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ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その5

2019年03月02日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その5

◆中世中期(1270年~1299年)
フランス王ルイ9世による最後の十字軍が始まりと、モンゴル帝国の内部分裂を起こし、ハン同士で争いを始めた。また、神聖ローマ皇帝不在の大空位時代もハプスブルク家によって解消された。また、地中海の覇権を巡るヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の幕開けでも有った。


・第一次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(1256-1270)の終結
1270年、フランス王ルイ9世の仲介により、ヴェネツィアとジェノヴァの地中海覇権争いが終結し、休戦宣言がなされた。その後、ジェノヴァはエーゲ海からヴェネツィア商人を追い払った。

・マムルーク朝のキプロス遠征の失敗
1270年、マムルーク朝のバイバルスは、キプロス島に艦隊を派遣するが、航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没し、失敗に終わった。

・カラ・スゥ平原の戦い
1270年、チャガタイのバラクはアムダリヤ川を渡り、イルハン朝の領地に侵入し、カラ・スゥ平原の戦いを繰り広げると、バラクはイルハン朝のアバカに大敗し、再びバラクとオゴデイ家のカイドゥは対立し始めた。

最後の十字軍::第8回十字軍

・第8回十字軍/ルイ9世の死去
1270年、体調不良のフランス王ルイ9世は、シチリア王国を征服した弟・シャルルの提案により、ハフス朝チュニジア征服を行う為、再び第8回十字軍を集結させ、チュニジアに上陸した。しかし、チュニジア遠征中に病死した為、シャルルと王太子フィリップは貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件でハフス朝のスルタンと和睦した後、十字軍はフランスに帰還した。

・リトアニア大公国と諸侯国の対立
1270年、シュヴァルナスの死去後、トライデニスがリトアニア大公に即位すると、分離独立を試みたベラルーシのナヴァフルダク、ガラドク 、ポラツクなどの諸侯と争いが勃発する。そして、ナリシアの公であったポリュスとスクシェがドイツ騎士団に亡命した事で、リトアニア大公国とドイツ騎士団との同盟が解消された。

・大元王朝の建国
1271年、モンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライは、大都に遷都すると、モンゴル帝国の国号を大元と改めた。しかし、クビライの支配はモンゴル帝国全体ではなく、限定的なものに成った。

・1271年、マルコポーロのアジア諸国の旅が始まる

・チャガタイ・ウルスの混乱(東西分裂)
1271年、バラクがカイドゥによって毒殺されると、元チャガタイ当主のムバラーク・シャー及びアルグの遺児カバン、チュベイ兄弟らと、バラクの遺児ドゥアらとの間で激しい抗争が起きた。その後、カイドゥがニグベイをチャガタイ・ウルスの第8代当主にすると、チュベイ兄弟はカイドゥと対立し始め、大元王朝に亡命した。72年、ニグベイが反旗を翻し、カイドゥに殺されると、ジョチ・ウルスのモンケ・テムルは大元王朝の宗主権を認めた。

・テッサリア君主国の建国/エピロス専制公国の分裂
1271年、父ミカエル2世の死去に伴い、ニケフォロス1世が専制公に即くと、先代イピルス専制侯の庶子であったヨハネス1世ドゥーカスがテッサリアにおいてエピロス専制公国から自立し、テッサリア君主国を建国したため、エピロス専制公国はエピロスとテッサリアの2派に分裂し、大きく衰退する事になる。

・ハールィチ・ヴォルィーニ大公国のリトアニア侵入
1272年、ペレームィシュリ公国の君主レーヴ・ダヌィーロヴィチは弟シュヴァールノの死去に伴い、ハルィチナー(ウクライナ西北部)とヴォルィーニ公国(ウクライナ北部)の諸領地を手にし、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の首都をドニステル川沿いのハールィチから、更に北西のリヴィウに遷都し、更にジョチ・ウルスに従属しながら、リトアニア国境への定期的な侵入を始めた。

・グトケレド家の反乱/ハンガリー
1272年、領主グトケレド・ヨアキムによって、ハンガリー王ラースロー4世は囚われた。その後、アバス家、ケーセギ家、グトケレド家などの多くの貴族集団がハンガリーの覇権を巡って争いを始めた。

