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左:善福寺緑地、花見の宴、右:新宿御苑

今週は桜満開ですね。今年もいつもの花見仲間と近くの善福寺緑地で盛り上がってきました。こうして花の姿を見ていると、本当に多くのことを想い、感じますね。
今度の元号も、梅花の歌から取ったそうですが、私が何時も歌っている「嘉辰令月」にも通じていて、何だか嬉しいです。色んなことを言う人もいますが、私はこれからの世を寿ぐような感じがして気に入りました。

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毎年こうして花見が出来るというのは実に幸せな事だとつくづく思います。散り行く桜なんか、何ともいえない風情があって、何だか浸ってしまいますね。ただ近頃は美しいだけでなく、その姿に生死というものもかなり感じるようになりました。年を取ったということなんでしょうかね・・・。

存在するものは皆、死を内在しているのは世の習い。古から諸行無常やパンタレイと言われるように、すべてのものは常に移り行くものであり、永遠に変らないものは何一つありえないのです。死のない生はありえないし、生のない死もまたありえない。だからこそ、限りある命だからこそ、その生の輝きが美しく感じられるのかもしれません。

蕾が脹らみ花を咲かせ散り、新しい葉が出て来て、紅葉し、枯れて、また蕾が脹らんでくる花の姿を一年を通し見つめていると、その姿に命の営みを感じずに入られません。そしてその生き様や使命、その場に咲く運命等々、色々な想いが湧き上がって来ます。私のように人生折り返し地点に来ると、何に接しても、そんなことを思ってしまいます。人でも花でも全ての命には生死が定めとしてあり、また何かしらの使命がある。そこに生きる何かしらの理由もある。最近はそんなことをよく想います。


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岡田美術館にて
私自身は平凡な人間ではありますが、私という人は世界に一人だけですし、他の誰にも成り得ない。言い方を変えれば、他の人には出来ない特別任務を背負っているとも言えます。きっとこうして琵琶を弾いて回っているのも、与えられた使命なのかもしれません。私は好きでやっているだけなのですが、考えてみれば、今ここに導かれたと思うことが本当に多々有り、これ迄こうして、どうにかこうにか琵琶弾きとして生かされてきた事を思えば、琵琶を弾くということがそのまま私の存在理由でもあると思います。

私の音楽はどんな風に聴かれているのか、私には判りませんが、薩摩琵琶はとかくそのパワフルな弾きようや、大声を放つ様が目に耳につきやすいものです。しかしそんな表面的な強さや、多少のお上手さを見せているようでは、まだまだですね。常にそういう所に寄りかからないように自重しています。
表面の体裁を繕い、立派な名前や肩書きに飾られていても、小器用なテクニックでうたい上げても、表側をなぞっている音楽は低俗の極み。ましてや平家物語をやるのであれば、言うまでもないでしょう。消え入るようなかすかな音にも、その中に滔々と流れる命の営みが満ち、力強い音にも、その裏側に滅び行く姿が内在して初めて何かが語れるのと思うのは私だけではないでしょう。こぶしまわして哀れだの何だのと大声上げているような演奏がいかに薄っぺらいものか、聴く人はすぐに判るものです。そんな心で平家物語を舞台で演奏する事は、私には出来ません。


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photo 新藤義久

今年は私個人にとっても色々と変化して行く年になりそうです。先日書きました「四季を寿ぐ歌」も今年中には完成すると思いますので、樂琵琶・薩摩琵琶共に充実のプログラムを組んで行けると思います。自分の世界がより明確になるだろうし、それに伴って活動のやり方も少しづつ変化して行くことでしょう。環境も変わって行くかもしれません。今はそんな時期だと思っています。

毎年楽しませてくれる梅や桜も、毎年その姿は変ります。長い間通って眺めていると、満開の豪勢な姿を魅せてくれるものばかりでなく、勢いが無くなってしまったもの、その寿命を終えたもの等、様々な姿に出会います。私もいつかはこの命が尽きる時が来るでしょう。それも私に与えられた運命、使命なのだと思います。私が残した音楽が誰かに、何かを感じさせ、そこからまた新たな音楽が生まれていったらいいな~~、なんてことを想いつつ、今年も花に酔い、酒に酔い、この一瞬の輝きを楽しませてもらいました。

たとえ密やかであっても、自分らしく自分の花を咲かせたいものですね。