ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

奥州街道を歩く(26:白坂) 福島県白河市 8km 2018.11.21


(写真は、奥州街道の「下野の国(しもつけのくに:栃木県)」
と「陸奥の国(むつのくに:福島県側)」の県境(国境)
の境界石)

(これは、江戸時代の黒羽藩と白河藩の境界に建つ石標で、
「従是(これより)北(は)、白川(白河)領(である)」と
刻まれています。)


前回は、「芦野宿」の宿場町と、宿場町の出口にある遊行柳を
見物しました。

今回は、その「芦野宿」から次の「白坂宿」を目指して歩き
始めます。


街道の左手に、上の写真の「甦る豊郷」(芦野地区圃場整備
事業完成記念碑)」と書かれた大きな石碑が建っています。


更に国道を進むと、峯岸の集落へ入る細い道があり、この小道
へ入って行きます。


峯岸集落の民家の前には、写真の大黒天や十九夜塔などが
建っています。





峯岸集落の外れの愛宕神社の参道の横に、下の写真の「べこ石
の碑」がありました。

説明板によると、1848年、芦野宿の学者の戸村忠恕
(ただひろ)が、約3,500文字を刻んで、道徳の民衆教化
について説いているそうです。

なお、「べこ石」は牛の形の石を意味するのではなく、炎帝
神農(えんてい しんのう)という牛面人身の姿が彫ってある
からだそうです。




「べこ石の碑」を過ぎると、奥州街道は、国道に合流しますが、
直ぐに、右の方の小道に入って行きます。


右の方の小道の先は、間の宿の「板屋宿」で、下の写真の
「諭農(ゆのう)の碑」が民家の庭に建っていました。

建立したのは、「べこ石の碑」と同じ戸村忠恕で、病害虫対策
や飢饉への備えなどを農民に教える内容だそうです。



板屋宿の外れには、写真の「板屋の一里塚」が道の両側に
僅かに形を留めています。





板屋集落を過ぎると、次の蟹沢(かにさわ)集落に入り、道の
右上の木立の中に、下の写真の馬頭観音が見えました。





やがて、国道に合流しますが、国道沿いには、写真の様に、
鳥の形に刈り込んだ植木が延々と続きます。




やがて、奥州街道は、国道から左の小道に入り、寄居の集落に
なります。

寄居の集落の入口には、1771年造立の上の写真の
「座り地蔵尊」があり、少し歩くと、右側に下の写真の
「與楽寺」(よらくじ)がありました。




那須三十三所観音霊場の10番の札所とあります。



ここ寄居集落には、写真の様な長い塀の広大な家が何軒か
ありました。



寄居集落を出て、また国道に合流します。


国道を暫く歩くと、左側に写真の「泉田の一里塚」があり
ました。

更に歩いて行くと、街道の脇に、下の写真の「瓢石(ふくべ
いし)」と彫られた石碑と、瓢箪の形に掘られた石像が
ありました。

歌舞伎の「箱根権現 躄(いざり)仇討ち」では、主人公の
棚倉藩士の飯沼勝五郎は、兄を滝口上野に殺されました。

そして、同じく、滝口を父の仇としていた初花と夫婦に
なります。

仇を探し求めているうちに足を病んだ勝五郎は、この地で
療養の傍ら、仇討ちを祈願して、前頁の写真の「瓢石」を
刻みました。

二人は、最後は無事に、本懐を遂げました。

二人の墓は、東海道・箱根東坂の鎮雲寺にあるそうです。



更に国道をどんどん歩いて行くと、ようやく、奥州街道の
「関東」と「みちのく」の境界になる「境の明神」峠に
着きました。



上の写真は、江戸時代の下野の国(栃木県)と陸奥の国
(福島県側)の国境の境界石です。

この「関東」と「みちのく」の境界は、現在の「栃木県」と
「福島県」の県境でもあります。

かつての下野の国(しもつけのくに)と、陸奥の国(むつの
くに)の境界線が、そののまま、現在の栃木県と福島県の
境界となったのです。



奥州街道の「境明神峠」の左側には、先ず、前頁の写真の
栃木県側の「境の明神」が、そしてその奥には、下の写真の
福島県側の「境の明神」が並んでいます。









奥州街道沿いのため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納
したり、灯籠や碑の寄進が盛んに行われた様です。


芭蕉句碑 ("風流の はじめや奥の 田うえ唄")




国道を挟んで、「境の明神」の反対側に、上の写真の様に、
「白河二所関址碑」の看板が掛かっていました。
ここは、「南部屋」という峠の茶屋があった場所だそうです。
看板の横の石段を上ると、下の写真の「境の二所之関址」の碑
が建っていました。

昭和57年に建てられたこの碑文によれば、ここが、江戸時代
の「白河二所ノ関」の関屋跡であることが確認出来た、と
あります。
なお、相撲の「二所ノ関部屋」の名も、この関の名と関係
しているらしいです。



境明神峠から、福島県側へ坂を下って行くと、街道の脇の
下の方に、次頁の写真の「衣がえの清水」があり、古くは
弘法大師がこの清水で衣を濯ぎ、芭蕉も境の明神を参拝後
この清水に立ち寄り休息をしたそうです。



