ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

電車で行く「薩摩街道」 (その7-1:”田原坂の戦い”)  2018.9.25


(上の写真は、田原坂の戦いを描いた絵)
電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本宿」に続いて 、
今回は「田原坂」です。

明治維新になると、失業した武士達の新政府に対する不満
から、佐賀の乱(首謀者:江藤新平)、福岡の秋月の乱(宮崎
車之助)、山口の萩の乱(前原一誠)、熊本の神風連の乱
(太田黒伴雄)などの不平士族の乱が全国各地で起きました。

その一連の戦いの最後の戦いが、明治10年に起きた「西南
戦争」です。
西郷隆盛率いる旧薩摩藩士が熊本城を目指し、”国内最大で
最後の内戦”になりました。 
「西南戦争」の戦場は、鹿児島、熊本、宮崎、大分と広範に
わたりました。
政府軍6万に対し、薩摩軍は3万、そして戦死者は両軍
合わせて1万4千にものぼる激しい戦いでした。
戦死者1万4千のうちの1/4が「西南戦争最大の激戦地・
田原坂」でした。

では、「西南戦争」最大の激戦地「田原坂」を散策する前に、
先ず、田原坂にある次頁の写真の「西南戦争資料館」に

入って、その展示資料を見ながら、当時の激戦の様子を

振り返ってみましょう。

平成27年に新装オープンした次頁の写真の「西南戦争
資料館」には、実際に使われた銃や弾、古文書等が展示
され、西南戦争の時代背景や裏話など、分かりやすく
展示してあります。

 

また、映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現
した「体感展示」では、陣地の中にいる様な凄い迫力の臨場感
が味わえます。(写真撮影可:300円)

以下の4枚の写真が、放映中の「体感展示」です。
  











明治10年、西南戦争における緒戦「熊本城での戦い」が
始まり、薩摩軍は、熊本城を包囲し、総攻撃をかけます。
これに対して、官軍側は、熊本城へ援軍を送ろうとします。
薩摩軍は、熊本城周辺に兵士3千だけを残し、残りの部隊は、
官軍の援軍を迎え打つために北上します。

これに対し、援軍側は、唯一、大きな大砲が通れる「田原坂」
を目指してへ南下します。

両軍は、田原坂で衝突、田原坂は激戦地となりました。
田原坂は、熊本市の北部の植木町にある標高差60メートル、
距離1.5キロの緩やかな坂道です。
実は、この田原坂は、加藤清正が築いた熊本城の北の守りの
拠点でした。
田原坂は、簡単に進めない様に、坂の先の見通しが利かず、
丘陵を蛇行しながら進む様に、清正が手を加えた坂でした。
西南戦争では、先込め銃(エンフィールド銃)、元込め銃
(スナイドル銃)、連発銃(スペンサー騎銃)、火縄銃など、
さまざまな性能の小銃が使用されました。

(西南戦争に使用された新旧の小銃)


(政府軍の装備)


(薩摩軍の装備)


(薩摩軍兵士と政府軍兵士)


(政府軍の兵士の写真)

当時では近代的な武器だった大砲や小銃などを使用した戦い
となりましたが、この田原坂で発砲された弾丸は、政府軍側
だけで、何と!、”1日に60万発”にも達したそうです!


撃ち合った弾同士が空中で激突するほどの激しさで、その激突
した弾を「かちあい弾(たま)」といいますが、田原坂から
は、互いに激突して変形したかちあい弾が、今でも出土する
そうです。


この田原坂での戦いによって、西南戦争の実質的な勝敗が
決定し、以降、薩摩軍の敗走が始まります。

(田原坂の戦いを描いた絵)

地元の人が父から生前に聞いた話として、

「我が家が政府軍の本部となり、大山巌、山形有朋などの将校
が床几に腰かけて作戦を練っていた。

 家族は納屋に住まわされた。

 大山巌は、毎日、戦闘の指揮に出ていた。

 砲術長は、手を振り下ろして、我が家の庭で大砲の撃ての
合図をしていた。

 大砲は、夜間に薩摩軍に分捕られるのを恐れ、毎晩、七本の
本営に運んでいた。」 

(西南戦争資料館に展示されていた「西南戦争裏話」から抜粋)


