青い花

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ヴァテック

2019-10-10 07:47:23 | 日記
ベックフォード著『ヴァテック』(上・下)は、上巻にはボルヘスによる序文と正編、下巻には挿話二編が収録されている。
本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館”シリーズの23巻目にあたる。上・下合わせて一つの巻という勘定だ。私にとっては、25冊目の“バベルの図書館”の作品である。

ボルヘスが序文において、“本質的に、『ヴァテック』の寓話は複雑なものではない”と述べている通り、正編・挿話編とも、強大な権力を持つ王族が欲望の赴くままに悪逆非道の限りを尽くし、最後は火の地下迷宮で永劫の罰を受ける、というかなり分かり易い勧善懲悪のスタイルをとっている。それにも拘らず、本作は大人が読んでこそ面白いと思える物語なのだ。
ボルヘスに言わせれば、ベックフォードの描いた火の地下迷宮は、“文学に現われた最初の真に恐ろしい地獄”だ。地底の宮殿に邂逅した三組の王族が、心臓が燃え上がる寸前までそれぞれの来し方を語る。この永久に逃れることのできない地下迷宮を中心に、主人公たちの三組三様の現世での罪深い所業が、闇に煌めく曼荼羅のように綴られていく。

ウィリアム・トマス・ベックフォードは、バイロンから「イングランドで最も豊かな御曹司」と羨望された大富豪だ。
幼少期よりラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の個人教授を受け、モーツァルトにピアノを習うなど高い教育を施された。16歳でジュネーヴに留学すると、法学、哲学、物理学、園芸学を修めた。『千夜一夜物語』への憧れが高じて、アラビア語、スペイン語、ポルトガル語も習得した。
父親の莫大な遺産を受け継ぎ、労働の義務から解放された彼は、美術品や稀覯本の蒐集、芸術評論の執筆、建築などの道楽に耽り、晩年は自らが建築したフォントンヒルの館に引き籠って暮らした。
『ヴァテック』は、そんなベックフォードが巨万の富によって培った知識と多趣味を駆使して描いた、彼なりの「アラビアの物語」である。信じられないような話であるが、ベックフォードはこの大作をたった三日二晩で書き上げたのだ。
本書について、ボルヘスは“トマス・クインシーやポーの、シャルル・ボードレールやユイスマンスの悪魔的な光彩を予示している”と評し、『ヴァテック』の影響を受けて生み出された作品として、バルテルミ・デルブローの『東洋全書』、ハミルトンの『ファカルディン家の四人』、ヴォルテールの『バビロンの王女』、ガラン版『千一夜』、ピラネージの「架空の牢獄」を挙げている。また、『ヴァテック』は、バイロンの枕頭の書であったそうだ。


正編の主人公、アッバース朝九代カリフのヴァテックは、ムータシムの息子にして、ハールーン・アッラシードの孫であった。
少壮にして英邁な素質に恵まれ、容姿は威厳に満ちていたので、人民は王の御代は末永く栄えるだろうと、熱い期待を寄せていた。
その一方で、贅沢三昧にかけては、先代のどんな王をも凌いでおり、快楽の追及への情熱は留まるところがなかった。彼は現世の五つの欲望を満たすために、五つの宮殿を建てたのだった。
第一の宮殿は、〈果てなき宴〉あるいは〈飽くなき宴〉と呼ばれた。昼夜を問わず、どの卓も美味・珍味の料理が所せましと並べられ、百にものぼる泉からは、極上の酒が滾々と湧き出て、枯れることがなかった。
第二の宮殿は、〈メロディーの神殿〉あるいは〈魂の美酒〉と呼ばれた。そこには、当代に並びない音楽家と詩人が住み込み、楽才を磨き上げ、至る所で歌声を響かせていた。
第三の宮殿は、〈眼の楽しみ〉あるいは〈想い出のよすが〉と名付けられた。館内には世界中から集められた山のような芸術品が整理された展示室があり、別のところでは、大自然の宝庫から集められたあらゆる宝が見られた。
第四の宮殿は、〈香水の館〉あるいは〈快楽への誘い〉と呼ばれた。いくつもの室に分かたれた館には、香を放つ松明やランプがともされ、広大な庭園に降り立つと、無数の花が咲き誇る茂みから甘い芳香が立ち上るのだった、
第五の宮殿は〈喜びの閑居〉あるいは〈危険な館〉と呼ばれた。そこでは、天女のように美しく優しい娘たちが群れを成して、客人を喜ばせるのだった。

