小説 逢いたくて~心花~潔く身を引いた安五郎-一方、お彩の夫市兵衛への恋情は再び燃え上がる | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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小説 逢いたくて~心花(こころばな)~

  第九話  夫婦鳥~めおとどり~

 

☆ 心に花を咲かせるんだよ。たとえ小さくても良いから、自分だけの花を心に咲かせるんだ。-それが、私が13歳の時、亡くなった、おっかさんの口癖だった。 ☆

お彩(さい)は16才。江戸の町外れ、通称、〝甚平店〟で父の伊八と
二人暮らし。母のお絹は屋台を引いて歩く夜泣き蕎麦屋をやっていたが、
働き過ぎがたたって、若くして亡くなった。

実は、伊八はお彩の実父ではない。
お絹が既に亡くなった男に犯され、心ならずも身ごもった子どもだった。
当時、伊八とお絹は既に恋仲で、将来の約束も交わしていたのに、
お絹はさらわれ、人気のない寺に監禁された挙げ句、陵辱されたのだ。

いったんは身を引いたお絹を想う伊八の心は変わらず、二人は祝言を挙げて
夫婦となり、お彩が生まれた。

伊八は、江戸でも評判の腕の良い飾り職人である。
彼はお彩を実子として手塩にかけて育て上げた。それは母お絹が亡くなってからも
変わらない。そんな優しくて頼もしい父を、お彩は物心ついたときから、大好き
だった。

