MBSさんのちちんぷいぷい木曜日のコーナー、楠雄二朗(くっすん)と河田直也アナが、歩いて歴史ポイントを訪れ、現地の人と触れ合うコーナー『昔の人は偉かった』の第17章『東海道五十三次の旅』23宿目~25宿目のまとめ。

【23宿目】 2020年01月16日(木)放送 

旅の内容:●藤枝宿  島田宿朝ラー誕生秘話?!■花嫁さんの挨拶回りとオオヤッコ川越え川留めで潤う宿場

スタートは静岡県藤枝市・藤枝宿[交番前]。チェックポイントが島田宿で、目標点は静岡県島田市・大井川。約12キロのコース。

午前8:00、静岡県藤岡市、藤枝宿にある交番の前からオープニング。交番前にある広重の藤枝宿の絵の解説看板で、前回の旅を振り返り、次なる目的地・島田宿の絵をフリップで確認する。平たく言うと、大井川を渡る人々の絵。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」のキャッチコピーでおなじみ、東海道屈指の難所。

 

午前8:10、快調に歩きだした2人が朝一番に出会ったのが、自転車に乗ったキャップ姿の地元のおとうさん。囲碁の場所取りに行くとのこと。「碁だか四だか分かんないけどね。」と、囲碁ジョークがさく裂。

 せっかくだから藤岡市の名物をうかがうと、朝ラーメン、略して『朝ラー』がはやっているとか。

 

スタートから1キロ、午前8:20、おとうさんに教えてもらった、『朝ラー』の店に到着。まだ開店前で、お客さんが並んでいる。

 

午前8:30、開店とともにお店に吸いこまれる2人。藤枝名物『朝ラー』発祥の店・『マルナカ』にて朝ラー。河田アナ・くっすんともに温かい『中華そば』を食べる。カツオ・豚肉・昆布などでとったスープで、朝の胃袋にやさしいあっさりしょうゆ味。

 

 20~30年前からのお店のファンのおとうさんは、最初に温かい中華そばを食べてから、冷やしを食べる。通の食べ方を見習い、2人も『冷やし(中華そば)』を食べる。ワサビが入っているのが、斬新。そして、一口スープを飲めば、味の違いは歴然。とーっても甘い。

 砂糖の入っている甘口の冷やし中華ラーメンは、マルナカ初代店主が大正時代に考案した。

 

 現在、藤岡市内では約20店舗で朝ラーメンを提供している。

 お店の方に、朝ラーメンの成り立ちをうかがう。

 朝ラーメンの提供は、昭和の初めごろから。藤枝あたりでお茶の取引が、午前3:00から始まって、午前6:00ぐらいに終わっていた。早朝に仕事を終えるお茶業界の方々に、お待たせせずにラーメンを食べてもらおうと、開店時間をどんどん早くしていった結果、朝ラーメンが生まれた。「ここで働いたら、すごく健全というか、早起きでいいですね。」とくっすん。

 

 『朝ラー』×2杯で、いきなり食べ過ぎの2人。

午前9:40、

スタートから2.5キロ、江戸時代に東海道を行き交う旅人に大人気だった、名物食品を販売する『喜久屋』を取材する。喜久屋はJR『藤枝駅』前にあり、お弁当やお惣菜を販売している。

 

 店主の村松さんに、自慢の藤枝名物についてうかがう。

 店頭に黄色い御飯のオニギリが並んでいる。その名も、『染飯(そめい)』といい、クチナシの実で色づけしている。クチナシと聞いて、「渡哲也ですよね?」と返す河田アナ。どんな歌でしたっけ?と、とぼけながら、なんとなく『くちなしの花』のサビを歌いあげる。

 

 店主さんがクチナシの実を水中で割ると、水はキレイな黄色に染まる。

 クチナシの実は古くから漢方薬として知られ、足腰の疲れを癒すと旅人の評判となった。江戸時代の染飯は、うすく伸ばした小判型だった。

 

