韓流時代小説 １００日間の花嫁
～「寵愛【承恩】～第二部
第一部で初恋を実らせ、ゴールインしたムミョンとセリョン。お転婆で涙もろい遊廓の看板娘が王妃になった！ 新婚蜜月中の二人にある日、突然、襲いかかった試練。何と清国の皇女が皇帝の命で朝鮮王の後宮に入ることに。ー俺は側室は持たない。
結婚時の約束はどうなる？しかもセリョンが降格の危機に。しかも、若い国王の心が次第に側室に傾き始めて?
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涙の選択
姫金魚草の側で華嬪(ファビン)こと紅櫻花（ホンインファ・ホンエンファ）の思わぬ素顔をかいま見た翌日、セリョンは大殿の王の執務室を訪ねた。折しもその時、執務室には領議政パク・スジンがいた。老いた宰相も英宗も共に難しげな顔をしていたが、若い王の顔色は更に冴えない。領議政がセリョンの貌を意味ありげにチラリと見て出ていったところを見れば、二人の話題が何であったかは容易に想像がつく。
恐らくはここのところ、朝廷を揺らがせているあのこと―華嬪の立后に相違ない。清国皇帝の愛孫、華嬪を朝鮮王の後宮に送り込んだは良いが、皇帝の望みは華嬪を一側室のまま置いておくことではない。事実、今月半ばにも清国から皇帝の使者が遣わされ、華嬪の王妃冊立を命ずる皇帝の勅書を携えていたのだ。
目下、朝廷は二つの派に分かれて対立している。一つは清国皇帝の命ずるまま、華嬪を王妃に冊立すべしと主張する派と、今一つは朝鮮が自ら選んだ王妃を降格して清の皇女を王妃に据えるなど、とんでもないと断固反対する一派である。
英宗にとって、セリョンは生涯の想い人だ。そんな妻を清の皇帝に命じられたからといって、易々と王妃の座から降ろせるはずもない。
王は臣下たちと自らの想いの板挟みになっている。その懊悩はいかほどのものか。良人の苦衷を思う度、セリョンは泣きたくなる。セリョン自身に罪はないとはいえ、他ならぬ我が身が原因で、ムミョンを苦しめているのだ。愛する男を苦しめ続けるほどなら、いっそ消えてしまいたいと自棄めいた気持ちになったのも一度や二度ではない。
領議政は言わずと知れた議政府の筆頭であり、人臣最高の地位である。この老獪な政治家は朝廷を二分するどちらの派にも属さず、中立派であるのは知る人ぞ知るところだ。その点では、セリョンの養父、右議政チャン・ソクと同じといえようか。ソクもまた王妃の養父という立場ゆえに、迂闊に己が意見を口にできない。
領議政はセリョンの側を通る時、丁重に頭を下げていった。セリョンは室の扉が閉まるのを見届け、英宗に対して淑やかに腰を折る。二人だけのときは恋人時代のように気の置けない関係ではあっても、やはり公の場では国王への敬意を示すことは怠らない。
「ごめんなさい。大切なお話をしていたのではなかったのかしら。お邪魔をしてしまったみたいで、申し訳ないわ」
セリョンが言うのに、英宗―ムミョンは薄く笑んだ。
「いや、同じ話ばかりをされるので良い加減参っていたところだ。おじじさまを追い払う口実を探していたところだから、かえって助かった」
〝おじじさま〟というのは言わずと知れた領議政である。セリョンはいつもと変わらない良人の物言いに、ついクスリと笑みを零した。
「そなたの笑った顔を久々に見たような気がする」
ムミョンが呟き、セリョンはハッとした。
「済まない、そなたには辛い想いばかりさせている」
ムミョンの切なげなまなざしに、セリョンまで辛くて堪らない。セリョンは微笑んだ。
「領相大監のお話というのは、やはり華嬪さまを中殿（チュンジョン）にという例のことなのね」
「―」
ムミョンからいらえはない。だが、沈黙が何よりの肯定であるのは判った。耐え難いほどの沈黙が二人の間に落ちかけたその時、ムミョンの不自然に明るい声が静寂を破った。