ヴァテックは邪眼の持ち主だった。
ひとたび彼が怒り狂うと、片方の眼が恐ろしく燃え輝き、不幸にしてその眼に見据えられた者は、にらみ倒されて、時には息絶えることさえあった。

ヴァテックは該博な知識にも恵まれていた。
が、どんな代償を払ってでも、正しいのはいつも自分でありたかった彼は、意見の合わない学者たちは贈り物で黙らせ、それでも服従しない者は投獄した。それは神学論争においても変わらなかった。多くの信仰深い信徒たちが彼に迫害された。
さらに、母親カラティス大后の影響で占星術に凝りだしたヴァテックは、星読みのために天に届きそうな高塔を建てた。

第七天から下界を見ていたムハンマドは、ヴァテックの傲慢な振る舞いに立腹しながらも、「やらせておけ」「あの男の狂気と神をも恐れぬ冒涜がどこまでゆきつくは見届けよう」と精霊たちに申し渡すのだった。

星辰が、未知の土地からやってくる一人の男が行う一連の奇跡を予告する。
予告の暫く後に、サーマッラーの町に恐ろしい形相の商人が現れる。ヴァテックの前に引き据えられた商人は、王の邪眼にも動じることなく、持参した数多の珍品の中から見知らぬ文字が刻まれた一振りの宝剣を売り付け、間もなく姿を消す。

不思議なことに、宝剣の文字は日によって配列が変わった。
ヴァテックの布告で集まった多くの学者の中から、一人の長い髭の老人が宝剣の文字を解読する。それは最初の日には、《われらは、ものみな巧みに造られる場所で造られた。ものみな驚異であり、ものみな地上最大の王に似つかわしい地では、われらはとるにたらぬ驚異にすぎぬ》であり、次の日には《無知たるべきことを知らんとしたり、自己の力に過ぎたることを企てんとする者に災いあれ》だった。
賢明な老人は、これ以上王の怒りを買う文字を判読してしまう前に姿を消す。その後も宝剣の文字は変わり続けたが、誰も読み解くことができなかった。ヴァテックは魔術に耽溺する。

サーマッラーの町の数千マイルのところにある高山で、ヴァテックはあの商人と再会する。
商人はゾロアスター教徒だった。
ゾロアスター教は、回教徒にとっては邪教である。邪教徒(ジアウール)は、ヴァテックに、ムハンマドの信仰を捨て、子供を五十人生贄に差し出すよう慫慂する。そうすれば、地下の火の宮殿が彼に開放されるだろう。宮殿の巨大なドームの下で、世界を支配出来るソロモンの護符、アダム以前の歴代スルタンの財宝、ジャン・ベン・ジャンの王冠を手に入れることができるだろう。
火の宮殿に魅せられたヴァテックは、臣下の子供の中から優れた者を五十人生贄に捧げるが、火の宮殿への道は開くことがなかった。
ヴァテックは、さらに人民を大量虐殺し、臣下の財産を取り上げ、贅を尽くして王宮を飾り立てる。回教徒の血の香りに満足したジアウールによって、地下宮殿の入り口がイスタカールにあることが示されると、彼は言われるままに豪奢な隊列を組んでイスタカールを目指すのだった。

ヴァテックは、旅の途中で出会った美少女ヌロニハールに恋をする。
ヴァテックから与えられる快楽に目が眩んだ彼女は、父も婚約者も捨ててヴァテックについて行く。イスタカールまでの道中、彼らは気まぐれに宴を開いては、残虐な余興を楽しむのだった。

ヴァテックは、千の罪で真っ黒になった魂を抱いて、イスタカールの廃墟に辿り着く。
ジアウールの声が聞こえ、大地が開けると地下へ続く階段が現れる。ヴァテックとヌロニハールは、手に手を取って地下に降りる。降りた先には豪壮な宮殿があり、中の回廊では蒼ざめた人々が右手を心臓側の胸に充て、無言でさ迷い歩いている。この有様は一体何なのか?
ヴァテックとヌロニハールが奥の院に入ると、無数の王座があらわれる。王座には、シュレイマーン・ブン・ダウード(ダヴィデの息子ソロモン)を始めとするアダム以前の罪深き王たちが、右手を心臓の上に充て、骨と皮ばかりになった哀れな姿で座している。その最高位には、優美な手に王笏を持った高貴で端正な顔の青年が座っている。彼こそが、地獄の魔王イブリースなのだった。イブリースの崇拝者となった者は、裁きの時が訪れた瞬間、胸が水晶のように透明になり、未来永劫心臓を焼かれることになる。