 さっそく店内で染飯をほお張る2人。格別強い味や香りがあるわけでなく、ほんのり塩味で最後に少し香りが残るくらい。

 江戸時代から続いた名物も、一時期廃れたことがあり、昭和45年頃に昔の味を再現して販売し始めた。

 

 お店を出て、ますますお腹いっぱいの河田アナ、逆にお腹空いてきたというくっすん。その言葉通り、さらに道中、『唐揚げ専門 はっぴ商店』でからあげを買ってつまむくっすん。河田アナはお腹いっぱいなので、匂いだけおすそ分けしてもらい、残りはスタッフさんが平らげる。

 

 唐揚げ屋さんの店長さんに、サインをお願いされる河田アナとくっすん。「我々のことを知っていただいているんですか?」と問うと、「ホントは知らないんですけど・・・。」と正直なてんちょうさん。

 

スタートから6キロ、静岡県藤枝市から、島田市へ入る。

 

CM明け・・・午前11:40、静岡県島田市。放送しづらい生々しい、お金の話しをしながら歩いている2人。

 

スタートから9.5キロ、島田宿[本陣跡]に到着。島田宿は、江戸時代に本陣3軒・旅籠50軒が建ち並んだ、全長約1キロの宿場町。

 島田宿の約2キロ西に大井川があり、京都方面を目指す旅人は増水して渡れないときは、宿場に足止めされて賑わった。

 

スタートから10.5キロ、大井神社に到着。大井川の恩恵に感謝し、水害がないことを祈り建立された神社。

 

 本殿を参拝し、境内にある本殿への参道の脇にある、大奴(おおやっこ)の銅像の前で、神社を中心として行われる奇祭について、河田アナが説明する。

 『島田大祭 帯まつり』で、3年に1度・10月に開催されていて、直近では2019年。その歴史は1695年からと古く、神輿渡御や大名行列で大変賑わう。お祭りで活躍するのが、奇抜な恰好をした大奴。

 

 お祭りの役員をされている弓岡さん、お祭りで大奴を務めている市川さんに来ていただき、大奴のパフォーマンスと解説をしてもらう。

 左右にド派手な帯を巻いた、大きな刀を腰に下げながら、独特な動きで参道をゆっくり進む、大奴。右手で魔を祓いながら、足で魑魅魍魎を踏みしめるので、見物客にご利益をもたらす。

 

 お祭りでは、25人のも大奴が町を練り歩く。当初の大奴は、神輿の警護役で色とりどりの帯を下げることもなく、飾り気はなかった。

 江戸時代のこと、島田へお嫁さんが嫁いでくる際、宿場披露で重たい帯を持っての挨拶回りは、相当負担になった。そこで、お嫁さんを気遣い、代わりに大奴が帯を持って宿場披露をおこなった。以来、大奴は変貌し、島田には競うように高価な帯が自然と集まり、全国から商人が流行りの帯を見にきたとか。

 

 帯を巻いた刀の重さは、左右合わせて約15キロもあり、河田アナとくっすんもビックリ。祭りのときは、15キロのウェイトをつけた上で、3~4キロを練り歩くので、とーっても大変。

 2年後の祭りは、是非見にきてくださいと弓岡さん。

 

午後2:10、後はゴールを目指すのみ。

 

東海道を西に歩き、

午後2:40、スタートから12キロ、目標地点の大井川に到着。静岡県の島田宿と金谷宿の間を流れる大井川は、江戸時代に橋がなくて船の渡しも禁止されていた。ゆえに、この川越えは東海道最大で最大の難所とされた。

 

 大井川の堤防沿いの歩道で、島田市博物館の学芸員・朝比奈さんに、大井川越えの浮世絵についてうかがう。

 川幅が約1キロあり、上流にダムができて昔より水量が減っている。

 