それが、いつから、父を〝男〟として意識するようになったのか。。。
ついには住み慣れた家を出て、一人暮らしを始めた。

そんなある日、お彩が働く一膳飯屋に見知らぬ男が現れる。
圧倒的な存在感を持つ、凄艶なほどの美貌を持つ男。なのに、
その瞳には孤独の色を滲ませている。
いつも一人で黙々と酒を飲む男を、お彩はいつか気にするようになっていた。
新しい恋の予感。
それが、やがて、お彩自身の生涯を決定する運命の出逢いだとは、お彩はまだ
知らない。
更に、その謎の男が母お絹と浅からぬ因縁があることも-。
お彩に一途に想いを寄せる同じ長屋の伊勢次、この名も知れぬ男、これらの
二人の男こそが後々、お彩の生涯に深く関わってくるのだった。
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 しばらく返事はなかった。安五郎が怒るのも無理からぬ話だ。
 が、静寂を破ったのは、安五郎の笑い声であった。
「眼から鱗が落ちたとは、まさにこのことでしょうね。正直、最初はムッとしましたし心外にも思いましたが、言われてみて、改めて手前(てめえ)がいかに自惚れていたかが判りました。京で奉公していた料亭でも常連のお客からもいつも賞められてばかりで、いつしか良い気になっていたんですね。京で働いていた店は、そこそこ名の通った料亭でした。お客はもしかしたら、私の腕ではなく店の名前の方を信用していたかもしれないってえいうのに、私一人が自分はもういっぱしの板前だと自惚れてたんです」
「そんな、済みません。私、そんなつもりで言ったんじゃ―」
 お彩は狼狽えた。涙が出そうになる。我ながら何という愚かなことを言ったのだろうと思った。
 が、安五郎の貌には憤りはなく、ただ、悪戯を止められた子どものような表情があるだけだ。
「良いんですよ。お彩さんにはっきり言って貰わなかったら、私は多分この先もずっと天狗になったまま、自分の料理が実はたいしたこともないことに気づきやしなかったでしょうから。良い勉強になりましたよ。―きれいだが、匂いのない花とはよく言ったものだ。確かに、そのとおりかもしれません。私は見た目ばかりに拘って、食べて下さるお客の心情深くまで分け入って考えることを忘れていたようです。私から見れば、あなたは私とはまるで逆だ」
 お彩は安五郎の言葉を計りかねた。
「あなたの料理は今はまだ荒削りで洗練されてはいないが、心がこもっている。あなたは実のあるお人だから、その気性が料理にも反映されているんですよ。今の気持ちを喪わないで喜六郎さんにこれからもみっちりと仕込んで貰えれば、近い将来、必ずや立派な板前になれますよ」
 お彩は眼が熱くなった。ああまで酷いことを言ってのけた生意気な後輩を、安五郎は手放しで賞めてくれる。恐らくお彩が考えている以上に度量の広い懐の大きい男なのかもしれなかった。
「ありがとうございます。まさか安五郎さんにそんな風に言って頂けるとは思わなかったから、私、嬉しいです」
 安五郎は眼を細めて、お彩を見つめた。
「そのように素直に感情を表現できるそののびやかさがある限り、大丈夫、お彩さんは必ずひとかどの料理人になります。料理人に必要なのは腕前だけではなく、実のこもった心なのだと大切なことに気づかせて貰った―、はるばる江戸まで来た甲斐があるというものです。お彩さん、私は明日にでも京に帰ろうと思います。生まれ変わったつもりで、一からやる覚悟です。修業のし直しですよ」
「そんなお帰りになるだなんて言わないで下さい。私の言い方がやっぱりお気に障ったんですね」
 お彩が懸命な面持ちで言うと、安五郎は首を振った。
「違いますよ。あなたの言ったことは全く関係ありません。お彩さん、私はね、いつか喜六郎さんのような板前になるのが夢なんです。小さくても美味い小料理を出すことのできる店、私の料理を食べにきて下さったお客に、気持ちが安らぐ場所だと思って貰えるような店を持ちたいんです。そのためには、初心に立ち返って、もう一度勉強しなければ」
「気持ちが安らぐ場所、ですか」
 口にはしなかったけれど、それこそが心をこめるということではないのかと思った。料理には見た目の美しさ、味の良さの他にもう一つ大切なものが必要だ。それは「心」だった。心のこもっていない料理は、どこか物足りないものになってしまうと、師匠である喜六郎が教えてくれた。
「流石は喜六郎さんほどのお人が見込んだだけはある。私は京都の料理屋で働いていた時分から、あの人を尊敬していました。全くあんな―と言っちゃア失礼だが、小さな飯屋の主人で終わるには惜しい人材だ。その気になりゃア、江戸いちばんの料理屋の板前だって不足なく務められるほどの人ですよ。それでも、“花がすみ”でほんのわずかですが働かせて貰って、つくづく思いました。あの店こそが喜六郎さんの作りたかった店、あの人の夢そのものなんだなって。私も京に帰ったら、いつか、“花がすみ”のような店を持ちたいですね」
 ふいに陽が翳った。
