスが80の齢に差し掛かって書き上げられた作品たちだ。これらの作品の主調は、「青色」と「薔薇色」で、この二色はリッチによると、“誕生と文学の色であり、天から失墜して、盲目の闇のなかに再び慰めを見出した精神の色”なのだそうだ。


「パラケルススの薔薇」は、灰から蘇る薔薇の物語。

“この薔薇を火中に投ずれば、それは燃え尽きたと、灰こそ真実だと、おまえは信じるだろう。だが、薔薇は永遠のものであり、その外見のみが変わり得るのだ。ふたたびその姿をおまえに見せるためには、一語で十分なのだ”

パラケルススとは、中世に実在した錬金術師である。医師であり化学者でもあった。彼は物質のすべてを黄金に変えることができたという。

パラケルススの工房に、夜半見知らぬ男が訪ねてきた。男はパラケルススに弟子入りして、錬金術を教わりたいのだという。
男は金貨の詰まった袋をテーブルに置くと、一輪の薔薇を差し出した。

“師は薔薇をいったん焼き、その術を用いて、灰の中からそれを蘇らせることができるとか。その奇跡を私に見せていただけませんか?”

弟子にして欲しいと押しかけておきながら、いきなり相手を試すような真似をするとは何事だろうか。いったいこの男は自分を何様だと思っているのか。奇跡を目撃するという恩恵に与るのにふさわしい何かを、これまでにしたことがあるのか。
男はパラケルススが本物の錬金術師か、それともただのペテン師かを知りたかったらしい。果たして、男はパラケルススにどちらであって欲しかったのだろう?

男が薔薇を火中に投じると、薔薇は忽ち燃え尽き、僅かな灰だけが残された。
薔薇がいったん消えてまた現れる、その有様を見せてくれるなら、私はあなたの弟子になろう、と男は言う。男はパラケルススの言葉と奇跡を待った。
そんな男に対して、パラケルススは少しも動じることなく、妙に砕けた調子で、こう話しかけた。

“そこにある灰は、さっきまで薔薇だったが、もう二度と薔薇に戻ることはないだろう”

「この目で見たことを、私も信じる」と言う者は、その目で見たことでさえ、錯覚ではないかと疑うのをやめることが出来ない。奇跡から確信を得ることができない者は、奇跡から見放される。彼が灰から蘇る薔薇を見ることは決してない。
男が去った後、パラケルススは僅かな灰を掌に載せて、小さな声である言葉を唱えた。薔薇は蘇った。


「青い虎」は、幻の青い虎と子を産むという青い小石の物語。

“ブレイクはその有名な作品の一節で、虎を光りかがよう炎と〈悪〉の永遠の原型に仕立てている。私はむしろチェスタトンのあの言葉を好ましいと思う。彼は、この上ない優雅のシンボルと虎を規定している。いずれにせよ、何百年も前から人間の脳裏に宿っているあの形象、虎の記号たり得る言葉は存在しないのである。”

「青い虎」の語り手は、ジャングルで発見されたという青い虎の捜索に失敗するが、代わりのように子を産むという青い小石を手に入れる。
小石はかき集め、ばらまくたびに増えたり減ったりするが、その数にはどんな法則も当てはまらない。どうやら、語り手は、人間精神の本質的な法則と矛盾する唯一の物体を発見したらしい。語り手は、摩訶不思議なるものの主たる魔術師の様な気分になり、見守る村人たちは驚愕と恐怖の表情を浮かべる。

“最初、私は気が狂ったのではないかという不安に苦しめられた。時がたつにつれて、いっそ気が狂ってくれたほうがいいと思うようになった。私自身の錯乱など、この宇宙に無秩序が存在することの証左に比べれば、とるに足らぬことであったからだ。仮に二足す一が二であったり十四であったりするならば、理性は狂気に他ならない。”