 江戸時代に橋を作らなかった理由として、有力な説を3つ教えてもらう。

 ①戦のときに、江戸が攻め込まれないから。

 ②当時の技術では、大水に耐えうる橋を作ることができなかったから。

 ③橋がないと、川留めの際に島田宿と金谷宿が潤ったから。

 ③の説で、『昔の人もお金儲けを、一生懸命生きていくために考えていた、今のくっすんといっしょですね。』と河田アナ、即肯定するくっすん。日々考えることはお金のことばっかりで、今日の歩いている最中もそう。

 

 大井川を越える際に活躍したのが、川越しの案内人。島田宿には300人以上いたとされ、大井川のすぐ近くに、待合所や川会所などの川越し業務を行う施設が復元されている。

 

 川会所は、川越しの料金を払う場所で、料金所の人の等身大フィギュアが、2体配置されている。

 そのフィギュアの前に料金表があり、川の水位によって料金が変わる。深さ4尺5寸を越えると、川留めとなる。最長で、28日間の川留めの記録が残る。

 

 一般の人は、おんぶや肩車をしてもらって川越えしたが、身分の高い人は、輦台(れんだい)と呼ばれる専用の台に乗って越えた。輦台の種類もピンキリで、様々な種類がある。

 一番お安いのは、ハシゴのような輦台で、河田アナが乗り方をうかがうと、小学生がきたときには自分で乗り方を考えて乗ってみなさいと言っているとのこと。

 

 というわけで、外にハシゴ型輦台(5段)を出してもらって、2人は考えて乗ってみることに・・・。

 河田アナの考えは、ハシゴの真ん中にお尻を入れて、足を組んで座る乗り方。見た目は正解かのように安定しているが、いかんせん河田アナのお尻が挟まれて痛い・・・不正解なり。

 くっすんの考えは、ハシゴの中央の段に股を入れて、立った姿勢の乗り方。いかんせん股間が痛いので、不正解なり。

 

 朝比奈さんが正解を実演、ハシゴの一番後ろの段にお尻を乗せて、一番前の段に足を置く。さすれば、お尻も股間も痛くない。

 最後に、朝比奈さんに通行手形を書いてもらい、島田宿の通行許可をいただく。

 こうして、東海道五十三次・23宿目の島田宿への旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:静岡県藤枝市・藤枝宿[交番前] →朝ラー: 『マルナカ』 (1km) → 『喜久屋』(2.5km) → 『唐揚げ専門 はっぴ商店』 → 島田宿[本陣跡] (9.5km) → 大井神社 (10.5km) → 目標地点:大井川 (12km) → 川会所

 

 

 

【24宿目】 2020年02月06日(木)放送 

旅の内容:●島田宿  金谷宿▲長州藩御用達の宿

スタートは静岡県島田市・大井川橋。目標点は静岡県島田市・金谷宿[佐塚屋本陣跡]。約5キロのショートコース?。

午前8:00、静岡県島田市にある、大井川橋のたもとからオープニング。河川敷の下から駆けあがって、くっすん登場。朝から快晴だけど、風が冷たい。

 

午前8:10、川沿いの広い砂利道を歩き、大井川の下をくぐる。

 

スタートから2キロ、午前8:40、広重の東海道五十三次・金谷宿の浮世絵が描かれたとされる場所に到着。フリップで浮世絵を確認すると、大井川を渡り終えた人たち、もうすぐ渡り終えようとしている人たちが描かれている。大井川の向こうに広がる河原、その奥に金谷の山並みが見える。

 現在の同じ場所を見てみると、大井川が見当たらない。今は昔と違って、上流にダムができて水量をコントロールしている。水量は減って、風景が大きく変わった。

 

午前9:30、金谷宿を目指して、旧東海道にもどる。

 

スタートから4キロ、輦台に乗って大井川を渡る、身分の高い女性の描かれた看板のある、金谷宿に到着。金谷宿は、江戸時代に本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠50軒が建ち並んだ。

