シロナガス/星景写真と科学本のブログ

「暮らしの中の星空」=星景写真+サイエンスノンフィクション書評。PENTAX使い。

星景サルベージその61 両雄

うーむ。

桜の季節が始まりました。いろいろ撮らないといけないなと思いながら、しかし、うちの業界の仕事は今が最繁忙期でして、どうなるかさっぱりわかりません。わからないというより、完全にもうあれなんですが、いや私が撮るのはどうせ夜中だし、そういう意味ではなんとかなるかもしれないし、ならないかもしれない。

あわー。4月は中旬までは細々やる感じになりそうです。7月にもまたピークがあって、今年はね、去年に比べると格段に忙しいんですよね。

 

とりあえず、2月末に出していた、地元紙のフォトコンの結果が出ましたので、サルベージをしておきましょう。しばらく忙しいのでサルベージが中心になるかなぁ、どうかなぁ、という気がしています。

 

いや、しかし、今回は、前回(12月末発表分)に引き続いての佳作をいただきました。

悪くない。むしろ良い。2回連続というのは私としては素晴らしい結果。

残念ながら、佳作は基本的には紙面に出ない。ただ、この前、油断していたら別のコーナーで、モノクロで取り上げていただいたので、油断はせずに、かつ期待をせずに、待っておこう。

 

shironagassu.hatenablog.com

これは前回の奴。つい先日、モノクロで地元紙に乗りました。ありがたい。

それがどれだけの意味があるかわからないのですが、やはり、いつも繰り返し言っているように、写真は、鑑賞されることでその意味を付与されると思っていますので、少しでも、誰かの元に届いたとすれば幸い。

 

と。サルベージです。

 

両雄

f:id:shironagassu:20190330112421j:plain

PENTAX KP レンズ   DA 35mm 焦点距離35mm

ISO4000 SS10秒 F2.4 アストロトレーサー、ソフトフィルター使用

2019.1.6 高知県高知市にて

 

今年の撮影でしたか。年明け。

これは非常に特徴的なシルエットの像。坂本龍馬ですね。私は、坂本龍馬のファンということではないのですが、その物語の中で、彼に付与された意味に関しては非常に興味深く感じています。

どこまでが史実で、どこからがフィクションなのか、ないまぜの中で、生み出された伝説的な人物像。それは、ある意味で人の文化のひとつの結実だと思います。

 

そして、背後には、これもまた、人間の星を見上げるという文化の中で育まれてきた、最も印象的な星座といっても過言ではないオリオンが何ごとかをつぶやくがごとく、竜馬像に近づく。

その二つの文化の邂逅を撮った。と、そういう風に私は位置付けてこの一枚を出しました。

 

佳作。

新聞紙面に載るのは、金銀銅賞の3賞で、その下に佳作10作が選ばれるというシステムです。

だからたしかに、そこまで残ったということについては、非常にありがたいことだと思いますが、一方で、やはり何かを欠いているからこそのあと一歩ということなのかなとも思います。

 

いや、欠けているもの。

私の写真には、強さを欠いているということについては、かなり自覚的です。写真における強さとは、感動やインパクト、ある種の偶然性の発露(いうなれば緊張感か)というようなものだろうと思うのですが、私の写真はそういうものを欠いています。

上の写真でいえば、やはり龍馬像がシルエットになっているというところに、ひとつの表現の「弱さ」がある。強さを出そうと思えばこの像をライトアップするなり、月があるシチュエーションを狙うなりして、暗くつぶしてしまわず、もっとデティールを出すことで「強さ」を得ることは可能だったかもしれません。

 

しかしながら、私はこの強さというのを出せない(そういうスタイルではない)という思いがあるのもありますし、一方では、弱いからこそ力ではなく説得的な態度で写真の意味を滲み出していけるのではないかという思いもあるのです。

 

ドイツ出身の哲学者アクセル・ホネット(1949-)における「承認」の問題を論じた一冊から、関連しそうな部分を引用してみましょう。ホネットは、コミュニケーションを「承認をめぐる闘争である」と位置付けて、この社会というものを見ていきます。その論は、コミュニケーションを担うものとしての写真の性質とも重なってくるでしょう。

承認の問題にあって、「愛」の経験が特権的な位置を占めるのは、この故でもあるのだろう。能力を認められる、というのであれば、その能力あってこその話であり、つまりは、能力、力、強さの示威ということと不可分であるわけだが、「愛」にあっては、肯定的な能力(性質)のゆえに認められるだけでなく、むしろ、弱さや個性――個性とは一般性・普遍性からの「逸脱」であり、その意味で一つの否定性である――をひっくるめ、場合によってはそれ故にこそ認められ、受け入れられるという事態を指し示している。(『「承認」の哲学 他者に認められるとはどういうことか』、藤野寛青土社、2016)

つまり、コミュニケーション関係において、相手を強さで支配するのではなく、弱さという個性ゆえに、相手から認められる可能性を持つという。それは、赤ん坊を見るとよくわかると思いますが、赤ん坊という究極的に無力な存在は、それゆえに、多くの愛を受け取ると思うのです。もちろん、時には、無力な者への虐待という許されざる事態も起こってもしまいますが、基本的には、弱いゆえに愛という承認を受ける。

 

写真も同じではないかと、弱いからこそ、伝えられるものがあり、それが認められる可能性が見えるのではないか。少なくともそういうアプローチも許されるだろうと。

 

私の写真は、欠けているもの(強さ)を欠いたまま、弱いからこそ伝えられるものを探求していきたい。弱いからこそ、耳を傾け聞かれる言葉があり、伝えられる思いがあるのだと。

 

よし、しかし、二回連続で佳作、本当にありがたい。今年に入っての選外丸坊主状態を脱したので無駄なプレッシャーからも解放された(笑)

また、これを励みに一歩一歩、歩みを進めようと思います。

先日引退したイチローも「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道」というふうにいってましたね。

少しずつ遠くへ。

 

ではまた。

 

いや、私は、とんでもないところまで行く気はないんですが、イチローと誕生日がおんなじなんですよ、なので少し親近感がある(笑)

 

 

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