・ブハラの略奪/イルハン朝
1273年、イルハン朝のアバカはチャガタイ・ウルスやオゴデイ・ウルスに対抗するため、ブハラの住民をホラーサーン地方へ移住させると、ブハラ部隊の略奪が始まり、アバカは急いで制圧した。

・南宋攻略/襄陽・樊城の戦い
1273年、襄陽・樊城の戦いが南宋の敗北で終わりを告げた。また、75年の蕪湖の戦いに於いて賈 似道の南宋軍が、モンゴル軍に敗退し、76年にはバヤン率いるモンゴル軍が都臨安に迫ると、恭帝は降伏した。その後、残党達によって抵抗が続けられたが、最後の祥興帝が、79年の崖山の戦いで水没すると、完全に南宋は滅亡した。

大空位時代の終焉/
1273年、ボヘミア王オタカル2世の勢力拡大に恐れた七選帝侯らは、スイスの弱小領主に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世をローマ王に選出した。これにより、大空位時代が終わりを告げる。しかし、ボヘミア王オタカル2世だけはこれに認めず、ローマ王ルドルフ1世と対立する。

・リトアニア大公のヘウムノ遠征/ドロヒチン市民の大虐殺
1273年、リトアニア大公トライデニスはノヴゴロド公国のヘウムノ遠征を決行し、翌年にはハールィチ・ヴォルィーニ大公国のドロヒチン市街を略奪し、市民の虐殺を行った。75年、ドロヒチン公レーフがドロヒチンの奪還を試みようとして、モンケ・テムルにリトアニア遠征を懇願するが、途中で中止された。

・第2回リヨン公会議/ミカエル8世の破門
1274年、ミカエル8世パレオロゴスはローマ教皇に東西教会の合同をもちかけ、リヨン公会議で締結された。その後、合同に反発した正教徒たちで監獄が溢れると、ミカエル8世パレオロゴスは教皇マルティヌス4世から、破門された。

・ボヘミア王オタカル2世の帝国アハト刑
1274年、ライン宮中伯ルートヴィヒがオタカルに世襲地であるボヘミア、モラヴィアの受領、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を求める訴えを起こされ、帝国裁判によってボヘミア王オタカル2世は帝国アハト刑を受けた。

蒙古襲来
1274年、文永の役
1281年、弘安の役

・エシハの戦い/マリーン朝VSカスティーリャ王国
1275年、カスティーリャ王アルフォンソ10世がバチカンにある教皇庁に赴いてる隙きに、マリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブがイベリア半島に上陸した。10月には、マリーン朝とナスル朝の連合軍がエシハでカスティーリャ軍を破り、トレド大司教サンチョを戦死させた。

・テッサリアの独立宣言/東ローマ帝国軍の敗退
1275年、1277年と二度に渡って、テッサリア君主ヨハネス1世は東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスの侵攻を撃退し、独立を完全なものにした。

・大元の中央アジア遠征/シリギの乱
1275年、クビライの四男・ノムガンは宰相アントンを引き連れてカイドゥ討伐に向かう途中、混乱しているチャガタイ・ウルスの中心都市アルマリクに駐留し、モンケ家、アリクブケ家の諸王族たちと交渉する。
76年、モンケの四男シリギやアリクブケの遺児メリク・テムル兄弟らが、大元に対して不満を抱き、反乱を起こし、ノムガン、アントンらを捕虜にして、ノムガンの身柄をジョチ・ウルスに、アントンの身柄をカイドゥに渡して、シリギはモンゴル高原征服に向かった。そのため、大元軍は中央アジアから撤退を余儀なくされた。

・マリーン朝の撤退
1276年、アルフォンソ10世の次男;サンチョ4世がセビリアに赴き、ヤアクーブ軍と激戦を交わし、マリーン朝軍をアフリカに追いやった。

・ルーム・セルジューク朝、廷臣のクーデター
1276年、完全にイルハン朝の傀儡政権と成ったカイホスロー3世のルーム・セルジューク朝は、イルハン朝からの過重な貢納に苦しめられると、カイホスロー3世の廷臣たちが、有力者・スライマーンの隙きを見て、マムルーク朝と結託してクーデターを起こした。