語り手は、小石に傷をつけたり、割ってみたりと、様々な実験を試みた。子を産む小石という、あの数学からの逸脱の中に何とか秩序を見出したかったのだ。
彼は、寝食を忘れて変化の統計を取ったが、小石の転がり方に秩序を、隠された図形を見出すことが遂に叶わなかった。小石たちは算数や蓋然性の計算に拒否の態度をとったのである。四十個の小石が割られると、九個の商を生じることもあった。同じ様に割られた九個が三百個を産むこともあった。数が無秩序である一方で、色はつねに、あの青であった。

一月後には、語り手は、この混乱は収拾できないことを悟った。
彼はモスクの門をくぐると、この重荷から解き放って下さるようにと祈った。そして、何処からともなく現れた盲目の乞食に、乞われるままにすべての小石を恵んだのだった。

「パラケルスの薔薇」と「青い虎」は、奇跡を試すことで、奇跡からはじき出された者の物語であるようだ。


「等身大のボルヘス」は、1973年にブエノスアイレスの国会図書館において行われたインタビューの転載だ。
インタビューは、幼年期の文学との最初の出会いについてから始まり、受けた教育、好きな言語、文学、ブエノスアイレスという街などが、ボルヘスの人格形成と作品にどのような影響を与えてきたかが、理解できる内容になっている。

幼年期から英語とスペイン語の二か国語を操り、ポーの短編、デュマやサー・ウォルター・スコットの小説、ホルヘ・イサアクスの『マリア』、スペインの古典的な作品などを読み、中等教育時代にはラテン語でセネカとタキトゥスを読んでいたという神童ぶりには感嘆を禁じ得ない。そんなボルヘスは、自身の短所について、嫉妬深さ、度を越した虚栄心、独断的になる傾向、と答えている。

インタビューは、ボルヘス自身による作品の検討を経て、ボルヘス作品の主要テーマ、〈迷宮〉〈鏡〉〈円環〉〈虎〉〈ナイフ〉〈ブエノスアイレス〉について、いつ、どこで、なぜ、それらのテーマが現れたのかを一つ一つ解き明かしていく。
〈虎〉は、本書収録の「青い虎」のテーマでもある。
インタビューにおいて、ボルヘスは、幼少期に近所の動物園で見た大きなベンガル虎の想い出から「虎たちの黄金」を書きつけたと解説する。物理的にではなく感情的に、ボルヘスが初めて見た色は虎の黄色であり、それは、殆ど視力を失った現在も見間違えることの無い、ただ一つの色なのだそうだ。
更に、ボルヘスは、虎には美と力という観念が備っていると述べる。ボルヘスの妹は、「虎は愛のために造られたのよ」と述べ、カンシノス=アッセンスは、「私は優しい虎になろう」と謳った。
また、チェスタトンは、悪の起源を語った詩で、「虎は恐るべき優雅の象徴である」と謳っている。そこでは美の観念と残酷の観念が結びついているのだ。ボルヘスの虎は、チェスタトンの虎に近い存在であるようだ。


「ボルヘス年譜・書誌 目黒聰子編」のなかに収録されている「個人図書館〈Biblioteca personal〉について」は、アルゼンチンの出版社がキオスクで売る為の本の企画として、ボルヘスに作品の選択と編集を依頼した「個人図書館」という名作選のリストである。
叢書は1985年5月から週刊で一巻ずつ刊行され始め、1986年、ボルヘスの死によって未完に終わった。
リストに記された錚々たる作品群(日本文学からは『伊勢物語』が選ばれている)は、すべて、ボルヘスが夥しい数の作家と作品を検討し、何度もリストを練り直した、云わば文学の精鋭部隊だ。これらがキオスクで売られるなんて、この企画自体が一つの奇跡のようである。
ボルヘスは、毎夜遅くまでこの企画のための仕事を続けていたそうだ。リストを見ていると、深夜、古いアパートの一室で机に屈み込むボルヘスの背中が眼前に浮かんでくるようだ。リスト自体が一つの作品といってもいい。
そして、本書の序文の最初の一文、ヴォルテールの『アマベッドへの手紙』の流麗なくだりが心に蘇る。

“ビルマの神とブラマ神に、あなたのご寿命が百と三十まで永らえますよう、お祈り申しあげます。齢これを過ぎれば、もはや重荷となりましょうから”
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