坂道を下り終えると、左側に上の写真の馬頭観音などの
石碑群があり、ようやく白坂の街並みが見えて来ました。



白坂の宿場町に入って行きます。


前の芦野宿と次の白河宿の間の距離が長いので、この白坂宿が
新設されたそうです。


宿の入口の左手に、上の写真の「大垣藩士の戦死の跡」碑が
ありました。
説明板によると、戊辰戦争の白坂の戦いで、大垣藩・銃隊長の
酒井重寛は、自軍の先頭に立って兵を指揮していました。
しかし、持っていた軍旗が新政府軍の銃撃目標となり、胸部に
銃弾を受け戦死した、とあります

酒井の墓地は、白坂宿の外れの前頁の写真の「白坂観音寺」に
あり、大垣藩3名が合葬されているそうです。


(白坂宿に建っていた日光道中・奥州道中の道程表)


白坂宿の宿場町には、特に見るべきものもありませんが、
写真の様に、家毎に旧屋号の石碑が建てられています。

白坂の宿場町は、直ぐに通過してしまいました。

白河宿へ向かう峠道に入って行きます。







山道をかなり歩いたところで、平地に出て、皮籠(かわご)
地区に入りました。


左側に、「吉次八幡神宮」の小さな社があり、その脇に
「金売吉次の墓」の案内表示がありました。





矢印に従って、横道を数百メートル入って行くと、林の中に
石囲いがあり、その中に3基の宝篋院塔(ほうきょう
いんとう)がありました。

説明板によると、この墓は室町時代の建立で、中央が吉次、
左が吉内、右が吉六の「金売吉次3兄弟」(注)の墓だ
そうです。

なお、外回りの石囲いが造られたのは、1864年とあります。

(注)金売吉次
金売吉次は、奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)に仕え、
砂金の交易のために平泉と京とを往来していた商人で、
源義経と親しくしていました。

1174年、吉次3兄弟は、この地で群盗に襲われ殺害され
ました。

これを憐れんだ里人が、ここに葬り供養したそうです。

後に、源義経は、平泉に下る手引きをした吉次への恩から、
この盗賊を討ち果たし、ここに吉次兄弟の霊を弔いました。

そして、ここの入口のところにあった八幡宮に合祀したので、
それ以降この神社を「吉次八幡神宮」と呼ぶ様になった
そうです。

なお、ここ皮籠(かわご)の地名は、吉次が襲われ、皮籠の
中の金などを奪われたことに由来するそうです。


街道に戻って暫く歩いて小山地区に入ると、左側にお地蔵様と
石仏が並んでいました。


やがて一里段という地域に入ると、遠くに那須連山が望める
様になりました。




更に国道を延々と歩いて行くと、風景が、どうやら白河の
市街地の雰囲気になって来ました。

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コメント一覧

ウォーク更家
旧道らしい雰囲気
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、流石にこのあたりまで来ると、旧道らしい雰囲気がよく残っていて、江戸時代の旅をしている様な錯覚に陥るくらいです。

ええ、東北地方の街道歩きでは、白河の関は絶対に外せないポイントですね。
こもよみこもち
おはようございます。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
このあたりまで来ると旧道らしい雰囲気が
よく残っていますね。
白川の関には行ってみたいものです。
ウォーク更家
牛の泣き声はべー
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
確かに、昔、赤牛を赤べこと呼ぶという話を聞いた様な気もします。

そう、私も、最初は、牛の形の石だから「べこ石」だと思っていましたが、牛面人身の姿が彫ってあるからというのは、意外で想像しませんでした。

なるほどね、牛の泣き声の「モー」が「べー」と聞こえたと言われると、そうかな、と思って納得しました。
iina
牛の泣き声 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/efefc1bf6b2dafd646caddf1623391fa
> 「べこ石」は牛の形の石を意味するのではなく、炎帝神農(えんてい しんのう)という牛面人身の姿が彫ってあるから
おもしろいですね。
牛を「べこ」と呼ぶのは東北だけかと思いましたが、九州生まれの父母もそのように呼んだといいます。
いまでは「モー」と聞こえる牛の泣き声が、「べー」と聞こえたというのも面白いです。


> リンクがご法度だからでしょうか、自分のブログに誘導してブログの読者を増やすというツールはなさそうです。
この時代に、些末なことを検閲するコミュニティが存在するなんて信じられないことです。
ブログはリンクし放題ですから話題も広がります。閉鎖的な「らくらくコミュニティ」の対極にあるのだと思います。



ウォーク更家
奥州街道もあと一息
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
まもなくゴールの「白河」ですが、最後に、白河の小峰城に立ち寄って、奥州街道踏破を完了にしようと思っています。

ゴールまでの間に股関節炎が再発しなければ あと一息で踏破です。
船橋原人
奥州街道
まもなく「白河」、今回の歩きは何処までですか?
ウォーク更家
境の明神の神社の名前
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
面白い話をありがとうございます。

そうですか、よそ者からすると、どちらの県側かで、神社の名前が入れ替わり、こんがらがってしまいそうです。

でも、あまり他国との行き来がなかった江戸時代の地元の人からすると、当然、自国中心の呼び名しかなく、スッキリしていたのでしょうね。
hide-san
境の明神
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
境の明神は栃木県の人は栃木県側にある神社を玉津島神社と呼んで、
福島の人は福島県側にある神社を玉津島神社と呼んでいるそうですね。

そして栃木県人は福島県にある境の明神を住吉神社と、
同じように福島県人は栃木県側にある神社を住吉神社と呼んでいるそうです。

面白いですね。
お互いに、境の明神はわが県の明神だと言っているのです。
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