戦国時代小説
龍虹記【りゅうこうき】~禁じられた初恋~
時は戦国乱世。
生まれ育った城が落城寸前、一つ違いの妹とひそかに逃れた少年千寿丸(せんじゅまる)。
優しい両親を殺し、生まれた国を攻め取った憎い敵の武将木檜嘉瑛(こぐれよしてる)に囚われの身となる。
天下取りの野望のため、嘉瑛は名門永戸氏の姫である千寿の妹万寿(ますひめ)姫を妻に迎えようとする 。
兄の千寿は嘉瑛の奴隷扱いされ、屈辱の日々を送ることに。
しかし、無垢な千寿は嘉瑛が自分を見つめるときの欲望を宿したまなざしに気づかない。
千寿の姿を執拗に追う嘉瑛の眼は、まるで捕らえようとする獲物
を遠 巻きに眺める蛇のようだった。
やがて、万寿姫が嘉瑛との婚礼を控えた身で、自害。
嘉瑛は千寿にある一つの要求をつきつける。それは、万寿姫とうり二つの千寿に彼の〝妻〟になれという無茶なものだった-。
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いかほど歩いただろう、太陽の位置からすれば、丁度昼を回った頃、歩き疲れた千寿は大きくよろめいて転んだ。この道は進めば進むほど、歩き辛くなってくる。林立する樹の根と根が複雑に絡み合い、それが地面の上にまで盛り上がっているのだ。
どうやら、その一つに脚を取られたらしい。
―もう、駄目だ。
千寿は倒れ込んだまま、しばらく動けなかった。いや、動こうという気力も失っていたのだ。転んだ拍子に口の中を切ったのか、血の味がした。
だが、ここで倒れたままでいるわけにもゆかない。千寿は再び緩慢な動作で身を起こした。身体中の節々が悲鳴を上げる。そろりと片脚を前へと踏み出したその時、烈しい痛みが走った。
「ツ」
千寿は右脚を押さえ、その場にうずくまる。
間の悪いことに、挫いたらしい。
少し動かしただけで、激痛が走り、到底歩くどころではない。
千寿が絶望的な想いでうつむけていた顔を上げた時、ハッとした。この少し先から道が踏みならされ、細いながらも人が通ったと思われる後がある。よくよく見れば、手入れはされてはいるといえ、道には草が茂り、既に使われなくなって久しいように見えた。
だが、この際、贅沢を言っているべきではない。千寿は痛む脚を庇いながら、最後の力を振り絞って歩いた。ものの四半刻も歩かない中に、道が途切れ、それまで周囲を遮っていた緑の樹々がなくなった。
明らかに誰かが昔、ここにあった樹を切り倒した跡があり、信じられないことに、小さな小屋がぽつねんと建っていた。道を整えたのも、恐らくはこの小屋を建てた者だろう。
千寿は神仏と、はるか昔にこの小屋を建てたであろう人物に感謝しながら、夢中で小屋に近付いた。
小屋の方も道と同様、住む者がいなくなって長いらしい。そのことを物語るかのように、屋根や壁の一部が朽ち、崩れかけている部分さえあった。しかし、これだけ土台がしっかりしていれば、何日間はここで過ごすことはできる。
千寿は注意しながら、その小屋へと入った。表の戸は引き戸になっており、こちらはまだしっかりしている。用心深く、周囲に誰もいないことを確かめてから、元どおりに戸を閉めた。
小屋はただっ広く、ひと部屋しかなかった。住まいというよりは、猟師が狩りに出た折、休憩や宿泊に使ったのかもしれない。それでも、片隅には藁がうずたかく積まれていて、竈らしきものには、昔、火を焚いた跡も残っていた。
千寿は積まれた藁にドサリと倒れ込んだ。
長らく放置されたままの藁は湿った黴臭い臭いがしたが、そんなことに気を払う余裕はなかった。ただ、今はひたすら眠りたい。
飢えと寝不足が重なり、千寿の疲労は極限状態に達していた。
ああ、幸せだと、千寿は心から思った。
何の愁いもなく、手脚を伸ばして眠ることができるのは、どんなにか恵まれていることか。
白鳥にいた頃の自分は、あまりにも子どもだった。何不自由のない暮らしをし、城主の息子、世継の若君として世の苦労も生きる哀しみも何も知らなかった。与えられる幸福を当然の権利だと思い込み、受け取っていた我が身が今は恥ずかしい。
城を失い、頼りとする両親、妹までをも失った代わりに、千寿はまた多くの人にめぐり逢った。嘉瑛に知られぬよう、ひそかに火傷の手当をしてくれた牢番の恒吉、更に、森に住んでいた猟師の女房やす。やすは最後まで千寿を庇おうとしてくれた。この世の中には、実に様々な人がいるのだと知った。
彼等の優しさを、千寿はずっと忘れないだろう。
もっと強くなりたい。
千寿は切実に願った。
もっと強い自分になって、いつか白鳥の国を取り戻し、長戸家を再興したい。
千寿は今、落城の間際、父が遺した言葉の意味を悟った。
―どのようなことがあっても、生きるのだぞ。
この乱世が続く限り、人々はいつまでも殺戮を繰り返さねばならない。親子が争い、兄弟が殺し合う―、そんな世の中はどこか間違っている。
人が人を殺せば、そこに憎しみが生まれ、大切な人を殺された者が敵(かたき)を取れば、また、そこに新たな憎しみが生まれる。つまり、憎しみが憎しみを呼び、人々は未来永劫、憎しみ合わなければならない。
それは、何と哀しいことか。
ならば、誰かがそんな世の中をただせば良いのだ。この乱世に終止符を打てるだけの、天下を平定できるだけの力を持つ強い武将が現れれば、もう無用の殺戮を繰り返すことはないだろう。
今の武将たちは皆、己れの領地を少しでも広くしたいとただ我欲のみで戦を繰り返している。だから、平然と人を殺し、住む場所を奪い、女に狼藉を働く。
もし、私利私欲のみではなく、真に民を、国の安寧を思う武将がいて、そんな人物が天下を統一してくれたなら。
千寿はそう、強く願わずにはおれない。
今の自分は、あまりにも無力すぎる。だが、願えば、努力すれば、いつかは川を泳ぐ小さな魚も天翔(あまかけ)る龍となれるかもしれない。
果たして、自分にそんな力があるのかどうかは判らない。ただの無知な子どもの途方もない夢物語なのかもしれない。それでも。
強く、強くなりたい。
この国から戦乱を亡くし、人が明日を夢見て生きることのできる平らかな国を築きたいと千寿は思った。
そんなことを考えている中に、睡魔が襲ってきた。
ここにいれば、嘉瑛に捕まる心配もないだろう。今はとにかく眠れるだけ眠ろうと、千寿は静かに眼を閉じた。