「それにしても、珍しいな。そなたの方からここまで訪ねてきてくれるとは。さては恋しい良人の顔を見たくなったか？」
無理に装った元気な声音が今は余計に心に痛い。セリョンも負けずに明るさを装った。
「いやねえ、自信過剰な男は嫌われるって、以前に教えてあげなかったかしら？」
ふっとムミョンが押し黙った。やがて大きな息を吐き、うつむく。
「中殿に迎えたことで、俺はそなたに苦しみばかり与えてしまった。こんなことならいっそ、結婚前の人目を忍んで逢瀬を重ねていた頃の方が良かった」
セリョンは室の片隅の丸卓と椅子を指した。
「座っても良い？」
「もちろんだ。気が付かなくて済まん」
ムミョンとセリョンは立ち尽くしたままだ。彼は妻に椅子を勧めるのさえ失念していたのを恥じているように見えた。
セリョンはつい今し方まで領議政が座っていた椅子に腰を下ろした。
セリョンと向かい合う形でムミョンも腰を下ろす。二人共に今日は王と王妃の盛装である。
ムミョンは軽く握った両手を卓の上に軽く置いた姿勢で、心ここにあらずといった様子だ。セリョンは卓越しに手を伸ばし、彼の一方の大きな手のひらをやわらかく両手で包み込んだ。
ムミョンが弾かれたように顔を上げる。物問いたげな視線に、セリョンは更に笑みを深めた。
「そんなに思い詰めないで。あなたは私に謝ってくれてばかりいるけれど、私から見れば、あなたの方が今にも倒れそうなほど疲れているように見える」
「セリョン―」
ムミョンの精悍な面がクシャリと歪んだ。まるで今にも泣き出しそうにも見え、セリョンは胸が引き絞られるように疼く。
「いつかも言ったでしょう。あなたはもう十分苦しんだ、だから、これからは国王として進むべき道を迷いなく進んでいって欲しいの。私が王妃であり続けることであなたに迷惑がかかるのであれば、私は今の立場に固執するつもりはないのよ」
華嬪を中殿に立てるようにと皇帝の勅書を使者がもたらした頃、セリョンはムミョンと久しぶりに肌を合わせた。その夜、彼女は今と同じ科白をムミョンに告げた。
「それは」
ムミョンが息を呑んだ。セリョンは良人の顔色が咄嗟に変わった理由を勘違いした。相変わらずセリョンを守ろうとしてくれている彼が衝撃を受けたのだと。ただし、セリョンの読みは外れていた。ムミョンは確かに打撃を受けたものの、その原因はセリョンが考えていたようなものではなかった。
「そなたは自ら中殿の座を降りるというのか？」
ムミョンの顔にまた例の泣き出しそうな表情が浮かんだ。セリョンは淡く微笑んだまま頷く。覚悟してきたとはいえ、やはりなかなか言い出せなかったため、ムミョンの方からはっきりと言葉にしてくれたのは救われた。
「ええ。私がいつまでも未練がましく王妃の座に居座っている限り、華嬪さまの立后は実現しないもの。だから、私が王妃の座を降りるわ」
命じられて追い払われるより、自ら申し出た方がせめて誇りを保てる。セリョンの心にそんな想いがあったのも確かではあった。
ムミョンが茫然と呟いた。
「そなたは俺を捨てるのか―」
あまりにも予期せぬ反応に、セリョンはたじろいだ。
「捨てるだなんて言い方は止めて。このまま清の皇帝陛下の御意を突っぱね続けていれば、いずれは皇帝の怒りを買うわ。そうなれば、あなたもこの国も無事では済まないでしょう。私が中殿の座を降りるのは誰もが納得する穏便に事を収めるやり方よ」
ムミョンが苦しげに言った。
「最初からそれがすんなりできれば、とっくにやっていた！ さりながら、俺にはどうしてもできなかったんだ。大切なそなたを降格までさせて、愛してもいない女を妻にするなど俺にはできない」
ムミョンは呻き、うなだれた。
