(写真は、「ニケ領用水」の「久地(くじ)円筒
分水」)
小池都知事の「首都封鎖の可能性」声明、
いや~!、このお花見の時期に大変なことに
なりましたねえ。
私も、この週末の土日は、お花見も我慢して、
家に籠ることにします。
とは言え、糖尿病の私は週2~3回の
ウォーキングが必須です。
という訳で、一昨日(3/25)の午前中に、
ニケ領用水沿いの遊歩道をウォーキングを
して来ました。
東急田園都市線の「溝の口(みぞのくち)駅」
(またはJR南武線の武蔵溝ノ口駅)で下車します。
駅前の大通りを進み、写真の久地円筒分水の
案内板に従って、栄橋交差点を右折して
大山街道(注)に入ります。
(注)大山街道
大山街道は、丹沢の大山詣りに行くための道で、
現在の国道246号とほぼ重り、赤坂御門を
起点にして、多摩川を渡り、二子、溝口を経て、
伊勢原から大山に至っています。
左手に上の写真の溝口神社を見ながら大山街道を
直進すると、直ぐに「ニケ領用水」と十字に
交差します。
そこで、大山街道を左折して、「ニケ領用水」
沿いに川を遡って進みます。
「ニケ領用水」沿いには、約500メートルに
わたって、白色、薄いピンク色、濃いピンク色と、
桜様々な種類の枝垂れ桜が植えられていました。
今は7分咲きという感じでしょうか。
平日の午前中のせいでしょうか、それとも、
お花見のスポットとしては余り有名ではない
せいでしょうか、ニケ領用水沿いの遊歩道には、
花見客はほとんど見当たらず閑散としています。
用水沿いには、写真の春の草花も見られます。
「ニケ領用水」は、江戸時代に整備された農業用
水路で、多摩川を水源として、全長32キロにも
及びます。
二ヶ領用水の名前は、江戸時代に、「徳川家の
直轄地」であった「川崎領」と「稲毛領」を
貫いて流れたことに由来するそうです。
(江戸時代には、現在の川崎市の中原区・高津区・
多摩区などを中心とする稲毛領と、その他の
川崎市の区の川崎領に分かれていました。)
(私が仕事帰りに歩いた全長32キロのニケ領用水
沿いの夜のウォーキングについては、
「ニケ領用水沿に沿って① 、 ② 」を
見てね。)
ニケ領用水沿いの桜並木の中程で、に、国道
246号に掛かる陸橋を渡ります。
更に「ニケ領用水」沿いに少し進むと、桜の
大木で有名なゴールの「久地円筒分水」
(国有形文化財)(注)です。
「久地円筒分水」(注)
江戸時代、ニケ領用水は、多摩川から取水
されたのち、ここ久地で、下流の4つの用水路
へ分水されていました。
江戸時代の分水方法は、それぞれの耕地面積に
比例して用水路の幅を分割するために、
割り当てられた水量に応じて、幅の違う木製の
水門を設けただけのものでした。
従って、正確な分水ができず、渇水期には水量
をめぐる争いが絶えませんでした。
そこで、それまで水争いの原因だった木製の
水門(分量樋)に代わって、昭和16年に、県の
技師の平賀栄治によって、コンクリート製の
「円筒分水」(えんとうぶんすい)が造られ
ました。
下の写真の説明版の解説図によると、二ヶ領
用水から取り入れられた水は、平瀬川の下を
潜り、サイフォンの原理を応用して、再び
噴き上がってきます。
その中央の円筒から噴き上がった用水を、その
外側にある直径16メートルの円筒の円周から、
それぞれの灌漑面積に合わせた比率によって、
4本の用水路に流す仕組みになっています。
円筒の切り口の角度で、分水量を調節して
いますが、何と!、その分水される比率は、
耕地面積に応じて、正確に、7.415対
38.471対 2.702対 1.675になっているそう
です!
(久地円筒分水が造られる前の写真:用水路の幅を
分割するだけの木製の水門)
この円筒分水の技術は、当時としては大変に
優れた方式だったことから、全国各地で、
ここ久地の円筒分水と同様のものが築造され
ました。
ニケ領用水沿いの桜の遊歩道は見物人も少なく、
久地円筒分水の脇の桜の大木の周辺のベンチに
座ってお花見を楽しむ人もほとんどなく、
ゆったりと桜見物を満喫出来ました。
帰り道は、ニケ領用水沿いに真っすぐに進み、
東急田園都市線のガードをくぐってから
溝の口駅に向かいました。