ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

電車で行く「薩摩街道」 (その7-2:田原坂  散策)   2018.9.25


(写真は、田原坂の戦いで活躍した薩摩軍の美少年の像)

電車で行く「薩摩街道」は、前回の「田原坂の戦い」に
続いて 、今回は「田原坂」周辺を散策します。



熊本駅からJR鹿児島本線に乗って、5駅20分の田原坂駅で
下車します。





田原坂駅から線路沿いの道を30分くらい歩くと、次頁の
写真の「田原坂」の入口に着きました。

ここが田原坂のスタート地点で、長さ1.5キロ、標高差
60メートルの田原坂を上っていきます。

熊本城に籠城する政府軍を救援するために、唯一大砲が通れる
田原坂を通ろうとする政府軍と、それを阻止しようとする
薩摩軍との戦いで、壮絶な死闘が、この地で17日も繰り広げ
られました。

官軍は、ここで薩摩軍の激しい抵抗に遭い、田原坂の最後の
300メートルにある「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を
抜けるための苦戦が続きます。
  


(一の坂)

次頁の写真は、「二の坂」で、更に次の頁の写真は、その
二の坂にある「谷村計介戦死の碑」ですが、谷村は、
熊本城の守備で功績をあげましたが、ここで25歳で戦死
したそうです。
 

 



  
(三の坂)

(三の坂)

西南戦争は、日本初の本格的な近代戦となりましたが、
同時に、日本刀が実戦で活躍した最後の戦いでもありました。

連日冷たい雨が降り続く中、濡れると使用できなくなる旧式の
銃を使用していた薩摩軍は、日本刀による接近戦に切り替え
ます。

薩摩軍は、士族で構成されていたため、日本刀の剣術に優れた
軍隊でした。

一方、官軍は、徴兵されてから初めて銃剣等の訓練を受けた
農民出身の兵士が多く、刀での接近戦は苦手でした。

薩摩軍の兵士が、甲高い奇声を発して斬り込むと、その
恐ろしさに政府軍の兵士は散り散りになって逃げたと
いわれます。

そこで政府軍は、士族が多い警視隊の中から特に剣術に
秀でた者を集めて「警視抜刀隊」を結成します。

(警視抜刀隊:西南戦争資料館)

警視抜刀隊の志願者には、戊辰戦争で薩摩藩に滅ぼされた
旧会津藩士会が多くいました。
旧会津藩士は、「戊辰の復讐!」と叫んで薩摩軍に斬り込んだ
そうです。

しかしながら、実は、官軍側の大半は旧薩摩藩士でした。
西南戦争は、「明治政府」対「薩摩」の戦いとされてますが、
実態は「薩摩」対「薩摩」の戦いでした。
実際に、戦場でも、親子同士、兄弟同士で戦う姿が見られた
そうです。
官軍側の総司令官・川村純義、警視隊の司令長官・川路利良、
川路の後任・大山巌、熊本鎮台守備軍の参謀長・樺山資紀
など、皆、旧薩摩藩士でした。

戦いが長引く中、天候は官軍側に味方しました。
雨が降り続き、薩摩軍側の旧式の銃は不発になります。
また近代式の軍服の官軍に比べ、薩摩軍側は、木綿の服に
わらじの靴で、体力を消耗する戦いを強いられます。
ついに官軍側が、一の坂・二の坂・三の坂を越えて勝利を収めます。

「一の坂」、「二の坂」、「三の坂」を抜けると、「田原坂
公園」があります。
田原坂公園は、激戦地の跡に造られた公園です。



公園の中に、前回ご紹介した上の写真の「田原坂西南戦争
資料館」があります。


資料館の入口では、西南戦争140周年の記念品として、次頁
の写真の銃弾を売っていました。(1,000円)

写真左側が官軍の「元込め銃(スナイドル銃)」、右側が
薩摩軍の「先込め銃(エンフィールド銃)」です。
記念品のこの銃弾は、当時の鋳型を使用して、新たに鋳造した
銃弾だそうです。


資料館の前のデッキからは、戦場全体を見渡せます。



資料館の隣には、両軍の無数の弾痕が白壁に残る「弾痕の家」
(復元)があります。




公園の中心には、写真の「西南役戦没者慰霊之碑」が建って
います。



この碑には、西南戦争で戦死した官軍6,923名、薩摩軍
7,186名の”ラストサムライ達”の氏名が刻まれています。


また、公園内の上の写真は、「田原坂崇烈碑」で、”もし
薩摩軍が田原坂で勝利し北上していたら、各地の不平士族が
これに呼応して立ち上がり、測り知れない禍があっただろう”
と、官軍の立場から、官軍勝利の意味が刻まれています。


