(「あー! どっか行きたいっ!!」……てなことで、今日のBGMはこちら )
ごぶさたしております。
ダラダラ自粛生活を堪能していたら、あっというまに2ヶ月も経ってしまったエセ農民=ゴマでございます
目下わが家は、キュウリ・トマト・ナス・ピーマン・インゲンの嵐に見舞われ、しばしば冷蔵庫の中で野菜が溶解
そのつど、「あ゛あ゛ー、なにやってるんだー、あたしはーっ このキュウリが、トマトが、ナスがあれば、斗南で餓死した会津藩士が救えたかもしれないのにーっ 故郷を遠く離れた北遠の地で、お腹をすかせて亡くなったみなさまに顔向けができないぃ~」てな感じでひどくいたたまれない日々を送っております
……というマクラとはまったく関係ない本日のテーマ=阿部重次ですが、そもそもそやつは何者かといいますと、
阿部重次(あべ しげつぐ)
慶長3年(1598)誕生
江戸時代前期の大名
武蔵岩槻藩2代藩主
阿部家宗家2代
官位は山城守、対馬守
重次は、大坂城代を務めた阿部正次の次男で、祖父・阿部正勝は徳川家康が今川氏の人質時代から仕えたバリバリの徳川譜代の血筋でしたが、次男だったため、親戚の三浦家に婿養子に入りました。
ところが、養父・三浦重成に男子(重勝)が誕生し、所領の中から3000石ほど分地してもらって、別家を立てました。
と思ったら、寛永5年(1628)、実家を継いでいた兄・阿部政澄が早世してしまい、その遺児がまだ数え年2歳だったので、生家に戻って家督を相続し、姓も三浦 ☛ 阿部に。
(重たんの画像が見つからないので、とりあえず子孫のマーくん(正弘)の肖像画を貼っちゃいます)
「兄が亡くなったので、実家に~」とはいうものの、寛永5年当時は実父・正次はいまだ健在で、大坂城代として在職中でした。
(正次は、正保4年(1647)、現職のまま大坂城中で病没。享年79。そんなに元気だったら、孫が幼児でもだいじょうぶやろ? わざわざ重次が養家から戻ってこなくてもよかったんじゃない?)
で、その後は、
寛永10年(1633) 六人衆となる
寛永15年(1638) 4月 59000石 武州岩槻藩主に
同 年 11月 老中に任ぜられる
正保 4年 (1647)11月 父・正次 死去
慶安 元年(1648) 7月 父の遺領をあわせて99000石に。
慶安 4年 (1651) 4月20日 将軍・家光死去に際し殉死 享年54
という人生を送ったわけですが、この「六人衆」というのは、寛永10年(1633)家光が側近6人(松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次)を将軍家の家政などの雑務にあたらせたもので、のちの「若年寄」的オシゴトらしゅうございます。
ちなみに、この六人衆から後に老中になったのは、知恵伊豆・堀田・阿部忠秋・重次の4人でした。
そんなこんなで、家光の側近から着々と出世し、10万石を領する大名になった重さんですが、ゴマ的には
「おべっかづかいの腹黒陰険ヤローがーっ!」なのです
なぜかといいますと、重次は家光の弟・駿河大納言忠長と、松平忠輝の息子・徳松を自害するよう執拗に追い込んだ極悪人だからですっ
松平忠輝は家康の6男で、『剣術絶倫』といわれるほど武芸にすぐれ、また、茶道・絵画などにも造詣が深い文化人でしたが、一方でとても気性がはげしく、粗暴なふるまいも多くて、忠輝の乱行に耐えかねた家老たちが主君の不行状を家康に訴えたこともありました。
(その直訴のせいで、訴え出た家老のひとりは切腹、残りのふたりは改易に )
そんな騒動や諫言がありながら忠輝の不行跡はいっこうに治まらず、元和2年(1616)7月、忠輝は改易になってしまい、まだ1歳くらいだった徳松とその生母(忠輝側室)は重次にお預けとなりました。
家康の孫を預かった重次ですが、どうやら相当冷遇したようで、徳松は寛永9年、18歳のときに館に火を放ち、抗議の焼身自殺を遂げています。
この徳松くんという子がどういう人物だったかは、あまりにも資料がなさすぎてよくわかりませんが、18歳で自死した忠輝の息子は幼名の『徳松』という名で記録されています。
武士の子で18なら、とっくに元服している年齢で、元服していれば真名――諱をもっているはずです。
それが書かれていないということは、元服すらさせてもらえなかった可能性が高いのです
