ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

 バスで行く「奥の細道」(その27)  ( 「村上 」: 新潟県)     2018.7.12


(写真は、「千年鮭 きっかわ」の天井から吊るされた
「塩引き鮭」)  

前回の「念珠ケ関」に続き、今回は「村上」の町中散策です。


我々の「奥の細道」バス旅行は、山形県の念珠ケ関を出た後、
更に、日本海の海岸沿いに、バスで1時間半の新潟県の
村上市を目指します。

新潟県の最北部に位置する人口6万の「村上市」は、日本海

に面し、江戸時代には村上藩の城下町として栄え、雰囲気の

ある武家屋敷などが残っています。

早速、バスを下りて、村上市内を散策します。





 

 




 




写真の「黒塀小路」(くろべいこうじ)は、村上の町人町の
象徴でもあった黒塀です。




上の写真は、村上市内のメインストリートにある「千年鮭
きっかわ」です。

村上は、千年を越える鮭の街で、古くから独自の鮭食文化が
発展しました。
村上の市街地の端を流れる三面川(みおもてがわ)は、今でも、
鮭が遡上しています。


鮭は、江戸時代には、藩の重要な財源にもなっていたそう
です。

「千年鮭 きっかわ」のお店の人の説明によると、粗塩を

引き、1週間、塩蔵した塩引き鮭を、1年間の時間を

かけて、天井から吊るしながら発酵させ、味を成熟

させて造り上げます。

下の写真は、その「きっかわ」の中の天井から吊るされた
「塩引き鮭」です。

塩引き鮭が、奥の部屋まで、約1,000本も下がっている

光景には、ホントに驚きました!






下の写真の塩引き鮭のお土産・「鮭の酒びたし」

(1,188円)を買いました。

塩引き鮭は、思ったより塩っぽくありませんでした。

帰宅してから、「鮭の酒びたし」を肴に日本酒を飲みました
が、酒の肴にピッタリです!

村上に行ったら必ず寄りたいスポットです。

先日、BS日テレ「三宅裕司のふるさと探訪・村上市の旅」
で、三宅が「千年鮭 きっかわ」を訪れるシーンがあり
ました。

その番組の中で、「きっかわ」のご主人が、塩引き鮭を
食べられる近所の料理店「井筒屋」について、
「芭蕉は、旅籠「井筒屋」で2泊もしたのに、奥の細道には、
村上の記述が1行も無く、おまけに芭蕉は夏バテで、
一句も詠まなかった。」と怒っていました。

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我々は、「千年鮭 きっかわ」の近くの「井筒屋」へ向かい

ます。


上の写真は、旅籠・久佐衛門跡に建つ「井筒屋」で、芭蕉と
曾良が2泊しました。
現在、井筒屋は、各種の鮭料理が食べられる料理店兼宿屋に
なっています。
鮭の心臓、頬なども食べられる下の写真の鮭料理の

フルコースが人気らしいです。
  
(井筒屋のチラシから)
当時、村上は、榊原氏の城下町で、曾良が、村上藩の筆頭

家老である榊原帯刀(さかきばら たてわき)の父に仕えて

いたという特別の縁があり、帯刀の家老屋敷(現在の市役所)

に挨拶に行っています。
曾良は、旅の当初から、村上藩の筆頭家老の榊原氏の墓参を
目的の一つにしていたと推測されます。
それは、村上到着の翌日が、2年前に亡くなった曾良の主君

の三男の榊原良兼の月命日で、どうも、月命日に会わせて

村上を訪れたらしいからです。
この様に、村上に2泊したのは、曾良のためで、芭蕉は村上
では出る幕がなかった様です。

村上の町中にある「浄念寺」へ向かいます。

「浄念寺」は、1667年に藩主となった「榊原氏」の菩提寺
でした。
1689年、「曽良」が長島藩(三重県)時代の主君だった、
村上藩の筆頭家老・榊原氏の墓参のために「浄念寺」を
参拝しています。
榊原氏の後には、1716年に「間部詮房」(まなべ

あきふさ)が藩主となりますが、4年後の1720年に病死

しました。
「間部詮房」は、6代将軍家宣のときに側用人(そば

ようにん)となり、7代将軍家継のときは家継を補佐して

政治の実権を握り権勢を欲しいままにしましたが、

8代将軍吉宗になり失脚、ここ村上へ左遷されました。
間部家では、浄念寺を菩提寺として詮房を葬りました。

1818年、間部詮房の百回忌に合わせて、土蔵造りとしては
日本で一番大きい上の写真の「本堂」が再建されました。
(国の重要文化財)

村上の町中にある「浄念寺」を出て、郊外の「石船(いわ
ふね)神社」へ向かいます。
石船神社は、岩船港を望む高台にあり、1,300年以上の歴史
がある村上地域の総鎮守です。
代々、村上藩主の保護が厚く、港町岩船の産土神として、
土地の人々の信仰を集めてきました。

境内には2基の芭蕉句碑があります。

”文月や 六日も常の 夜には似ず”

 (七夕というものは、その前日の六日の夜でさえ、
  なんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。)

”花咲きて 七日鶴見る 麓(ふもと)かな”

 (桜の花が咲いて散るまでは七日だという。また鶴も
  降りた場所に七日間留まるという。

  この江戸の鈴木清風(芭蕉の門人)の屋敷に来て

  みると花と鶴とが見られてなんと素晴らしい

  ことか。)