・オタカルの不戦降伏
1276年、オタカルに重追放処分が下されると、反オタカル運動が高まり、オーストリアの貴族がルドルフ1世に寝返ると、オタカルの粛清が始まった。そのため、ドイツ国王軍と同盟軍がオーストリアに進軍すると、オタカルは不戦降伏してオーストリアとエーガーの放棄を約束した。

・南宋の消滅/モンゴル・南宋戦争
1276年、広州湾において崖山の戦いでモンゴル軍に撃滅され、南宋は完全に滅びた。

・ンガサウジャンの戦い/モンゴルのビルマ侵攻
1277年、ビルマのパガン朝の君主ナラティーハパテが元に忠誠を誓ったタイ系の諸族を攻撃したことから始まり、元の君主クビライの命を受けて出撃した雲南方面の駐屯軍がこれを徹底的に破った。

・エルビスタンの戦い/マムルーク朝のアナトリア遠征
1277年、マムルーク朝のバイバルス軍が、アナトリア半島に遠征を行い、エルビスタンの戦いでイルハン朝のモンゴル軍を破った。その後、イルハン朝の報復を恐れ、ルーム・セルジュークの領主たちが決起しない事にがっかりして、バイバルス軍は帰還する。

・スィヤーヴシュの反乱/ルーム・セルジューク朝
1277年、バイバルスのアナトリア遠征に呼応して、カラマン家のシャムが、スカイカーウス2世の王子と称するスィヤーヴシュを擁して反乱を起こし、コンヤを占領した。翌年、ルーム・セルジューク朝とイルハン朝によって退治された。

・ブルガリア皇帝の処刑/豚飼いイヴァイロの蜂起(1277-1280)
1277年、長期にわたり、ジョチ・ウルスのノガイ軍がブルガリア北部を収奪した事により、ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフの権威は失墜し、豚飼いイヴァイロが義勇軍を率いてモンゴル軍をドナウ川北方に追いやった豚飼いイヴァイロの蜂起が起こった。その後、イヴァイロの義勇軍はブルガリアの首都タルノヴォに進軍し、ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフを捕らえて処刑した。

・イングランドのウェールズ侵攻
1277年、イングランド王エドワード1世ウェールズ大公ルウェリンと対立した。1282年から1283年のウェールズ侵攻で、ルウェリンを敗死に追い込み、ルウェリンの弟ダフィズを処刑してその一族を滅ぼし、併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子エドワードに与えた。

・帝国アハト刑/ストレツの戦い(ポーランドの内戦)
1277年、ボヘミア王オタカル2世が帝国アハト刑に処せられると、オタカル2世の支援をしていたポーランドのヴロツワフ公ヘンリク4世が、叔父のレグニツァ公ボレスワフ2世に誘拐された。その為、オタカル2世は怒り、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世とグウォグフ公ヘンリク3世と共に、レグニツァ遠征を行った。その後、オタカル2世らが、ストレツの戦いでボレスワフ2世の息子ヘンリク5世に敗北し、ヴロツワフ公国の1/3が失われた。翌年、ヘンリク5世がレグニツァ公位を継いだ。

・農民皇帝イヴァイロの誕生
1278年、首都タルノヴォを包囲したイヴァイロはコンスタンティンの未亡人マリアと結婚し、ブルガリア皇帝に即位した。その後、不安を抱いた東ローマ皇帝ミカエル8世はアセン家の皇族イヴァン・アセン3世をブルガリア皇帝に擁立し、ブルガリアへ進軍した。しかし、東ローマ軍はイヴァイロ軍に敗退してしまった。次にジョチ・ウルスのモンゴル軍がイヴァイロ軍とドナウ川沿いでドゥロストルム包囲戦を3ヶ月もの間繰り広げると、イヴァン・アセン3世はヴァルナ沿岸に上陸し、東ローマ軍と共にタルノヴォ攻撃を開始した。翌年の79年に、イヴァイロが戦死した噂が流れると、ゲオルギ・テルテルを始めとするブルガリア貴族たちはイヴァン・アセン3世を受け入れ、ブルガリア皇帝に即位させる。しかし、イヴァイロがタルノヴォに帰還し、東ローマ軍を排除した。

