旦那は脳リンパ腫を発症すると、
まず目が見えなくなった。

正確には同名半盲といって視野の半分がかけてたそう。
車の運転はできなくなった。

その後利き手だった右腕が動かなくなった。
お箸やスプーンは器用に左で使えるようになり、字や絵もそれなりに書くことができるようになって、
すごいなあ…
と私はいつも感心して見てた。

闘病後半になると、歩行がたどたどしくなり、支えが必要になった。

亡くなる4ヶ月くらい前から歩行や立ち上がりが難しくなってきて、立つことも歩くこともできなくなった。

声もだんだんと小さくなり、話すことができなくなった。

なんでもおいしく食べる人だったけど、飲み込むことができなくなって食事がとれなくなった。
ギリギリまで水分だけでも口からとったけど、それも最後はできなくなった。

多分、視野も後半はかなり狭まっていてあまり良く見えていなかったと思う。

だんだん少しずつ不自由になり、できることが減ってくるのに、

旦那はちっとも変わらなかった。

不自由になったからといって必要以上に落ち込むこともなく、
その中でできること、面白いネタを探して楽しんでた。


お盆期間中、義母と久しぶりに会った。

お盆なので、亡くなった人たちを思い出し、振り返る時間があった。
16年前に亡くなった義父は胆管ガンから肝臓ガンになりあの時は大変だった、かわいそうだったと義母が言った。

比べようもないこと、比べても仕方のないことだけど、、、
会話のニュアンスをうまく伝えられないのですが、私は旦那が、そして私たちがあまり大変じゃなかったように思われてるような気がした。。。

旦那はいつも平気そうな様子だったから、
さほど苦しんでなかったと、錯覚しているのかもしれない。

すると長男が、お父さんはいろんなことができなくてかわいそうだった…じいちゃんは最後まで自由にうごけてたから…とポツリと言った。

長男は、そばにいてお父さんの辛さがよくわかってたから、言いたくなったんだろうね、、、
長男のお父さんへの思いが伝わってきて、せつなくなった。

旦那は子どもの頃、思うように生きさせてもらえず、大人になってもつらい記憶をもったままだった。

旦那が寝たきりになり、在宅で最後まで過ごそうとなった時のこと。

訪問看護師さんがケアしてくれている時にやってきた義母は、
看護師さんたちに(それは旦那のいる前でもあったんだけど)、
自分の病気、夫の病死、そして息子が病気になり今の状態であることを嘆き、なんで私ばっかりこんな目にあうんだろう、なんて私は不幸なんだ、かわいそうなんだと訴えた。

パニックになったから出てきた言葉なんだろうか。でもそれを差し引いても私には、理解できなかった。
かわいそうなのは義母じゃない。母にこんなこと言われる旦那だ。

この時、私は旦那が親について言っていたことの意味と失意の深さがやっとわかった気がした。

「親を変えることはできないから諦めてる。仕方ない」と旦那はよく言ってた。

抵抗することをやめた旦那は、親とは適度に仲良く付き合ってた。

諦めた上で許してたのかな。
諦めと許しは違うのかな?

でもたぶん、旦那は亡くなるまで心から両親を信頼することはなかったんじゃないかと思う。

この経験があったからなのか、、、自分自身で対処法を見つけ乗り越えたという自負があったからなのか、、、

旦那は自分自身が大好きで自分自身を信頼してた。だからなんでもありのままを受け入れて、何でも許してくれた。とても心地よかった。

長男の障害のことも、次男の治療のことも “へ” とも思ってなくて、子どもたちのことが大好きで大好きで、ただただ可愛がって、いつも全力で遊んで向き合ってた。

辛いことがあっても必要以上に騒がず、嘆かず、できる中で楽しんでた。

だから一緒に過ごして楽しかったし、何があっても大丈夫、何でもできる!と思えた。

ないものねだり、起こったことを嘆いて不幸だと思い込んで、周りに助けを求めるなんてばかばかしいけど、けっこうそんな人多くてまきこまれそうになる💦

もう過ぎたこと、すんだことだと思ってても、奥の奥では許せてないもんだとわかったわ滝汗

でも、旦那のようにそんな自分を許し、何もかもそれでいいと受け入れ、楽しむことができますように照れ

できるかな?

できるようになりたいと心から思います。