「なのに、そなたはいとも簡単に中殿の座を降りると言う。一体、俺が今まで悩み苦しんできたのは何だったんだ？ そなたはそんなにも容易く俺の妻の座を捨てられるのか！」
吠えるような叫びに、セリョンは唖然とするしかない。ムミョンはやるせなげに続けた。
「肝心のそなたがとっくに俺を捨てるつもりでいるのも知らず、俺は今まで必死にそなたを守るすべを考えていたというのか。何とかしてそなたを降格させずに済む手立てはないものかと無い知恵を絞っていたというのに」
恐らくはここのところ、朝廷を揺らがせているあのこと―華嬪の立后に相違ない。清国皇帝の愛孫、華嬪を朝鮮王の後宮に送り込んだは良いが、皇帝の望みは華嬪を一側室のまま置いておくことではない。事実、今月半ばにも清国から皇帝の使者が遣わされ、華嬪の王妃冊立を命ずる皇帝の勅書を携えていたのだ。
目下、朝廷は二つの派に分かれて対立している。一つは清国皇帝の命ずるまま、華嬪を王妃に冊立すべしと主張する派と、今一つは朝鮮が自ら選んだ王妃を降格して清の皇女を王妃に据えるなど、とんでもないと断固反対する一派である。
英宗にとって、セリョンは生涯の想い人だ。そんな妻を清の皇帝に命じられたからといって、易々と王妃の座から降ろせるはずもない。
王は臣下たちと自らの想いの板挟みになっている。その懊悩はいかほどのものか。良人の苦衷を思う度、セリョンは泣きたくなる。セリョン自身に罪はないとはいえ、他ならぬ我が身が原因で、ムミョンを苦しめているのだ。愛する男を苦しめ続けるほどなら、いっそ消えてしまいたいと自棄めいた気持ちになったのも一度や二度ではない。
領議政は言わずと知れた議政府の筆頭であり、人臣最高の地位である。この老獪な政治家は朝廷を二分するどちらの派にも属さず、中立派であるのは知る人ぞ知るところだ。その点では、セリョンの養父、右議政チャン・ソクと同じといえようか。ソクもまた王妃の養父という立場ゆえに、迂闊に己が意見を口にできない。
領議政はセリョンの側を通る時、丁重に頭を下げていった。セリョンは室の扉が閉まるのを見届け、英宗に対して淑やかに腰を折る。二人だけのときは恋人時代のように気の置けない関係ではあっても、やはり公の場では国王への敬意を示すことは怠らない。
「ごめんなさい。大切なお話をしていたのではなかったのかしら。お邪魔をしてしまったみたいで、申し訳ないわ」
セリョンが言うのに、英宗―ムミョンは薄く笑んだ。
「いや、同じ話ばかりをされるので良い加減参っていたところだ。おじじさまを追い払う口実を探していたところだから、かえって助かった」
〝おじじさま〟というのは言わずと知れた領議政である。セリョンはいつもと変わらない良人の物言いに、ついクスリと笑みを零した。
「そなたの笑った顔を久々に見たような気がする」
ムミョンが呟き、セリョンはハッとした。
「済まない、そなたには辛い想いばかりさせている」
ムミョンの切なげなまなざしに、セリョンまで辛くて堪らない。セリョンは微笑んだ。
「領相大監のお話というのは、やはり華嬪さまを中殿（チュンジョン）にという例のことなのね」
「―」
ムミョンからいらえはない。だが、沈黙が何よりの肯定であるのは判った。耐え難いほどの沈黙が二人の間に落ちかけたその時、ムミョンの不自然に明るい声が静寂を破った。
「それにしても、珍しいな。そなたの方からここまで訪ねてきてくれるとは。さては恋しい良人の顔を見たくなったか？」
無理に装った元気な声音が今は余計に心に痛い。セリョンも負けずに明るさを装った。
「いやねえ、自信過剰な男は嫌われるって、以前に教えてあげなかったかしら？」
ふっとムミョンが押し黙った。やがて大きな息を吐き、うつむく。