・マルヒフェルトの戦い/神聖ローマ帝国の勝利
1278年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世及びハンガリー王ラースロー4世の連合軍と、ボヘミア王国軍との間で、マルヒフェルトの戦いが繰り広げられると、ボヘミア王国(チェコ)軍が大敗し、オタカル2世は撲殺された。その後も、皇帝ルドルフ1世はボヘミア・モラヴィアへ進軍するが、両軍は膠着状態に陥り、和平を結び、ボヘミア戦は終わりを告げた。その後、オタカル2世の息子・ヴァーツラフ2世が、ボヘミア王国とモラヴィアを継承し、オーストリアなどの領土は没収された。

・マゾフシェ公国との同盟/リトアリア大公国
1279年、アジクラウクレの戦いに勝利したリトアリア大公トライデニスは、ポーランドのマゾフシェ公国と同盟を結ぶ事に成った。

・マムルーク朝スルターン・バラカの廃位/カラーウーンの即位
1279年7月、カラーウーンらの将軍はバラカを廃位し、バイバルスのもう1人の子であるサラーミシュをスルターンに擁立したが、11月にはカラーウーンによって廃位された後、カラーウーン、自身がマムルーク朝のスルターンに即位した。

・ダマスカスの反乱/モンゴル軍のアレッポ破壊
1280年、ダマスカスの知事ソンコルがカラーウーンに対して反旗を翻し、カラーウーン軍に敗北すると、イルハン朝のアバカに援軍を求めた。10月、モンゴル軍がシリアに侵入し、アレッポを破壊した。

・農民皇帝イヴァイロの暗殺
1280年、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン3世は、イヴァイロ軍の鎮圧に失敗すると、タルノヴォから脱出し、東ローマ帝国へ向かったが、ミカエル8世はこれを拒んだ。その後、ゲオルギ・テルテルが皇帝に即位すると、反イヴァイロ派の貴族と連合して、イヴァイロの農民軍を打ち破ると、イヴァイロは援軍を求めにジョチ・ウルスのノガイの所に行ったが、義兄弟のイヴァン・アセン3世も、ノガイの所に居た為、ノガイはイヴァイロを暗殺した。しかし、アセン3世も再び帝位に即くことは無かった。

・ブルガリア帝国と東ローマ帝国の対立
1280年、ゲオルギはシチリア王国のカルロ1世(シャルル)、セルビア王国のステファン・ドラグティン、エピロス専制侯国と同盟し、東ローマ帝国に対抗した。その後、セルビア王ステファンと、テッサリア君主ヨハネス1世がマケドニア地方にある東ローマ領を攻撃した。その後、セルビア王ステファンはバルカン半島を南下し、東ローマ帝国を苦しめた。

・ジョチ・ウルスの従属国ウラジーミル公国の内乱
1281年、モンゴルより、ウラジーミル大公に任命されたヴァシーリー・ヤロスラヴィチが死去して、ドミトリー・アレクサンドロヴィチが即位すると、弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチとの間で相続争いが勃発した

・ホムスの戦い
1281年、キリキア・アルメニア軍で構成されるモンゴル軍とダマスカス知事のソンコルと講和を結んだマムルーク朝軍がホムスで激突し、マムルーク朝が勝利した。その後、休戦協定を結ぶ。

・ヴロツワフ公国の奪還/ヘンリク4世のクラクフ遠征
1281年、従兄弟のレグニツァ公ヘンリク5世がソンドヴェルで会合を開くと、ヘンリク4世はヘンリク5世を始め、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世及びグウォグフ公ヘンリク3世を捕え、開放条件にヴロツワフ公位を認めさせた。その後、ヘンリク5世はボヘミア王ヴァーツラフ2世の援助によって、自領を守った。
更に、ヘンリク4世はポーランド大公レシェク2世にヴロツワフを攻められた報復として、ポラーンドのクラクフ領を攻めるが、失敗した。

・息子サンチョの乱/カスティーリャ王
1282年、サンチョ4世は父アルフォンソ10世と対立し、父を廃して自ら国王として即位すると、父は宿敵であるヤアクーブと連合して反抗してきた為、サンチョ4世はこれを撃破して父をセビリアに幽閉した。

・リトアニア大公トライデニスの暗殺
1282年、トライデニスは、兄のダウマンタスが送り込んが暗殺集団によって殺された。その後、ダウマンタスがリトアニア大公に即位した。

