(写真は、即身仏が安置されている西生寺の弘智堂)
「曽良随行日記」によると、芭蕉一行は、現在の新潟市内
から、北国街道沿いに南下し、弥彦神社に参拝、その翌日に
「寺泊」(てらどまり)の「西生寺(さいしょうじ)」を
訪ねています。
「西生寺」は、奈良時代、行基により創建されたと伝え
られる越後屈指の古刹です。
西生寺は、「弘智法印」(こうち ほういん)が、ミイラ像の
まま、”日本最古”の「即身仏(そくしんぶつ)」(注)
として安置されていることで有名です。
(注)即身仏
修行僧が、人々を救済するために、 自ら断食し、生きたまま
地中に埋もれて、瞑想状態のまま絶命し、その後にミイラ化
した身体。
当時、ミイラ化した僧侶を祀る信仰は日本各地にあった。
曽良随行日記によると、芭蕉も、この即身仏のことを既に
知っていて、ここ西生寺に立ち寄りました。
我々のツアーも、弥彦神社から、長岡市の東の端の寺泊の
「西生寺(さいしょうじ)」へ向かいます。
西生寺の寺務所で「即身仏」の拝観を申し込みます。
(500円)
即身仏が安置されているという「霊堂」には、精緻な彫刻が
いたるところに見られます。
上の写真は、霊堂の天井にある、一本のケヤキを刳り
貫いた、駕籠彫りという彫刻です。
一本のケヤキを彫ったとは思えないその細密さに驚きました。
住職が、その「霊堂」(弘智堂)の鍵を開けてくれます。
霊堂に入ると、住職の読経が始まり、それが済むと、
「前に来てご焼香して下さい。」と言われました。
私は、緊張しながら焼香して手を合せました。
即身仏のミイラを、50センチくらいのすぐ真近かで拝顔
させて頂きましたが、ドキドキしました!(撮影不可)
弘智法印のミイラは、袈裟を着て帽子を戴き、少し首を
傾げた姿勢でしたが、これは、いまだ説法をして
いらっしゃる姿だそうです。
芭蕉を初め多くの歴史上の著名人も、このミイラ像を拝観
して手を合わせたことでしょう。
弘智法印が少し首を傾げた姿勢をとっているのについては、
下記の伝説があるそうです。
豊臣秀吉の時代、「死んでいるのに座ったままの姿勢を
取り続けているのは、キツネが化けているに違いない!」と、
奴兵が槍で即身仏の胸を突く、という事件が起こりました。
弘智法印のミイラの胸を槍で一突きしたこの奴兵は、後に
「真の仏を突いてしまった」と、後悔した末に自害しました。
そして、本人の遺言により、「奴の懺悔の首」として、
長い間、この即身仏のそばに置かれていたそうです。
そして、驚くことに、何と!、現在、その奴の本物の頭骸骨
が、西生寺の宝物殿に展示してありました!
怖っ~!
(西生寺の宝物殿)
また、境内には、写真の「芭蕉参詣の碑」があり、下記の
曽良の句が刻まれていました。
”文月や からさけおがむ のずみ山”(曾良)
(からさけは、干し肉のことで、ここでは即身仏を意味し、
また、のずみ山は、この辺一帯を指すそうです。)
寺泊の東の端に位置する西生寺を出て、日本海沿いに南下し、
寺泊のメインストリートへ向かいます。
寺泊のメインストリートへ向かう途中で、「聚感園」
(しゅうかんえん)に立ち寄ります。
聚感園は、北越地方の豪族・五十嵐氏の邸宅跡を史跡公園に
したものです。
次頁の写真は、園内にある「弁慶の手堀井戸」です。
奥州へ向かう源義経一行が、五十嵐邸にかくまわれた時、
弁慶が義経のために掘ったそうです。
上の写真は、佐渡へ流された順徳上皇が風待ちのため
滞留した行在所(あんざいしょ)跡です。
寺泊(てらどまり)のメインストリートに着きました。
寺泊のメインストリート沿いある、上の写真の銅像は、
佐渡に向かって説法をする「親鸞聖人」で、昭和39年に
建てられたものです。
親鸞聖人は、佐渡に流されたときに、風待ちのために、
ここに7日間滞在しました。
この銅像の脇に、上の写真の芭蕉の句碑がありました。
風雨に晒されて句碑の字は読めませんが、立札によると
「うたがふな 汐(うしほ)の花も 浦の春」だそうです。
(二見が浦の夫婦岩に、勢いよく当たって花のように
舞い散る波も、二見が浦の春を祝福している。
二見が浦の神である伊勢神宮の神德を決して疑っては
いけない。)