1972年、オーディションに合格し、「劇団四季」に研究生として入団すると、翌年の1973年には、いきなり、「ジーザス・クライスト=スーパースター」の主演に抜擢され、以降、トントン拍子で「劇団四季」の看板俳優として活躍された、鹿賀丈史(かが たけし)さんですが、やがて、ストレートプレイや映画にも興味を持ち、「劇団四季」の退団を決意します。

「鹿賀丈史は劇団四季の初舞台でいきなり主演に抜擢されていた!」からの続き

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越路吹雪からも可愛がられていた

「劇団四季」では、次々と主演し、看板俳優として活躍されていた鹿賀さんですが、そのかたわら、越路吹雪さんの舞台にも出演し、越路さんと何度か共演されると、越路さんから、芸とは何か、演じるとは何かを学ばれたそうで、

ある時、越路さんから、

今日はとても調子が悪いの!でも2時間少しのショーで最後にお客様にどんな気持ちで帰って頂けるかプロセスを見てて!

と、言われ、初めのうちは、越路さんが本当に調子が悪そうに見えたそうですが、

舞台が進むにつれてどんどんお客さんを惹きつけ、最後のカーテンコールでは、客席から、「コーちゃーん」という掛け声がたくさんかかるほど、すごい盛り上がりを見せたそうで、

鹿賀さんは、

俳優は結構孤独な仕事です。本当に調子が悪い時もある訳で、そんな時は、必ず越路さんのその言葉(プロセスを見てなさい)を思い出すようにしています。越路さんに教わったとても重要な事だったと思っています。

と、越路さんとの出会いがとても大きな出来事だったことを明かされています。

(また、お仕事以外でも、越路さんからは、麻雀に誘ってもらうなど、とても可愛がってもらったそうです)

演じることの楽しさに目覚め「劇団四季」退団を浅利慶太に直談判する

そんな鹿賀さんですが、

26歳で「カッコーの巣をこえて」のマクマーフィーという主人公を演じたときです。荒くれ者で非常にいい男なんです。刑務所に行くのを逃れるために、病気のふりをして精神病院に送られ、そこでわが道を通していく…

その役をやっているときに「芝居っておもしろい!」と思ったんです。公演が終って、ふと自分の芝居を振り返ったときに自分の変化に気づく。自分の考え方、感じ方、“人前に立つとは?”…いろんなことを考えながらやっていくうちに、芝居をすることが、すごくおもしろくなったんです。

そこで初めて“俺はずっと芝居をやっていくのかもしれない”と思いました。それが今日まで続いている。もしそうじゃなかったら、僕はどこかで死んでたでしょう。

と、お芝居をすることに喜びを感じるようになったそうですが、

ちょうどその頃、黒澤明監督の「影武者」のオーディションが劇団のスケジュールと重なり、受けることができなかったそうで、このことをきっかけに、

自分が俳優であるということを、もっといろんな世界で試してみたい

劇団を離れて映画に挑戦してみよう

と、ストレートプレイや映画にも興味を持ち、「劇団四季」の退団を決意。

鹿賀さんが、長野の別荘まで、浅利慶太さんに直談判に行くと、

浅利さんは、少し間があってから、

いいんじゃないか

と、言ってくれたそうで、鹿賀さんは、1979年、29歳の時、「劇団四季」を退団されたのでした。

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恩師・浅利慶太が死去

ちなみに、鹿賀さんは、浅利さんが2018年7月13日に他界された際には、会見を開き、

最後に会ったのは2000年。銀座で食事をしていましたら、先生に久しぶりにお会いした。その年に「マクベス」をやることになっていまして「お前、マクベスやるんだって。できんのか」みたいな会話が少しあった

すぐ後に、手紙をちょうだいいたしまして「この間は酒を飲んでいて、きついことも言ったけど、ごめん」と書いてあった

劇団をやめて、ずいぶん時間も経っていましたけど、心にとめてくださってくれていたのかと思って…。そのときは感謝しました

(浅利さんは)厳しかったです。でも、その奥に優しさがある方。魅力のある方で、だからみんなついていった。バカヤローとか、コノヤローとかはしょっちゅう言われてました。

1つの作品にかける情熱は、すごいパワーがあった。浅利先生がいなかったら、僕はいない

と、涙ながらに浅利さんへの想いを語っておられます。

「鹿賀丈史の若い頃は金田一耕助がハマり役だった!」に続く

浅利慶太さんの訃報に涙する鹿賀さん。

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