ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

奥州街道を歩く(27-1:白河:戊辰戦争)    福島県白河市 2018.11.21


(写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓)

白河の市街地に入ると、街道の正面には、前頁の写真の
様に、戊辰戦争の最大の激戦地だったここ白河口の
稲荷山がこんもりと見えます。


街道は、稲荷山に突き当って右折しますが、その曲がり角の
右側に、「長州大垣藩 戦死六名墓」と彫られた上の写真の碑
がありました。



また、道の左側には、「戦死墓」と刻まれた上の写真の大きな
石碑もあります。
説明板によると、1868年、薩長等の新政府軍は、白坂宿から
3隊に分けて進軍し、3方から白河の町を包囲して攻撃
しました。
会津藩を中心とする旧幕府軍は、白河城(小峰城)の南西の
山地に布陣し、これを迎え撃ちました。
旧幕府軍は、一旦新政府軍を退けたものの、新政府軍は再び
来襲し激戦となりました。

100日間にわたる白河口の激戦で、会津藩を中心とする
旧幕府軍は敗退し、小峰城は落城、城郭は焼失しました。

小峰城の落城は、新政府軍が東北の拠点を確保したことを
意味し、旧幕府軍は深刻な打撃を受けました。

白河口の戦いの戦死者は、新政府軍が113人、旧幕府軍が
927人でした。

戦後、両軍が、ここに、各々の戦死者の碑を建てて霊を慰め
ました。


上の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、会津藩の若年寄・
横山主税など304名の戦没藩士の名がびっしりと刻まれて
います。


下の写真は「田邊軍次」の墓です。



会津藩士の田邊軍次は、白河口で旧幕府軍が敗れたのは、
白坂宿の居酒屋の主人の大平八郎が、新政府軍の道案内を
したからだと知ります。

大勝利を収めた新政府軍は、大平八郎に感謝状を贈り、白坂宿
の責任者の地位を与えたのです。

戊辰戦争の終結後、会津藩は斗南藩と藩名を変えられ、
寒冷不毛の地の下北半島へと追いやられます。

この様なひどい仕打ちを受けた中で、会津藩士の田辺軍次は、
「会津藩が滅亡したのは大平八郎のせいだ。」と、復讐を
決意します。

田辺軍次は、乞食同然の姿で、下北半島の斗南から飲まず
食わずで、白河宿の手前の白坂宿にやって来ました。

そして、白坂宿の鶴屋で大平八郎を斬殺し、自らもその場で
割腹して果てました。

殺された大平八郎の墓は、白坂宿の観音寺にあります。


寒冷不毛の地の下北半島へと追いやれた会津藩が受けた、
筆舌に表せない、寒さと飢えの生活を描いたのが
「ある明治人の記録」(中央公論社)です。

この本は、小説よりも面白い、涙なしには読めない、波乱
万丈の実話です。

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (1971年) (中公新書)
柴 五郎
中央公論社



主人公の会津藩士・柴五郎は、会津落城時に自刃した祖母、
母、姉を偲びながら、下北の不毛の火山灰地で苦難の少年
時代を送ります。
零下15度の極寒の地の隙間風が吹き抜けるあばら家で、
暖をとることも出来ず、素足のまま雪道を歩き、犬の死骸を
食べて命をつなぐ、という生活を続けました。

そして下北の地を脱走、東京で下僕などをしながら、流浪の
生活を送り、最後は軍隊に入ります。
薩長中心の軍界の中にあって、会津出身の主人公は、その
実直さ、誠実さ、私心のない正確な判断力により、陸軍の
中枢を歩んで、陸軍大将、軍事参議官と陸軍のトップまで
上り詰めました。
特に、明治33年、排外愛国の義和団が、各国公館などを
襲撃した義和団事件では、各国公館や在留民などが北京に
避難、籠城しました。
柴五郎の人柄は、敵方の義和団にも信頼されており、その
沈着な行動により、北京籠城を解き世界の称賛を得ました。
アメリカ映画「北京の55日」でも柴五郎のその活躍が
描かれているそうです。


奥州街道は、稲荷山の正面を右折して、少し進むと、
次頁の写真の「権兵衛稲荷神社」があります。




阿吽(あうん)の形で、狛犬として狐が配されています。



街道に戻り、丁字路を左折して、道なりに進むと、谷津田川
(やつたがわ)を南湖橋で渡ります。

この橋を渡ると白河市街地の中心部分の一番町になります。
次回は見どころの多い白河の宿場町の町中を巡ります。

白坂宿から白河宿までは、約8キロです。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

ウォーク更家
白河宿の戊辰戦争の跡
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
私は、金売吉次は、源義経の絵本の世界の人物だと思っていましたが、お墓の前に立つと、実際に盗人に殺されていた人物だったんだ、と実感が湧いてきました。

奥州街道を歩いて一番感じたのは、戊辰戦争が、東北地方に残した傷の深さです。

優しくて大人しくて我慢強い東北の子孫の人々が、末代まで薩長を恨んで、絶対に許さない気持ちがよく理解出来ました。
iina
白河宿 
https://blog.goo.ne.jp/mrsaraie/e/bda05f36942a21579438b16bd4babeee
むかしの都人が、あこがれた遠い白河宿は、いまでも遠いです。おつかれさまでした。

金売吉次も実在の人物でしたか・・・義経をスカウトした商人でしたが、盗人に殺されていたとは・・・。

戊辰戦争は、地元のひとからみれば善悪が逆転させられた悔しい戦です。


愛宕山の山頂に池は、意外でした。
   いまは山頂にも水道を引けますが、江戸の頃も池はあったのでしょうか( ^ω^)・・・❔
   https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/acc244632cbb7c4b8e0da93d9d9d0a50

最幕末の写真の大名屋敷が、見たときは工場だと思いましたが、随分と立派だったことが分かります。



ウォーク更家
絵本の金売吉次
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、まもなく奥州街道も完全踏破です。

そうでしたか、コスモタイガーさんは、タッキー主演の大河・源義経でしたか。

私は、子供の頃、源義経の絵本に出て来た金売吉次を覚えていたので懐かしかったです。

ええ、本の主人公の柴五郎さんの苦労は考えられないくらい酷いもので、ハラハラドキドキの波乱万丈の生涯です。
コスモタイガー
金売吉次
https://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
白河ですか。
もう完全に奥州ですね。

金売吉次は詳しくは知りませんが、随分前のタッキー主演の大河「義経」でも描かれてましたね。
確か北大路欣也さんだったかな?

文中で紹介されている本の主人公、柴五郎さんというかた、気になりますね~。
全然知りませんでしたが、会津藩→斗南藩、と聞くだけで、相当の苦労したことは想像できます。
機会あればぜひ読んでみたいですね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事