更に、公園内には、写真の「美少年像」もあります。

雨は~降る降る~、人馬は濡れる~、越すに

 越されぬ田原坂~

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱~、
馬上ゆたかに 美少年~

この有名な歌が示すように、田原坂の戦いは、まさに泥沼の
中での戦いでした。

黒い瞳で白面の23歳の薩摩軍の銅像の美少年「高田露
(あきら)」は、太刀を振るい、政府軍に切り込みます。

これに勢いを得た薩摩軍は、緒戦に勝利しました。

実際には、西南戦争には、僅か15才くらいで参加した者も
少なくなく、これらの幼い少年達の多くが田原坂で散り
ました・・・

私事で恐縮ですが、私の熊本での中学時代の同学年に
「美少年」というあだ名の男の子がいました。

どう見ても、美少年には程遠い風貌なので(失礼)、ずっと
不思議に思っていました。

あとで知ったのですが、彼は、熊本の”清酒・美少年”の
跡取り息子だということでした。



田原坂公園を出て、写真の「七本の薩摩軍墓地」へ向かい
ます。

ここには、田原坂で戦死した薩摩軍の兵士311名が
眠っています。

地元の人が祖母から聞いた話として、

「我が家は茅葺きの大きな家だったので、薩摩軍が73人
泊まっていた。

 薩摩軍は、柿木台場の戦闘に毎日出て行くのだが、5人
欠け、10人欠けて、最後は3人だけになった。

 戦闘の銃声が止んだので、高くなっている畑に上がって
みると、柿木台場の方から官軍の鬨の声(ときのこえ)が
流れて来た。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)

 
薩摩軍墓地を出て、近くの写真の「七本の官軍墓地」へ向かい
ます。




地元の人が祖母から聞いた話として、

「畑作業に行くと、弾丸が私の首と背中の近くをビューンと
通ったので、驚いて転げた。

戦闘が終わると、隣家の庭に、政府軍の死体が置いて
あった。
その後、死体が運ばれるときに、死体の懐中のお金は
そのままだったので、係官から「田原坂の人は正直だ」と
言われた。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)


また、地元の人が祖父と父から聞いた話として、

「田原坂で敗れた薩摩軍は、続々と敗走、多くは手負いで、
うめき声をたてて死ぬ者もあった。

政府軍は、この後を追って迫り、また山の上から砲撃した。
祖父に背負われていた父は当時3才だったが、父が赤い着物
を着ていたので、近衛兵と間違われて集中砲撃を受け
怖かった。」

(西南戦争資料館に展示された「西南戦争裏話」から)


 

(薩摩軍墓地)

 

官軍墓地を出て、田原坂駅へ坂道を下りて行きます。

田原坂駅からJR鹿児島本線で熊本駅へ戻りました。





(田原坂の戦いを描いた絵)


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コメント一覧

ウォーク更家
iinaさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、田原坂の戦いは薩摩対薩摩で、家族親戚が敵味方になって殺しあう悲惨な戦いでした。

ええ、どちらも勇敢な薩摩どうしの殺し合いだったので、両軍ともに、完全に決着がつくまでは、なかなか撤退しなかったみたいですね。
ウォーク更家
こもよみこもちさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
田原坂へ行ってみて感じたのは、田原坂の戦いが、想像を絶する悲惨な戦いだった、ということです。

熊本城攻略と田原坂の戦いは、作戦的には失敗だったと思います。

何故、西郷軍が、熊本にこだわり過ぎたのかは謎ですが、最近は、西郷は、この熊本での作戦の指揮を執ってはいなかった、という説もあるようです。

もし、西郷が指揮を執っていたならば、熊本城はスルーしたハズというのが論拠の様です。
もののはじめのiina
薩摩✖薩摩
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f861b4e1a92efe97936982f49763799f
田原坂の戦いは、薩摩✖薩摩だったのですね。むごい話しです。

勇敢な薩摩のことですから、あれほどの激戦だったのですね。西郷隆盛も双方に、目が利いたわけではなかったのですね。

クラシックのミニコンサートを当てて、聴いてまいりました。
留守した一週間に、2つを当てた分は行けずでしたが、更にまた2つ当ててしまいました。


 iinaの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。

こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
田原坂の戦いは、最後の内戦の分岐点になった戦いですね。
作戦的には、どうだったのでしょうか?
西郷軍は、熊本にこだわりすぎたという説もありますね。
ウォーク更家
田原坂の戦いの教訓
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
歴史上の抽象的な概念としては、西南戦争は避けられない戦争だったということになっていますが、田原坂の戦いの詳細を知れば知るほど、戦争の空しさをヒシヒシと感じます。

仰せの通り、私も、如何なる理由でも絶対に戦争は避けるべきだと思います。

そう、太平洋戦争の総括もなく、国民の間の幅広い議論もなく、性急に安直に日本国憲法第九条を変えるなんて、とんでもない事です。
hide-san
田原坂
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
この戦いの話を聞いて、ボクは太平洋戦争を思い出しました、
空しいですね戦争は。

どんなことがあっても戦争は避けるべきです。
日本国憲法第九条(戦争の放棄)
を変えるなんてとんでもない事です。
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