 

スタートから5キロ、目標地点の金谷宿[佐塚屋本陣跡]に到着。金谷宿に3つあった本陣のひとつで、現在は佐塚書店という本屋さんになっている。

 

 佐塚本陣の16代目・17代目親子に御挨拶し、代々伝わる品を見せていただく。”長門少将”と書いてある木札で、長州藩の毛利家が本陣に泊まった際に掲げていた。大名はどこの宿に泊まるかだいたい決まっていたらしく、佐塚屋本陣は長州藩のごひいきの宿だった。

 

 最後に、16代目に通行手形を書いてもらい、16代目と17代目に金谷宿の通行許可をいただく。

 こうして、東海道五十三次・24宿目の金谷宿への旅を無事終えた・・・。

 

だがしかし、スタッフさんから撮れ高が少なすぎるから、もうひとつ先の宿まで行っていただきたい、とお願いされる。まだ午前10:00と、時間もまだまだ残っている。

 

というワケでダブルヘッダー・・・

【25宿目】

 

旅の内容:●金谷宿  日坂宿石となりて子を救う母★厳しい険しい小夜の中山で疲労困憊


目標点は静岡県掛川市・日坂宿[山英 農産物加工場]。24宿目と合わせて、約15キロのコース。

気持ちを切り替えて歩く2人。

 

町を抜けると、

午前11:10、

スタートから6.5キロ、お茶畑の横の道を歩く。抜け目ないくっすんが何かを見つける。くっすんの指差す方を河田アナが見やる。すると、とある山の木が刈り取られて、残されている木々は漢字の『』と読める。静岡茶王国のアピールに驚かされる2人であった。

 

スタートから8キロ、旧東海道ゆかりのあるモノを見るため、東海道から一旦外れる。

 

午前11:50、『元祖 小泉屋』というお店の裏に回る。

スタートから9キロ、『夜泣石(よなきいし)』の前に到着。

 小泉屋さんの女将・小泉さんに、夜泣石についてお話しをうかがう。

 昔は旧東海道の真ん中に転がっていた石。明治天皇行幸の際に場所を移され、現在はココに祀られている。

 

石となりて子を救う母

 約1000年前の夜、旧東海道を歩いていた身重の女性が山賊に襲われた。女性は殺されてしまい、赤ん坊が生まれて取り残された。こどもを助けたいという一心で、母の魂がそばにあった石に乗り移り、人の助けを求めるように泣いた。

 近くにあったお寺のお坊さんが、石の泣き声を聞きつけて、赤ん坊を助けることができた。

 

 残されたこどもは、母のお乳がないために、昔から伝わる水あめをなめて育ったという。その昔ながらの水あめを、小泉屋にていただく。もち米と麦芽糖だけを煮詰めて作った『子育飴』で、大きなツボに入ったネトネトのアメを、棒でからめとって舐める。

 

CM明け・・・午後1:15、静岡県島田市。夜泣石から引き返して、旧東海道への分岐点となる山道へ入る。『小夜の中山』と呼ばれる、かつて夜泣石があったとされる峠にアタック。

 

スタートから10キロ、河田アナが小夜の中山について解説しながら、坂を上っていると、くっすんに「しゃべれてなさ過ぎですから。」とばっさり斬られる。さらに「昔はもっと、もっとこんな坂道でも河田さんは流ちょうにしゃべれてたのに・・・。」と続けるくっすん。

 

 中年のおっさんには、ちと厳しい坂。長い急な坂で、くっすんの例のスイッチが入る。「もうこういうときはね、河田さん。一瞬で苦しみを終わらせるんです。走るんですよ・・・。」などと言いつつ、河田アナも勧誘したが当然断られたので、ひとり奇声を発しながら坂を猛ダッシュで駆け上がる。

 その先で、やはりくっすんが転がっていたが、河田アナは何事もなかったかのように通りすぎる。追いかけてくるくっすんを、しばし放置。

 