武士の子、しかも徳川家康――武家の棟梁の孫でありながら、元服の儀式もおこなわれずに放置されていたとしたら、どれほどの屈辱か……それ以外のことでもひどい扱いを受けていたであろうことは、容易に推察できます
そして、徳川忠長は父・秀忠の死後に改易となり、寛永10年10月 上野国高崎藩・安藤重長に預けられ、同年12月6日 幕命により自刃。享年28。
忠長の死は「幕命」ということになっていますが、どうも家光は唯一の弟である忠長を助けたいと考えていたらしいのです。
そのうえ、家光近臣の知恵伊豆さんは、忠長改易後の11月、忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検しています。
つまり、家光と松平信綱は忠長を殺すつもりはなかったのではないでしょうか
これにはそれなりの根拠があり、改易となった忠輝は配流先で悠々自適の生活を送って92歳まで生き、家光・忠長の従兄で義兄にあたる松平忠直(結城秀康の長男。越前75万石)は、自身の正室(秀忠の3女・勝姫)への殺人未遂(代わりに侍女2名が殺された)等の乱行により、隠居後、豊後国に流されたものの、そこで30年近く生きながらえました。
なにが言いたいかといいますと、
たとえ不行状で改易になっても、家康の子孫なら、ふつうは命までは取られないのです。
それどころか、忠輝は改易後、「オレは悪くない! こんな屈辱に遭うくらいなら殺してくれ!」とみずから死罪をもとめたにもかかわらず、天寿を全うしました。
その子・徳松は父の顔も覚えていない赤ちゃんのときに別れ――いや、そのころは豊臣攻めでてんやわんやだったから、いっしょに暮したことさえほとんどなかった父の罪をムリヤリ背負わされ、将軍の側近・阿部重次にイジメぬかれて自殺……
忠長の場合は、重次は江戸~高崎を何度も行き来し、執拗に自害を迫ったという説もあります。
そのうえ、徳松自殺が寛永9年、忠長自害が翌10年……ふたりの若者を自害を選ばざるをえない状況に追いこんだ――しかも連チャンで!
これを鬼畜といわずして、なんと呼べばええんじゃ!?
その後、阿部家は武州岩槻から備後福山へ移封となり、幕末を迎えます。
本来なら、江戸に攻め登る長州藩(☚ 家康以来の仮想敵国)を藩を挙げて食い止めなければならない三河以来の譜代の家・阿部家は敵にあっさり恭順してしまい、以降は倒幕軍の一翼を担うこととなりました
ホント、すんばらしい忠臣ですわっ!
ごぶさたしております。
ダラダラ自粛生活を堪能していたら、あっというまに2ヶ月も経ってしまったエセ農民=ゴマでございます
目下わが家は、キュウリ・トマト・ナス・ピーマン・インゲンの嵐に見舞われ、しばしば冷蔵庫の中で野菜が溶解
そのつど、「あ゛あ゛ー、なにやってるんだー、あたしはーっ このキュウリが、トマトが、ナスがあれば、斗南で餓死した会津藩士が救えたかもしれないのにーっ 故郷を遠く離れた北遠の地で、お腹をすかせて亡くなったみなさまに顔向けができないぃ~」てな感じでひどくいたたまれない日々を送っております
……というマクラとはまったく関係ない本日のテーマ=阿部重次ですが、そもそもそやつは何者かといいますと、
阿部重次(あべ しげつぐ)
慶長3年(1598)誕生
江戸時代前期の大名
武蔵岩槻藩2代藩主
阿部家宗家2代
官位は山城守、対馬守
重次は、大坂城代を務めた阿部正次の次男で、祖父・阿部正勝は徳川家康が今川氏の人質時代から仕えたバリバリの徳川譜代の血筋でしたが、次男だったため、親戚の三浦家に婿養子に入りました。
ところが、養父・三浦重成に男子(重勝)が誕生し、所領の中から3000石ほど分地してもらって、別家を立てました。
と思ったら、寛永5年(1628)、実家を継いでいた兄・阿部政澄が早世してしまい、その遺児がまだ数え年2歳だったので、生家に戻って家督を相続し、姓も三浦 ☛ 阿部に。
(重たんの画像が見つからないので、とりあえず子孫のマーくん(正弘)の肖像画を貼っちゃいます)
「兄が亡くなったので、実家に~」とはいうものの、寛永5年当時は実父・正次はいまだ健在で、大坂城代として在職中でした。
(正次は、正保4年(1647)、現職のまま大坂城中で病没。享年79。そんなに元気だったら、孫が幼児でもだいじょうぶやろ? わざわざ重次が養家から戻ってこなくてもよかったんじゃない?)