・カイドゥ・ウルスの成立/モンゴル高原遠征
1282年、バヤン率いる大元軍はモンゴル高原のシリギ軍討伐に成功すると、モンゴル高原を手に入れた。同年、カイドゥはバラクの遺児ドゥアをチャガタイ・ウルスの当主に据えると、カイドゥ・ウルスを形成した。
また、河西回廊領主となったチュベイとチャガタイ当主ドゥアは、ハミ盆地から天山山脈東麓に横たわるウイグル人居住地域の支配を巡って戦いが勃発する。


・シチリア晩祷戦争/ナポリ王国の樹立
1282年3月、ルイ9世の末弟のシチリ王シャルル1世は、再び東ローマ帝国への侵攻を試みたが、東ローマ帝ミカエル8世はアラゴン、ジェノヴァと手を結び、更に重税を課せられていたシチリア住民の反フランス感情を煽り、シチリアの晩祷事件を誘導した。その後、ローマ教皇マルティヌス4世がシチリア市民を破門し、シチリア王シャルル1世が鎮圧する為にシチリア上陸を果たす。8月、シチリア市民により擁立されたアラゴン王ペドロ3世が、シチリア晩祷戦争でシャルル1世を破り、新たにペドロ3世がシチリア王に即位すると、シャルル1世はナポリに拠点を移し、ナポリ王国を建てた。これにより、シチリア王国は二分され、ブルガリアとの同盟は解消された。その後、ブルガリア王ゲオルギは、ノガイ率いるモンゴル軍の侵入に悩まされ、国土は荒廃していた。

・ジョチ・ウルスのトラキア出兵/東ローマ帝国の対セルビア戦争
1282年4月、ギリシャのテッサリア王ヨハネス1世とセルビア王ウロシュ2世が協力し、東ローマ帝国領のスコピエを奪った。その為、東ローマ皇帝ミカエル8世は対セルビア戦争の準備し、娘婿でジョチ・ウルスのノガイがトラキア地方に援軍を派兵した。しかし、ミカエル8世は12月のトラキア遠征で戦死した為、ミカエル8世の息子アンドロニコス2世は、モンゴルの援軍をセルビアに向かわせた。

・セルビアのバルカン半島南下/ブルガリアとモンゴルの和解
1282年、セルビア王はマケドニア北部のスコピエを獲得し、セルビアの首都に定めた。12月には、東ローマ皇帝ミカエル8世が死去した。83年には、セルビア軍はトラキアの港街カヴァラを攻略した。更に84年
アルバニア北部およびディラキウムを支配下に置いた為、新たに東ローマ皇帝に即位したアンドロニコス2世との間で休戦協定を結んだ。
一方、ブルガリア皇帝ゲオルギはセルビアに援助を求める為、セルビア王ウロシュ2世の元に娘のアンナを嫁がせた後、ジョチ・ウルスのノガイの元に息子テオドルを人質に差し出した。

・イルハン朝の継承争い
1282年、イルハン朝アバカが死去しすると、三つのグループに別れて後継者の選定が紛糾し、84年5月にテグデルが即位すると、自らのイスラームに対する信奉を内外に表明することに努め、マムルーク朝のスルターン・カラーウーンに親書を送ってこれと友好を築こうとし、バグダードのモスクやムスタンスィリーヤ学院などの諸所のマドラサにワクフなどの多大な寄進を進めた。

・ヴロツワフ公ヘンリク4世の破門
1284年、ヴロツワフ司教トマシュ2世は教皇特使の支持を受けて、シロンスク公国群のヴロツワフ公ヘンリク4世と、その領地を破門したが、翌年の85年にヘンリク4世は教皇マルティヌス4世に上訴し、ヴロツワフ司教は司教領の一部を没収され、ラチブシュ公国への亡命した。しかし、87年までにはヴロツワフ司教はヘンリク4世に服従した。

・アルグンの反乱/イルハン朝
1284年、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。その後、叔父のコンクルタイによって、テグデルは処刑された。86年、アルグンはイルハン朝のハンに即位した。



・ラドガ湖の侵入/第三次スウェーデン十字軍
1284年、スウェーデン軍はフィンランド東部に居住してるカレリア人から貢税を徴収する為、ラドガ湖に侵入したが、帰り道にノヴゴロド軍の待ち伏せに遭って全滅させられた。