次回は、「西南戦争」で最大の激戦地である「田原坂」を散策
します。


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コメント一覧

ウォーク更家
大久保と西郷
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
確かに、明治維新は、未だ真相は今ひとつ謎、ですよね。

私は、偉人である大久保の業績を否定する気は全くないのですが、西郷は”偉人”よりも一回りスケールの大きい”英雄”だと思っています。

鹿児島では西郷、熊本では加藤清正、佐賀では鍋島が、現在も地元の人達から慕われています。

優れた業績だけではなく、ぶれないスケールの大きな人間的な魅力があったからでしょうね。
こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
私は、明治6年の政変に興味があって、いろいろ本を読んでみましたが、明治のできごとでありながら真相は今ひとつ謎ですね。
私はどちらかというと大久保利通派なので、西郷を賛美する気持ちにはなかなかなれないのですが、周囲の人たちには慕われていたようですね。人間的な魅力があったということでしょうか。
ウォーク更家
田原坂駅
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしたか、JRに乗って、熊本駅から博多駅に向かう途中で、田原坂駅を通過したのを覚えているんですね。

田原坂は、熊本市の植木町なので、実家の熊本市北区から近いんです。

ええ、「かちあい弾」が、いくつもあるほどの激戦とは驚きで、この世とは思えない、想像を絶する凄まじい戦闘だったのでしょうね。
もののはじめのiina
たばるざか
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5ca3c0cf1cecf5150b7f4f7424d3b549
JRに乗ると熊本駅から博多駅に向かう途中で、田原坂(たばるざか)の戦場のアナウンスがありました。

「かちあい弾」があるほどの激戦地とは、考えるだけで、その途轍もない凄まじさに身が震えます。


> 日比谷・・・ごく最近出来たのか、毎回見落としていたのか ❔
ゴジラは、下の通り随分前から日比谷に立ってました。ご案内のゴジラは今年に新調したばかりの大形です。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/8dc6d633b45dd0f2d93104f492411b2b

   iinaの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。


ウォーク更家
解り難い西郷の人物像
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
西郷については、人物像が大きすぎるために色々な説があるようですが、以下は、あくまでも私の個人的な見方です。

西郷は、戊辰戦争などを勝ち抜いて新政府を立ち上げ参議にまでなりましたが、西郷以外の新政府の中枢は、薩長土肥の戦争の功労者で占められました。

西郷の考えは、「戦争の功労者は新政府の中枢には入れずに金で報い、日本の将来に必要で優秀な人物を官軍・賊軍に関係なく中枢に入れる。」ことでした。

現に、西郷の強力な後押しで、優秀な幕臣や会津藩士が新政府の中枢に入り、これを見届けたから、西郷は鹿児島に帰ったのだと思います。

ホントに、命も惜しまず名誉欲もない人物だから、戦闘では多くの人々が付いて来たし、また敵側の幕府軍にも尊敬されたのでしょう。

そして本題ですが、西南戦争で担がれたのは、西郷の本意ではなく、また、何とか新政府軍との戦いは回避したかったみたいです。

しかし、近代日本を築くための歴史の大きな流れとして、この戦争が避けられいと感じた時に、反乱を起こした薩摩の若者から離れるのではなく、最後まで寄り添つてあげようと覚悟を決めたのだと思います。

だから、自分が一生懸命に育てた新政府の陸軍に敗れて自決した西郷は、本望だったと思います。

この様に、西郷は、大きな包容力があり、大久保や桂よりも一回りスケールの大きな人物だったので、私は真の英雄だと思っています。
hide-san
ここが解り難い
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
この時代はとても分かり難く感じます。

西郷さんは新政府を立ち上げて参議にまでなって居るのに、
新政府軍と戦ったのか・・・・。

全然解りません。教えてください。
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