ジアウールに唆されて、地獄に落ちてしまったことを知ったヴァテックとヌロニハールは、絶望のあまり息も絶え絶えになる。
二人が広間からよろめき出ると、無数の妖魔たちが彼らにひれ伏す。二人の歩みに合わせて回廊の扉という扉が開き、中からは財宝や豪華な料理が見え、妖魔たちの合唱が聞こえる。けれども、二人にはすでに好奇心もなければ貪欲もなかった。
二人は豪華な飾りでおおわれた宮殿の中をさ迷い歩き、五人の美しい男女が囁きあう小部屋に辿り着く。彼らも裁きの時を待つ身の者たちだった。ヴァテックとヌロニハールは、裁きの時を待つ間、彼らとそれぞれの身の上話を語り合うことになる。

五人の男女のうち、「アラーシーとフィルーズカーの物語」と「バルキアローフ王子の物語」は下巻の挿話編に収録されている。

「アラーシーとフィルーズカーの物語」は、ホラムズのアラーシー王子が、森で命を助けたシルヴァーンのフィルーズ王子に、友情を超えた愛情を抱いたことから道を踏み外してしまう物語。
アラーシーは、フィルーズの邪悪な性根に気づきながらも、惹かれる気持ちを抑えられない。フィルーズに唆されるままに、身も心も美しい婚約者を執拗に貶め、国に災厄を巻き起こしてしまう。途中、フィルーズが女性であることが発覚するが、それにより二人の下劣な行為は、益々歯止めが利かなくなってしまうのだった。

「バルキアローフ王子の物語」は、真実を語らせる魔法の杖を持つ妖精ホマユーナーを妻にしたベルドゥーカーの漁師バルキアローフの物語。
バルキアローフの果てしない偽善と色欲の物語の中に、ホマユーナーの物語、バルキアローフの義姉の物語、バルキアローフの娘ライラーの物語が入れ子式に組み込まれている。
ホマユーナーは、助けを必要とする者に善を施すために地上に降り立ったのだ。が、人を見る目が決定的に欠けているために、善意が悉く裏目に出てしまう。彼女の助力は、元々享楽的で、詐欺師のように口の達者なバルキアローフの性根を腐らせ、加速度的に残忍性を開花させてしまうのだった。

「カリーラ王子とズルカイース王女の物語」は、双子の兄妹の近親相姦の物語だが、現在発端の部分しか残されていない。

話を正編に戻す。
最後の宣告が下されると、彼らの心臓は燃え上がり、希望という天の恵みはすべて失われた。

“ヴァテックはヌロニハールの目に、怒りと復讐に燃える炎しか見ません。ヌロニハールはヴァテックの目に、憎しみと絶望しか見ることはありません。その時まで友であり、やさしく抱き合っていた二人の王子は、慄え戦きながらお互いをつきはなしました。カリーラと彼の妹はおたがいを呪う身振りをしました。彼らはみな、身の毛がよだつほど体をねじまげ、押し殺したような叫びをあげて、自分自身への恐怖をあらわしてみせるのでした。彼らはみな、呪われた人の群れに入りこみ、そこで未来永劫の苦しみを抱えて、さまよい歩きました。”

これが、天をも恐れぬ残酷非道を重ね、創造主が人間の知識に課した限界を超えようした者たちの最期の姿だった。お互いへの愛情さえ失い、水晶のように透明な胸に燃える心臓を抱えて、亡者の一群としてさ迷い歩く姿は、陶然とするほど美しく神秘的だ。
三つの物語の中では、「バルキアローフ王子の物語」が、入れ子式の構成と登場人物のリアルな性格造形、随所に散りばめられたブラックユーモア等、完成度が最も高いと思った。それでも私が一番好きなのは、ヴァテックが主人公の正編だ。ヴァテックは圧倒的な権力と邪眼、唯我独尊的な思考回路などが、現代人から遠く離れた神話的な人物である。三組の王族の中では、悪のスケールが頭一つ抜きん出ている。カリスマというのか、共感も同情もわかないが故にひどく惹きつけられた。
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