「中殿に迎えたことで、俺はそなたに苦しみばかり与えてしまった。こんなことならいっそ、結婚前の人目を忍んで逢瀬を重ねていた頃の方が良かった」
セリョンは室の片隅の丸卓と椅子を指した。
「座っても良い？」
「もちろんだ。気が付かなくて済まん」
ムミョンとセリョンは立ち尽くしたままだ。彼は妻に椅子を勧めるのさえ失念していたのを恥じているように見えた。
セリョンはつい今し方まで領議政が座っていた椅子に腰を下ろした。
セリョンと向かい合う形でムミョンも腰を下ろす。二人共に今日は王と王妃の盛装である。
ムミョンは軽く握った両手を卓の上に軽く置いた姿勢で、心ここにあらずといった様子だ。セリョンは卓越しに手を伸ばし、彼の一方の大きな手のひらをやわらかく両手で包み込んだ。
ムミョンが弾かれたように顔を上げる。物問いたげな視線に、セリョンは更に笑みを深めた。
「そんなに思い詰めないで。あなたは私に謝ってくれてばかりいるけれど、私から見れば、あなたの方が今にも倒れそうなほど疲れているように見える」
「セリョン―」
ムミョンの精悍な面がクシャリと歪んだ。まるで今にも泣き出しそうにも見え、セリョンは胸が引き絞られるように疼く。
「いつかも言ったでしょう。あなたはもう十分苦しんだ、だから、これからは国王として進むべき道を迷いなく進んでいって欲しいの。私が王妃であり続けることであなたに迷惑がかかるのであれば、私は今の立場に固執するつもりはないのよ」
華嬪を中殿に立てるようにと皇帝の勅書を使者がもたらした頃、セリョンはムミョンと久しぶりに肌を合わせた。その夜、彼女は今と同じ科白をムミョンに告げた。
「それは」
ムミョンが息を呑んだ。セリョンは良人の顔色が咄嗟に変わった理由を勘違いした。相変わらずセリョンを守ろうとしてくれている彼が衝撃を受けたのだと。ただし、セリョンの読みは外れていた。ムミョンは確かに打撃を受けたものの、その原因はセリョンが考えていたようなものではなかった。
「そなたは自ら中殿の座を降りるというのか？」
ムミョンの顔にまた例の泣き出しそうな表情が浮かんだ。セリョンは淡く微笑んだまま頷く。覚悟してきたとはいえ、やはりなかなか言い出せなかったため、ムミョンの方からはっきりと言葉にしてくれたのは救われた。
「ええ。私がいつまでも未練がましく王妃の座に居座っている限り、華嬪さまの立后は実現しないもの。だから、私が王妃の座を降りるわ」
命じられて追い払われるより、自ら申し出た方がせめて誇りを保てる。セリョンの心にそんな想いがあったのも確かではあった。
ムミョンが茫然と呟いた。
「そなたは俺を捨てるのか―」
あまりにも予期せぬ反応に、セリョンはたじろいだ。
「捨てるだなんて言い方は止めて。このまま清の皇帝陛下の御意を突っぱね続けていれば、いずれは皇帝の怒りを買うわ。そうなれば、あなたもこの国も無事では済まないでしょう。私が中殿の座を降りるのは誰もが納得する穏便に事を収めるやり方よ」
ムミョンが苦しげに言った。
「最初からそれがすんなりできれば、とっくにやっていた！ さりながら、俺にはどうしてもできなかったんだ。大切なそなたを降格までさせて、愛してもいない女を妻にするなど俺にはできない」
ムミョンは呻き、うなだれた。
「なのに、そなたはいとも簡単に中殿の座を降りると言う。一体、俺が今まで悩み苦しんできたのは何だったんだ？ そなたはそんなにも容易く俺の妻の座を捨てられるのか！」
吠えるような叫びに、セリョンは唖然とするしかない。ムミョンはやるせなげに続けた。
「肝心のそなたがとっくに俺を捨てるつもりでいるのも知らず、俺は今まで必死にそなたを守るすべを考えていたというのか。何とかしてそなたを降格させずに済む手立てはないものかと無い知恵を絞っていたというのに」