村上市の「石船神社」を出て、隣の胎内市(たいないし)の
「乙宝寺」(おっぽうじ)へ向かいます。



聖武天皇は、仏教による鎮護国家の理念で、全国に国分寺・
国分尼寺を建立しましたが、同じく、北陸一帯の安穏を
願って建立されたのが「乙宝寺」(おっぽうじ)です。






1620年、村上城主により建立された上の写真の「三重塔」
は、美しい純和様の建築で、国の重要文化財です。

また、乙宝寺の宝物殿には、何と!、お釈迦様の左目が納め
られているそうです。

後白河天皇から、この左目を納める金塔を賜ったので、
これまでの「乙寺」という名称から「乙宝寺」に改称した
そうです。
ちなみに、お釈迦様の右の目は、何と!、唐土(中国)の寺に
納められているとのこと。

乙宝寺は、別名を「猿供養寺」といいますが、平安時代後期

の「今昔物語集」には、”乙宝寺の猿の伝説”が出て来ます。

それによると、その昔、乙宝寺の裏山に住み着き、お経を
聴きに寺の本堂にやって来る夫婦の猿がいました。

あるとき、2匹の猿は、木の皮を持ってきて、身ぶり手ぶり

で写経をせがんだので、住職はそれに応じます。
その後、猿の夫婦は、冬になると姿を見せなくなりました。

心配した住職が、裏山に探しに行くと、2匹の猿は、雪の中

で抱き合う様に死んでいました。


そして、その手には、木の皮の写経が握りしめられて

いました・・・


住職は、「猿塚」(猿の墓)を築き、その写経を寺宝と
しました。

上の写真が、乙宝寺の「猿塚」です。

この伝説には続きがあります。


2匹の猿が死んでから数十年後のある日、写経をしたい

という夫婦が乙宝寺を訪ねて来ました。
ところが、写経は途中で進まなくなり、夫婦は住職に、
「私達は、お経を聴きに来た猿の生まれ変わりです」と
打ち明けました。
猿の夫婦が写経の途中で死んでしまったために、木の皮に
写経されなかった残りのお経を住職が唱えると、人間と
なった猿は、全ての写経を無事に終えたそうです。
乙宝寺には、このときの木皮に書かれた写経が残されている
そうです。

乙宝寺には、参道の両脇をはじめ、境内のあちこちに桜の木

があります。

”うらやまし 浮世の北の 山桜”(芭蕉) 

(あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。

 私は今江戸にあってよろず浮世の問題に悩まされています。

 金沢の門人の句空に贈った句で、「浮世の北」は北国金沢
 の意。)

我々の奥の細道・バス旅行は、「村上」を出て、「新発田城」
に立ち寄ってから、新潟駅から新幹線で東京に戻りました。

(新発田城については、(2018/7 新発田城)を見てね。)


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コメント一覧

ウォーク更家
こもよみこもちさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
写真からは余り分かりませんが、鮭が約1,000本も下がっている光景は、想像を絶するもので、ホントに圧倒されました!

ええ、芭蕉が泊った旅籠が今も残っていて、1日1組だけみたいですが泊ることが出来ます。

新潟県では2句詠んでいますが、村上では体調が悪く一句も詠まなかったそうで、歓待した地元の方にしてみれば不満でしょうね。
ウォーク更家
iinaさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、新潟の村上の町は、子供の頃を思い出す、昔懐かしい佇まいでした。

塩引き鮭を肴に一献、最高です。

確かに、言われてみれば、バス車内の帽子がアンモナイト模様ですね。

そうでしたか、お富さんの粋な黒塀は、防火・防腐の効果があったのでしたか。
こもよみこもち
おはようございます。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
鮭が「約1,000本も下がっている光景」、見てみたいものです。

芭蕉が泊った旅籠が今も残っていて、しかも泊ることもできるのですね。
村上という地名は記憶がないのですが、ここでは一句も詠まなかったのですか?
子孫の方には、ちょっと残念だったでしょうね。
もののはじめのiina
懐かしの佇まい 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f5e74fb2e5e597d90b8877ddce65aace
吊るしの「塩引き鮭」を見た次に、バス車内の帽子がアンモナイトの模様にみえました。
                                       塩引き鮭を肴に 一献かたむけたくなりました。

新潟の村上の町は、なつかしいたたずまいです。
                      そのうえ「黒塀小路」は、粋な黒塀ですね。
                      https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d15bc779280b472dea0f7410b625ed8e


> 中央郵便局キッテの6階KITTEガーデンから見下ろした写真、全体感がよく分かって素晴らしいですね。
東京駅広場は、流線形にかたどっており道も流れるように敷いていました。^^

  

ウォーク更家
定年後に村上へ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
えぇ~!、現役時代に富山新潟担当ですか!
現役時代は、全国、全世界を飛び回っていらっしゃったんですね。

村上の土地の有力者からの接待だったら、飛び切り上等の料理だったのでしょうね。

定年後、奥様と昔の赴任地への旅行なんて素敵ですね。
hide-san
村上
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
現役時代、市場開拓で富山新潟を担当させられました。
村上で土地の有力者から接待を受け、
食べた料理とご飯が美味しかった記憶が抜けず、
定年後、象潟から村上にカミさんを連れて、
村上で食事をしました。

昔の美味しかった記憶と違って居ました。
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