秋深まってまいりましたね。先日、琵琶樂人倶楽部14周年も無事終えることが出来ました。地味な会ですが、とにかく毎月続けていると色んな事があり、色んな人が来てくれて毎回面白いです。来月は年末恒例のお楽しみ企画。琵琶樂人倶楽部ではおなじみの尼理愛子姐さん、尺八の藤田晄聖君、安田登先生&ノボルーザの名和紀子さんが登場です。次回は完全予約制にしますので、是非ご連絡くださいませ。お待ちしております。
今年は秋の演奏会シーズンにも関わらず、今週から2週間ほどは演奏会も無く、ちょっとばかりのんびりしてます。先月は毎週地方公演でずっと出ずっぱりでしたので、体も休まってちょうど良いです。来月がまた忙しくなりますので、夏頃から構想している新たな作品を、この間に何とか具体化したいと思っています。デュオによる現代作品を考えているのですが、今迄に無いイメージを持っているので、その辺が上手く具体化するかどうか・・・。乞うご期待!!
今年はコロナ禍にも拘らず結構お仕事させてもらって、本当にありがたい限りですが、例年の演奏会と違い、こういう状況ですと色々と考え、また見えて来るものが多いですね。これ迄ずっと自分の音楽を追い続け、年を追うごとに具体化してまいりましたが、今年のこの事態を通して、自分の姿勢も更に徹底してきました。とにかく自分らしくあるという事が一番です。それが気持ちの良い音楽に直結します。やっぱり気持ちの良い音楽をやりたいし、聴きたいんですよ。
その時々で憧れているものや、思考方向性などによって、演奏するもの、聴くものは変わって行くのですが、この年になると、自分にとって本当に気持ち良いものだけが残りますね。
まだ若手などといわれていた頃は、薩摩琵琶の基本スタイルである「弾き語り」でも負けられないという気持ちが強く、かなり意地でやっていました。しかし私は本来歌いたい訳でもないし、またいつも書いているように、近代軍国時代のあの歌詞は、どうあっても受け入れがたいので、演奏していてもちっとも気持ち良くないのです。
弾き語りの演奏は、祇園精舎などの短いものを除き、今はほとんどやっていません。今年も随分な数の演奏会をやらせてもらっていますが、弾き語りをやったのは、2月の日本橋富沢町楽琵会だけですね。私はどうも声で感情表現をするのが苦手なのか、合わないようです。以前はオペラなんか夢中になって観ていたのですが、歌の意味を気にせず器楽の演奏として聴いていたのでしょうね。グレゴリアンチャントや朗詠や謡曲等、直接感情を入れない声の音楽は好きなのですが、喜怒哀楽を直接表現する(それも声高に)声の芸は、自分でやるにはとても厳しいのです。
今後はもっともっと、自分が気持ち良いと思う音楽をやって行こうと思います。
人間は自然との共生などといわれるように、人間以外のものとの関係によって生を営み、その環境の中で気持ちの良さを実感する生き物です。大体体の中にも何億兆という細菌やミトコンドリアが住んでいて、それらのお陰で生きているくらいですので、地球環境も人間関係も、人間が第一、自分が第一になり過ぎると上手く行きません。私にとっては喜怒哀楽を前面に出す「歌」はどうも人間や自分というものが中心になり過ぎているような感じがするのです。主張が先行して周りとの調和が感じられない。私の思う音楽は「調和」がテーマなので、風や月などの曲が多いのもそこから来ています。
音楽はその背景に、風土があり、歴史があり宗教があります。自然と共に生きる人間の営み無しに音楽は成立しないので、純粋な音楽などというものはありえないのです。すべての音楽は風土が育んで出来上がったというべきでしょう。しかしながら、そういう周辺ばかり見過ぎると音楽の芯は聴こえて来ません。ここがとっても難しい所です。言葉では言い表しにくい部分なのですが、少しそういった背景から離れてみる方が音楽が響いてきます。
雅楽は平安貴族文化という部分は勿論ですが、当時のアジア圏の情勢・交流等も大事な要素です。クラシックでも、バッハやモーツァルト、バルトーク、シェーンベルク、ドビュッシー、ラベル・・。皆特有の背景があるのですが、そこを分かった上で、その背景から少し離れて音楽に身をゆだねてみると、あらためて聴こえてくるものがあるように思います。私の好きな中央アジアの音楽も、それぞれの国で壮絶な歴史があり、その中で生まれて来たのだと思いますが、その歴史を理解しつつも、あえてただ音楽として聴いてみて、とても魅力的で何とも惹かれます。そしてそこからまたその深い歴史へと興味も深まって行くのです。文字より先ず音楽を先にした方が、素直に聞くことが出来るように思います。
このバランスが難しい。以前は音だけを聴くのは表面的で薄い鑑賞の仕方であり、その背景も歴史も知るべきだと思っていたのですが、音楽、特に長い時間受け継がれて来たものには、音そのものに様々な背景や情報、創られた当時の人々の想いが色濃く内在されているので、文字情報を読むよりも、先ずは音から感じ取る方が、より音楽に寄り添えるように思います。もちろんそういうものを感じる為には、土台となる知識や知性が必須だとは思いますが、逆に言うと、音楽を聴いてもそういうものが感じられないようだとしたら、音楽自体が薄っぺらいものか、はたまた聴いている本人の感性が鈍いかという事です。
長い歴史の出来事は、現代の感性だけでは捉えきれません。自分のセンスとは全く違うものも沢山あります。文字を読んだところで判らないものは判らない。文字では伝えきれないものを音楽から受け取るくらいで良いかと思います。私は中央アジアの民族音楽を聴いていると、文字には表せない何とも言えない気分になりますね。
実際に文字情報があるとそれに寄りかかってしまい、「こういうものだ、こうでなくてはならない」「凄い演奏家なんだ」みたいな音楽以外のものが、自分でも気が付かない内にまとわりついてるものです。はっきり言ってこれは想像力の欠如です。現代人は情報に振り回され、「感じる」心が弱くなっている。目の前が楽しい、嬉しいというエンタテイメントに慣れきって、何でもヴィジュアルで見てしまうからだと思いますが、情報は、言い換えると、小さな自分という牢獄に入っている状態とも言えます。小さい頭や器で理解しようとせず、判らないことは解らないままに「感じる」事が出来なくなっている。そんな状態では、音楽から聴こえてくるものも、その内の数パーセントでしかないでしょう。
私が肩書やキャリアを誇示する人を避けるのも、そういった余計な情報からなるべく遠ざかっていたいとともに、貧弱な想像力に支配されたくないからなのですが、余計な情報が多い現代の社会では案外難しいものなのでしょうね。
私の音楽の基本となっているジャズも、中学の頃から毎日朝から晩まで浴びるように聴いていましたが、ギターを手放し、憧れの部分から解放され、自分がその場から離れ、違う分野に身を置いてみて初めて新たな魅力が聴こえてくるようになりました。琵琶も、流派や協会から離れて、弾き語りをやらなければいけない、というしがらみからも解放されて、自分が本来求めていたものを追求するようになって、初めて私の音楽が立ち現れてきました。
論語では「楽」は一番大切なものとして書かれています。何故大切かというと、相手の心に直接届き、大きな作用を及ぼすからです。孔子は「国を変えるのなら楽を変えよ」と言う位、音楽の力を重要視していました。だから軍歌等にも使われてしまうのです。それくらい音楽そのものには力があるのです。
こうしてみると、気持ちの良い音楽に巡り合うのもなかなか大変ですね。
日本の音楽が本当に気持ちの良い魅力的な音楽として、これからも響き渡って欲しいですね。
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