(甲州街道は、清流の小仏川に沿って、
緩やかな坂道を上って行きます。)
八王子宿の千人町を出て、次の「駒木野(こまぎの)宿」へ
向かいます。
暫くの間、街道を歩いて行くと、「右 高尾山道
左 真覺寺道」と刻まれた次頁の写真の石造の道標が
あります。
「左 真覺寺道」とは、八王子市の散田町にある鎌倉時代中期に
創建された真言宗の古寺の真覺寺へ向かう道です。
当初、この辺りは八王子宿の入口の枡形になっていました。
暫くの間、現甲州街道を歩いて行きますが、見事な銀杏並木
で、快適なウォーキングです。
やがて、上の写真の「武蔵陵墓地参道」と下の写真の「多摩
御陵参道」の2つの石碑が建っています。
武蔵御陵は昭和天皇、多摩御陵は大正天皇の陵墓です。
御陵参道の入口を越えると、旧甲州街道は、現甲州街道と
別れて、右側の細い道になります。
この旧甲州街道には、長い塀の旧家が点在しており、当時の
面影が残っています。
下の写真は、甲斐(山梨県)の「武田信玄」の六女だった
「松姫」ゆかりの「山王社」です。
甲斐の武田信玄が病死し、その子勝頼が滅ぼされた後、武田の
遺臣達は家康の指揮下に入り、「八王子千人同心」として、
江戸の西の八王子宿を守っていました。
武田信玄の娘の「松姫」は、この地に移り住み3人の娘を
育てました。
「松姫」は、かっての松姫の家臣達である「八王子千人同心」
の心の支えになりました。
上の写真は、この旧街道沿いにある「石地蔵尊」で、風化して
いますが、1772年のものです。
旧街道は、町田街道入口の交差点の先で、現甲州街道と
合流します。
街道の左手は、社寺風デザインのJR高尾駅です。
(JR高尾駅については、「中央線に沿って・最終日」を
見てね。)
旧甲州街道は、JR高尾駅前を過ぎると、JR中央本線の
高架の下の浅川に架かる「両界(りょうかい)橋」を
渡ります。
両界橋を渡ると、上の写真のY字路を右折します。
少し歩くと、上の写真の駒木野病院がありますが、この辺りが
「駒木野(こまぎの)宿」の入口付近で「下宿」と呼ばれて
いました。
「駒木野宿」は、八王子側から下宿、中宿、上宿と続き、
本陣1、脇本陣1、旅籠12、問屋場3軒の宿場でした。
駒木野病院の隣は、上の写真の「駒木野庭園」です。
少し歩いて駒木野宿の中宿に入ると、上の写真の「小仏関」
(こぼとけせき)跡碑が建っています。
説明版によると、この「小仏関」は、東海道の箱根、中山道の
碓井と共に、「関東三関」と呼ばれた主要な関所の一つだった
そうです。
この小仏の関所の位置は、元々は、北条氏と武田氏の国境
である小仏峠にありました。
しかし、江戸時代に入り、幕府が五街道を整備した際に、
小仏峠からこの場所に移設され、以降、常時、4人の関番
により警備されていたそうです。
ちょっと見ずらいですが、写真奥の「史跡小佛関跡」石碑の
手前にある2つの石が、通行人が手形を置いた「手形石」と、
手形の吟味中に手をついて待った「手付石」だそうです。
小仏関所の隣は、上の写真の「駒木野公園」になっています
が、ここは、4人の関守の一人だった落合家の跡だそうです。
上の写真は、関守だった落合家跡の端にある「先賢頌徳
(せんけんしょうとく)碑」で、幕末に尊王攘夷に身を
投じた関守の落合尚亮を讃えて建立されたそうです。
小仏関所跡を過ぎると緩い下り坂になります。
左手に、1706年建立の青面金剛像(庚申塔)と地蔵尊が
並んでいます。
左手の眼下に、上の写真のフライフィッシングの浅川国際
マス釣場を見ながら進みます。
ここから先は、小仏川沿いに進みます。
心が洗われる様で気持ちがいい~!
東京都心からハイキングに来る人々の気持ちが分かります。
上の写真は、高尾山の中腹にある蛇滝を信仰する人々が
利用していたという旅籠「ふぢや新兵衛」です。
ふぢや新兵衛の脇には、「上行(じょうこう)講碑 是より
蛇滝まで八丁」と刻まれた上の写真の石碑があります。
信仰の対象である蛇滝までの距離を示す道標です。
ふぢや新兵衛の道向かいには、上の写真の「いのはな
トンネル 列車銃撃 慰霊碑」の石碑が建っています。
説明版によると、昭和20年8月、中央線のいのはなトンネル
付近で、列車が米軍機に銃撃され、疎開に向かう学童等52名
が死亡したそうです。
更に進むと、旧甲州街道を跨ぐように出来た圏央道の下を
くくって行きます。
JR中央本線の赤レンガのガードをくぐると、もう次の
「小仏宿」です。
駒木野宿から次の小仏宿までは、約3キロです。