 峠にある家に住んでいる、おかあさんに出会う。お家の周りにあるお茶畑を所有しており、霧がついて美味しいお茶ができるとのこと。峠に住んでいても、良い道ができて車もあるので、生活に不自由してない。

 

 上り坂の途中、静岡県島田市から掛川市へ入る。「掛川市に、入ったぞ~。」と、元気のない声でくっすん。

 

 『小夜の中山』の頂上で、「こんな坂道走るなんて、バカですよ。」と自分を戒めるくっすん。左右にお茶畑の広がる、坂道を下る。

 そんな最中、広重の日坂宿の浮世絵を、フリップで確認する。右手に向かって、めちゃくちゃ急こう配の峠道が上っており、坂の下にさりげなく?置かれている夜泣石は、旅人に注目されている。

 

午後2:30、

スタートから13.5キロ、日坂宿の浮世絵の描かれた場所で、小夜の中山峠にある『浮世絵美術館 夢灯』の館長さん・武藤さんと落ち合い、浮世絵について解説してもらう。

 そこには『夜泣石跡』という石碑があり、間違いない。2人が今まさに下ってきた坂が、日坂宿の浮世絵に描かれている急こう配の坂であり、実際より角度をつけて険しさを強調している。

 浮世絵の奥に小さく描かれている山は、粟ヶ岳(あわがたけ)といい、夜泣石跡からは見えない。道中気になった『茶』と書かれた山である。

 

武藤さんとお別れし、進むこと500メートル、

急な下り坂が目の前に現れ、愕然とする2人。下り坂の急な具合が、視聴者に伝わっているだろうか?という河田アナ。そこで、坂に横たわったくっすんが、体を張って転がっていく。かなり勢いよく転がり、本人はおろか、河田アナ・スタッフさん・視聴者をヒヤヒヤさせる。

 

 『小夜の中山』を越えて、一安心。

午後3:00、スタートから14.5キロ、日坂宿[本陣跡]に到着。金谷宿は、江戸時代に本陣1軒・旅籠33軒が建ち並んだ。人口約750人の、こじんまりとした宿場だった。

 

 ご近所に住む、下校中の小学3年生の男の子に出会う。やっぱりお茶が好き。将来の夢は学校の先生になることで、通っている小学校に、憧れの先生がいるからとのこと。

 良いことをするとたくさん褒めてくれる、ステキな先生。くっすんも河田アナに褒めてほしいけど、「褒めるとこあったら、褒めるけど・・・。」だそう。

 

午後3:30、スタートから15キロ、目標地点の『山英 農産物加工場』に到着。昭和2年創業で、もともとは地元のお茶農家向けの肥料屋さんだった。土作りにこだわった緑茶の製造販売を、先代からおこなうようになった。

 

 特別に、工場の中を見学させてもらう。お茶の火入れを行う工程では、熱風でお茶を乾燥させることで、風味を引き立てる。

 

 見学後、工場で製造したお茶、その名も『子育銘茶』を試飲させてもらう。掛川のお茶は、蒸し時間を通常の3倍にすることで、濃厚でコクのあるお茶に仕上がる。普段飲めない高級茶で、まったり午後のティータイム。

 

最後に、専務取締役の山崎さんに通行手形を書いてもらい、日坂宿の通行許可をいただく。

 こうして、東海道五十三次・25宿目の日坂宿への旅を無事終えた。

 

■簡易チャート

スタート:静岡県島田市・大井川橋 → 金谷宿の浮世絵に描かれた場所 (2km) → 金谷宿 (4km) → 佐塚屋本陣跡 (5km) → 『夜泣石』・『元祖 小泉屋 (9km) →『小夜の中山』→『夜泣石跡』(13.5km) → 日坂宿[本陣跡] (14.5km) → 目標地点:『山英 農産物加工場』(15km)