みなさま ごきげんよう。
いまだなにかの呪いに苦しんでいるゴマでございます。
(今日は菜園でキュウリを取ろうとしたら、まちがってメインの茎をバッサリやっちまったよ ……ウグウグ……湿気でメガネが曇って、よく見えなかったんだもん)
そんな凹んだ気分にピッタリなのがこちらの曲。
ところで、この前、ゴマは初めて株主総会とやらへ行ってきました。
といっても、最小単位の株しか買っていなくて、総会の案内をいただくのが申し訳ないくらいの小口株主なのですが
でも、案内をもらったからには、ぜひ行ってみたいっ
893風味の総会屋さん だの、怒号飛び交う荒れた総会 だの、マラソン総会 だの、小市民にはあまり縁のないワクワクドキドキの世界が広がっていそうな気がするじゃありませんかっ
てーことで、期待に胸ふくらませ臨んだ初株主総会は…………淡々と終わった
あー、そういえば、日本史の授業で『株仲間』っていうのがあったけ。
(江戸検1級の勉強したときは、そのへんはテキトーに流したからよくわからん )
ちっ、しかたない。ちょいとググってみるか……フムフム……
(以下、ほぼウィキさんの丸写し)
『株仲間』
問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成すること。
株式を所有することで、構成員として認められた。
当初は同業の問屋による私的な集団。
江戸幕府は当初は楽市楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、慶安元年(1648年)~寛文10年(1670年)にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた。
だが、享保の改革において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。
田沼意次時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。
自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。
株仲間の公認=願株の公認を指す。
天保の改革を進めた水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、天保12年(1841年)~13年(1842年)にかけて、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた(株仲間解散令)。
しかし、当時の経済の実態は、農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。
また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに債権と契約履行を保証する役割があった。
ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えた。
結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。
この政策に反対した町奉行矢部定謙(庄内藩で神さまになったあの矢部ちゃんですぞ)は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死。
水野失脚後の弘化3年(1846年)、筒井政憲(おお! 日露和親条約交渉の中心人物・あの筒井が)が、株仲間の再興を阿部正弘(出た 阿部ちゃん)に提案。
嘉永4年(1851年)、提案を受けた阿部に命ぜられた遠山景元(金さんやね)によって冥加金不要の問屋仲間として再興(株仲間再興令)。
安政4年(1857年)に再び株仲間となった。
再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。
明治維新後の明治5年(1872年)、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。
株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていった。
なお、日本相撲協会の年寄名跡は「年寄株」とも呼ばれるが、その原型は江戸時代に形成された株仲間であり、平成の世に至り数々の問題を抱えつつもなお年寄制度は存続している。
(あのドロドロの相撲協会がねぇ……)
(カブ的なもの)
ちなみに、今ゴマの冷蔵庫の中には、カブの浅漬け1㎏と、キュウリのキューちゃん的液体つき固形物が2㎏入っています。
……うん、全然関係なかったね
(でも、オニギリによく合うんだ、コレが )
いまだなにかの呪いに苦しんでいるゴマでございます。
(今日は菜園でキュウリを取ろうとしたら、まちがってメインの茎をバッサリやっちまったよ ……ウグウグ……湿気でメガネが曇って、よく見えなかったんだもん)
そんな凹んだ気分にピッタリなのがこちらの曲。
ところで、この前、ゴマは初めて株主総会とやらへ行ってきました。
といっても、最小単位の株しか買っていなくて、総会の案内をいただくのが申し訳ないくらいの小口株主なのですが
でも、案内をもらったからには、ぜひ行ってみたいっ
893風味の総会屋さん だの、怒号飛び交う荒れた総会 だの、マラソン総会 だの、小市民にはあまり縁のないワクワクドキドキの世界が広がっていそうな気がするじゃありませんかっ
てーことで、期待に胸ふくらませ臨んだ初株主総会は…………淡々と終わった
あー、そういえば、日本史の授業で『株仲間』っていうのがあったけ。
(江戸検1級の勉強したときは、そのへんはテキトーに流したからよくわからん )
ちっ、しかたない。ちょいとググってみるか……フムフム……
(以下、ほぼウィキさんの丸写し)
『株仲間』
問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成すること。
株式を所有することで、構成員として認められた。
当初は同業の問屋による私的な集団。
江戸幕府は当初は楽市楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、慶安元年(1648年)~寛文10年(1670年)にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた。
だが、享保の改革において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。
田沼意次時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。
自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。
株仲間の公認=願株の公認を指す。
天保の改革を進めた水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、天保12年(1841年)~13年(1842年)にかけて、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた(株仲間解散令)。
しかし、当時の経済の実態は、農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。
また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに債権と契約履行を保証する役割があった。
ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えた。
結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。
この政策に反対した町奉行矢部定謙(庄内藩で神さまになったあの矢部ちゃんですぞ)は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死。
水野失脚後の弘化3年(1846年)、筒井政憲(おお! 日露和親条約交渉の中心人物・あの筒井が)が、株仲間の再興を阿部正弘(出た 阿部ちゃん)に提案。
嘉永4年(1851年)、提案を受けた阿部に命ぜられた遠山景元(金さんやね)によって冥加金不要の問屋仲間として再興(株仲間再興令)。
安政4年(1857年)に再び株仲間となった。
再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。
明治維新後の明治5年(1872年)、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。
株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていった。
なお、日本相撲協会の年寄名跡は「年寄株」とも呼ばれるが、その原型は江戸時代に形成された株仲間であり、平成の世に至り数々の問題を抱えつつもなお年寄制度は存続している。
(あのドロドロの相撲協会がねぇ……)
(カブ的なもの)
ちなみに、今ゴマの冷蔵庫の中には、カブの浅漬け1㎏と、キュウリのキューちゃん的液体つき固形物が2㎏入っています。
……うん、全然関係なかったね
(でも、オニギリによく合うんだ、コレが )