・リトアニア大公ダウマンタスのトヴェリ遠征
1285年、リトアニア大公ダウマンタスはトヴェリ遠征を行うが、モスクワ、トヴェリ、トルジョーク等の連合軍によって粉砕された。更に、トライデニスの息子リマンタスによって殺されると、リマンタスはブティゲイディスにリトアニア大公位を譲った。

・ジョチ・ウルスのハンガリー攻撃/ラースロー4世の破門
1285年、トレ・ブカとノガイ率いるジョチ・ウルス軍がラースロー4世が治めるハンガリーに侵入し、数多くの都市を略奪した。その後、ラースロー4世は、多くの貴族からモンゴルのハンガリー侵入を扇動したと非難され、人心が離れていった。翌年、ラースロー4世はエルジェーベト妃を投獄すると、大司教ロドメルによって破門された。

・スコットランド王位継承への介入/バーガム条約
1286年、スコットランド王アレグザンダー3世が崩御し、ノルウェーにいる3歳のアレグザンダーの孫娘マーガレットがスコットランド女王に即位すると、翌年にはイングランド皇太子エドワードと結婚させ、スコットランドとの間にバーガム条約を締結した。

・モンゴルの第三次ポーランド侵攻(1286-1287年)
1286年、ジョチ・ウルスのトゥラ・ブカが、ロシアの諸公数人とともにポーランド侵攻し、幾つかの都市を攻略すると、2万人のポーランド人捕虜をジョチ・ウルスに連行した。翌年、トゥラ・ブカとノガイが、再びポーランド侵攻を開始するが、ルブリン、マゾフシェ、サンドミェシュとシェラツは略奪できたものの、イルハン朝の後継者争いに巻き込まれた為、首都クラクフ略奪には失敗した。

・トダ・モンケの廃位/モンゴル帝国
1287年、トダ・モンケがジョチ・ウルスの第7代ハンになると、トレ・ブカ、コンチェク、アルグイ、トグリルチャの4人の王族たちが、クーデターを起こし、トダ・モンケを廃位した。

・パガンの戦い/モンゴルのビルマ侵攻
1287年、ビルマのパガン朝は、パガンの戦いで大元軍に敗れると、クビライに降伏した。その後、パガン朝の内乱が始まり、大元軍に首都を攻略されて滅んだ。

・ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の反モンゴル宣言/第三次ポーランド侵攻
1287年、ペレームィシュリ公レーヴ・ダヌィーロヴィチはハンガリー王国のザカルパッチャ地方、及びポーランド王国のルブリン州を占領すると、チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結んだ。93年には、レーヴ・ダヌィーロヴィチは全ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の君主となる。

・ナヤン=カダアンの乱/モンゴル帝国
1287年、オッチギン家のナヤンを中心として東方三王家(オッチギン家・カサル王家・カチウン家)が叛乱を起こすと、クビライ自らが直属の5衛軍を率いて親征を始めた。そして、ナヤンは1日の戦闘でクビライ軍に破れ、処刑された。その後、東方三王家もクビライ軍に降参すると、全ての当主たちを挿げ替えた。この混乱に乗じて、カイドゥはモンゴル高原への進出を狙ったが、クビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させた。しかし、再びカチウン家の王族カダアンがクビライに反旗を翻す。

・オーストリアVSハンガリー
1288年、オーストリア大公アルブレヒト1世とハンガリーの大貴族ケーセギ家が交戦し、オーストリア軍によってハンガリー国境西部の30以上の要塞が占領された。その後、ケーセギ家がアルブレヒト1世をハンガリー王に擁立した。

・騎士団のプロイセン征服/北方十字軍
1290年、ドイツ騎士団とリヴォニア騎士団がプロイセンとバルト海沿岸部の征服を完了した。

・エルサレム王国の終焉/アッコン遠征
1291年、カラーウーンの子アシュラフ・ハリールは、エルサレム王国最後の拠点であるアッコン遠征を行い、5月にアッコンを陥落させると、ティルス、シドン、ベイルート、トルトーザは相次いでマムルーク朝に降伏させ、シリアの十字軍国家は全て滅亡した。