 先刻まであれほど輝いていた太陽が鈍色の雲に隠れている。池の面が暗く淀んで見えた。
 太陽が隠れると、途端に寒さが身に迫ってくるようだ。池を渡って吹きつけてくる風は冷たい。もう霜月も終わりが近いのだと、お彩はぼんやりと考えた。
「それで、これからどうするつもりなんですか? 確かに、京屋の旦那さんのなさりようは情け容赦もねえが、裏を返せば、強引な出方をするのは、それだけ旦那がお彩さんとお美杷ちゃんに心底帰って貰いたいとお思いだってことでしょう。そこまで惚れに惚れぬかれたとありゃア、女冥利にも尽きるんじゃねえですかい? いっそ、思い切って、旦那の腕の中に飛び込んじゃあ、どうですか」
 お彩はその言葉には何も言わず、哀しげに微笑んだ。
 安五郎はそのお彩の反応を見て、お彩の瞳に潜む市兵衛への思いを悟ったようであった。
「お彩さんは、まだ京屋の旦那さんに惚れていなさるんですね」
 短い沈黙の末、安五郎が言った。
「余計なことを言うようだが、何か一つを選び取る時、他の大切なものを切り捨てることになるのは当たり前ですよ。もし、お彩さんが今もまだ京屋の旦那さんに惚れているというなら、迷うことはない。自分の気持ちと旦那の気持ちだけを信じて惚れた男の許へ飛び込んでゆけば良い。他のことは一切考えなくても良いんですよ」
「―」
 お彩は黙り込むしかなかった。
―その男にお前が心から惚れているなら、胸の中の想いを貫け。
 かつて亡き父の遺言となった言葉だ。
 奇しくも今の安五郎の台詞は、父の遺言と一致していた。
 そんなことは判っている。それでも。
 様々なしがらみがお彩を縛っていることに変わりはない。市兵衛のどうしようもない孤独を分かちあって上げることすらできない自分の無力さ。お彩の優柔不断さのために、あたら若い生命を散らした伊勢次の存在。
 それらに想いを馳せる時、お彩の脚は金縛りに遭ったかのように動かなくなる。
 その時、突如として、ある考えがお彩の中で雷(いかずち)のごとく閃いた。それは、まるで闇を照らすひとすじの光のように、お彩の心に差し込んだ。
 市兵衛の心の闇を埋めることはできずとも、孤独や哀しみを分かちあうことはできずとも、傍で見守ることはできるはずだ。見守るだけしかできないかもしれないけれど、それで良いのではないか。
 元々、自分以外の他者の孤独や哀しみを癒せるはずはないのだ。たとえ夫婦、親子、兄弟姉妹であろうと、その人の苦しみはその人だけのものであり、誰も代わって背負うことなどできはしない。市兵衛の心に巣喰う闇を何とかできるなぞと考えたのは所詮はお彩の思い上がり、不遜さだったのだろう。
 それならば、安五郎の言うように、他ならぬ市兵衛自身が望むのならば、お彩は市兵衛の許に戻るべきなのかもしれない。
 そこまで考えた時、お彩の眼裏に伊勢次の屈託ない笑顔が蘇った。
―俺ア、短い間でも、お彩ちゃんと夫婦として暮らせて幸せだったよ。俺がこれまで生きてきた二十四年間の中で最高に幸せなときだった。
 あの笑顔がちらつき、伊勢次の最後の言葉が耳奥でこだまする。
―できない、伊勢次さんのことを思えば、あのひとのところに戻るなんて、できない―。
 お彩は脳裏をよぎった甘い考えを急いで追い払った。
 沈黙するお彩に、安五郎は、ぼんのくぼに手をやった。
「済みません。最後の最後まで、説教じみたことを言っちまいましたね。これじゃア、嫌われるのは仕方ねえな」
「そんな、安五郎さんを嫌うだなんて」
 お彩が慌てて言うと、安五郎はニヤリと笑った。
「いつかまた、どこかであなたにお逢いするのを愉しみにしています。そのときは、お互い、いっぱしの板前としてお眼にかかりましょう」
 それから、二人はしばらく黙って池に映る紅葉の影を眺めていた。
 晩秋の風がさわさわと樹の葉を揺らし、その度に色づいた葉が風に舞い、水面に落ちる。
 こうしていると、江戸の町の喧噪が嘘のような静寂であった。
 ふいに冷たいものを頬に感じ、お彩は空を見上げた。重なり合った鈍色の雲間から、雨滴が落ち始めている。
「いけねえ。降ってきちまったみてえだ。大降りにならねえ中に帰りましょう」
 安五郎の言葉に、お彩は我に返り、慌てて頷いた。


 翌朝、安五郎は京に向けて発っていった。
 お彩は日本橋まで安五郎を見送った。
 安五郎は橋の中ほどで立ち止まり、しばし名残惜しげにお彩を見つめた。お彩が小さく目礼すると、安五郎もまた小さく辞儀を返し、今度こそ背を向けて迷いのない足取りで橋を渡っていった。お彩はその長身の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に佇んで見送った。
 喜六郎はこの顛末に随分と落胆したようだったが―、
―人の心、殊に男女の仲だけは思うに任せないものだなぁ。
 とぼやいたきり、その後、安五郎の名はもう二度と出そうとはしなかった。
 京屋市兵衛との約束の期日までは、残すところ、あと一日、明日に迫っていた。