・ジョチ・ウルスの後継者争い
1291年、ジョチ・ウルスの有力者ノガイは、ジョチ・ウルスのハンであるトレ・ブカと対立し、トレ・ブカと一味を殺害し、モンケ・テムルの5男トクタを擁立した。

・タリファ遠征/カスティーリャ王国
1291年、サンチョ4世はイベリア半島最南端のタリファ遠征を行い、マリーン朝からタリファを奪還した。翌年、グラナダとマリーン朝が再び手を結んでタリファを包囲したが、これを阻止した。

・神聖ローマ皇帝の後継者争い
1291年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が死去すると、息子のアルブレヒト1世と、ナッサウ家のアドルフが王位を巡って争った。翌年、フランクフルトでの会議において、選帝侯の支持を背景にしてアドルフはローマ王に選出され、神聖ローマ皇帝に即位した。

・リトアニア大公ブティゲイディスのマゾフシェ侵攻
1292年、リトアニア大公ブティゲイディスはマゾフシェに侵攻し、レツィアまで進軍したが、95年に死去した為、息子のヴィテニスがリトアニア大公に就いた。

・セルビアの同盟国ブルガリアの誕生
1292年、セルビア王ウロシュ2世は、ノガイの従臣・シシュマンが治めていたブルガリアのヴィディンを破壊し、シシュマンをドナウ川の対岸に追いやった。その後、ウロシュ2世がセルビアの貴族ドラゴシュとシシュマンの娘の婚約を取り決め、またウロシュ2世が娘のアンナをシシュマンの子ミハイルに嫁がせたことで、セルビアとブルガリアの両国は同盟国になったと和約を結んだ。

・ブルガリア皇帝ゲオルギの逃亡/廃位
1292年、ゲオルギ・テルテルはノガイから圧力を受け、東ローマに亡命した。最初ビザンツ皇帝アンドロニコス2世はモンゴルとの関係の悪化を恐れてゲオルギの受け入れを拒んだか、最終的にゲオルギはアナトリア半島に送った。その後、ノガイの後ろ盾によりスミレツがブルガリア皇帝に即位した。

・ナヤン=カダアンの乱の終結/モンゴル帝国
1292年、クビライは皇孫テムルを派遣し、元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させると、翌年には将軍バヤンに変わって、テムルがモンゴル高原駐留軍の司令官に任命された。

・ヴィボリ城包囲戦/第三次スウェーデン十字軍
1293年、スウェーデンはカレリア西部を占領し、ヴィボルグにヴィボリ城を建築すると、ノヴゴロド軍はヴィボリ城を包囲するが不首尾に終わった。

・カイドゥの侵攻/クビライの死
1294年、大ハーン・クビライが死去すると、テムルが大ハーンに即位した。その後、 中央アジアを支配したカイドゥの侵攻がますます強まり、元軍は後退を余儀なくされた。

・イルハン朝の内乱/モンゴルのイスラム改宗
1295年、イルハン朝のアルグン・ハンが病死すると、第5代君主にゲイハトゥが成ったが、失政を続けた為、バイドゥが挙兵し、第6代君主に成ったが、半年後には自分もガザンに打たれた。そして、第7代君主に成ったガザンはイスラム教に改宗した。

第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(1294-1299)
1294年、ヴェネツィア艦隊がジェノヴァ遠征を開始したが、ジェノヴァはキリキア・アルメニア王国のライアッツォなどの東方植民地から兵をかき集めて、ヴェネツィア艦隊を撃滅した。しかし、96年にジェノヴァ国内が混乱して艦隊を集結でき無くなると、再びヴェネツィア艦隊はジェノヴァの植民地(エーゲ海のポカイアや黒海のカッファ)を奪った。更に植民地ペラを焼き払った。

・ポーランド国王の再興
1295年、ポーランドの再統合運動を進めていったプシェミスウ2世がグニェズノ大司教らに認められ、プシェミスウ2世はポーランド国王として戴冠した。しかし、マゾフシェ公国だけは独立を維持した。

・ビザンツ・ヴェネツィア戦争(1296–1302)
1296年、ヴェネツィアと休戦条約を結んでいた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルでジェノヴァ人住人が、ヴェネツィア人住人を虐殺する事件が起きると、皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスがジェノヴァ人を保護し、ヴェネツィア人を捕獲した。その後、ヴェネツィア艦隊がボスポラス海峡を襲い、コンスタンティノープルの金角湾沿岸を焼き払った。

・モンゴル軍によるトラキア略奪/ブルガリア
1297年から翌年にかけて、モンゴル軍は東ローマの入り口に当たるトラキア地方を略奪した。98年には、ブルガリア皇帝スミレツがノガイの子チャカによって殺害された。

・リヴォニアへの侵攻/リガとの同盟
1297年、リトアニア大公ヴィテニスは、リガが混乱すると、リガの市民への援助を申し出て、異教徒の兵士とキリスト教の住民間の宗教的緊張を和らげた。更に、リヴォニアへの侵攻に成功し、リガ北方のカルクス城を破壊し、トライダの戦いに勝利してブルノ団長と22人の騎士を打ち取った。

・神聖ローマ皇帝アドルフの廃位/ゲルハイムの戦い
1298年、アドルフは王権の強化を目指して領土拡大を積極的に推進した為、選帝侯らにより廃位され、同年7月2日にゲルハイムの戦いにおいて、宿敵アルブレヒト1世と戦って敗れ、戦死した。その後、アルブレヒトは国王選挙でローマ王に選出され、8月24日にアーヘンで戴冠式が行われた。

・クルツォラの海戦/第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の終結
1298年、ジェノヴァ艦隊がアドリア海に侵入した為、ヴェネツィアとジェノヴァの間でクルツォラの海戦が行われ、両国とも壊滅的被害を被った。翌年、ミラノ条約が結ばれて第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争が終結した。この頃、マルコ・ポーロはヴェネツィア軍の牢屋で東方見聞録を書いた

・ドイツ騎士団統治下のプロイセン攻撃(1298-1313)
1298年、リトアニア大公ヴィテニスはプロイセンのドイツ騎士団への遠征を開始する。遠征は1313年まで11回行われ、ブロドゥニカの地で大虐殺が起こった。

・クァトルヴォー条約
1299年、フランス王フィリップ4世とローマ王アルブレヒト1世は同盟を結び、クァトルヴォー条約を締結し、二国間の境界としてマース川が定められた。

・アキテーヌの戦い/フランスVSイングランド
1299年、94年から始めったアキテーヌの戦いは、イングランド王エドワード1世の関心がスコットランドに向けられ、フランスでの戦争は望んでいなかったため、アキテーヌ公としてフランス王に臣従する事と、ガスコーニュの確保で和睦し、終結した。しかし、フランドル市民はフランス王フィリップ4世に抵抗し続けた。

・ジョチ家内部紛争の終結/ジョチ・ウルス
1299年、3年前からウイグル人サルジダイの件で対立したノガイとトクタ・ハンは、遂にドン川河畔で交戦し、トクタ・ハンは敗北してサライまで逃げた。その後、ノガイはクリミア半島の諸都市を掠奪した為、家来がトクタ・ハン側に味方し、再び両者はテレク川で交戦した。トクタ・ハンがノガイを破り、ノガイと末子トライを処刑して、ジョチ家の内紛は終わりを告げた。また、ブルガリア皇帝に擁立されたノガイの息子チャカも、翌年にはトクタ・ハンの命を受けたテオドルによって殺害され、テオドルがブルガリア皇帝に擁立された。

・オスマン帝国の建国
1299年、オスマンはカラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒルを占領した。その後、オスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン帝国を築き上げた。

・キリキア・アルメニア王国VSマムルーク朝
1299年、キリキア・アルメニア王国のヘトゥム2世はイルハン朝のガザン・ハンに支援をもとめ、イルハン=キリキア連合軍はマムルーク軍とシリアで対決し、マムルーク軍を敗走させたが、3年後、再びマムルークに奪還された。

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2 コメント

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読者登録ありがとうございます (torcha-n)
2019-01-18 09:31:43
この度は、父ちゃんの役立たずブログを登録してくださいましてした、誠にありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
歴史 (しき(トレイル))
2019-01-18 09:37:12
お早うございます。

こんな歴史の記事には目が有りません。
当方は中国史に詳しいのですが、
横並びに世界史との位置付けが読めて楽しいです。
毎回、歴史の記述は全て読ませていただいています。
今後とも歴史の記事をお願いします。

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