で、その後は、
寛永10年(1633) 六人衆となる
寛永15年(1638) 4月 59000石 武州岩槻藩主に
同 年 11月 老中に任ぜられる
正保 4年 (1647)11月 父・正次 死去
慶安 元年(1648) 7月 父の遺領をあわせて99000石に。
慶安 4年 (1651) 4月20日 将軍・家光死去に際し殉死 享年54
という人生を送ったわけですが、この「六人衆」というのは、寛永10年(1633)家光が側近6人(松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次)を将軍家の家政などの雑務にあたらせたもので、のちの「若年寄」的オシゴトらしゅうございます。
ちなみに、この六人衆から後に老中になったのは、知恵伊豆・堀田・阿部忠秋・重次の4人でした。
そんなこんなで、家光の側近から着々と出世し、10万石を領する大名になった重さんですが、ゴマ的には
「おべっかづかいの腹黒陰険ヤローがーっ!」なのです
なぜかといいますと、重次は家光の弟・駿河大納言忠長と、松平忠輝の息子・徳松を自害するよう執拗に追い込んだ極悪人だからですっ
松平忠輝は家康の6男で、『剣術絶倫』といわれるほど武芸にすぐれ、また、茶道・絵画などにも造詣が深い文化人でしたが、一方でとても気性がはげしく、粗暴なふるまいも多くて、忠輝の乱行に耐えかねた家老たちが主君の不行状を家康に訴えたこともありました。
(その直訴のせいで、訴え出た家老のひとりは切腹、残りのふたりは改易に )
そんな騒動や諫言がありながら忠輝の不行跡はいっこうに治まらず、元和2年(1616)7月、忠輝は改易になってしまい、まだ1歳くらいだった徳松とその生母(忠輝側室)は重次にお預けとなりました。
家康の孫を預かった重次ですが、どうやら相当冷遇したようで、徳松は寛永9年、18歳のときに館に火を放ち、抗議の焼身自殺を遂げています。
この徳松くんという子がどういう人物だったかは、あまりにも資料がなさすぎてよくわかりませんが、18歳で自死した忠輝の息子は幼名の『徳松』という名で記録されています。
武士の子で18なら、とっくに元服している年齢で、元服していれば真名――諱をもっているはずです。
それが書かれていないということは、元服すらさせてもらえなかった可能性が高いのです
武士の子、しかも徳川家康――武家の棟梁の孫でありながら、元服の儀式もおこなわれずに放置されていたとしたら、どれほどの屈辱か……それ以外のことでもひどい扱いを受けていたであろうことは、容易に推察できます
そして、徳川忠長は父・秀忠の死後に改易となり、寛永10年10月 上野国高崎藩・安藤重長に預けられ、同年12月6日 幕命により自刃。享年28。
忠長の死は「幕命」ということになっていますが、どうも家光は唯一の弟である忠長を助けたいと考えていたらしいのです。
そのうえ、家光近臣の知恵伊豆さんは、忠長改易後の11月、忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検しています。
つまり、家光と松平信綱は忠長を殺すつもりはなかったのではないでしょうか
これにはそれなりの根拠があり、改易となった忠輝は配流先で悠々自適の生活を送って92歳まで生き、家光・忠長の従兄で義兄にあたる松平忠直(結城秀康の長男。越前75万石)は、自身の正室(秀忠の3女・勝姫)への殺人未遂(代わりに侍女2名が殺された)等の乱行により、隠居後、豊後国に流されたものの、そこで30年近く生きながらえました。
なにが言いたいかといいますと、
たとえ不行状で改易になっても、家康の子孫なら、ふつうは命までは取られないのです。
それどころか、忠輝は改易後、「オレは悪くない! こんな屈辱に遭うくらいなら殺してくれ!」とみずから死罪をもとめたにもかかわらず、天寿を全うしました。
その子・徳松は父の顔も覚えていない赤ちゃんのときに別れ――いや、そのころは豊臣攻めでてんやわんやだったから、いっしょに暮したことさえほとんどなかった父の罪をムリヤリ背負わされ、将軍の側近・阿部重次にイジメぬかれて自殺……
忠長の場合は、重次は江戸~高崎を何度も行き来し、執拗に自害を迫ったという説もあります。
そのうえ、徳松自殺が寛永9年、忠長自害が翌10年……ふたりの若者を自害を選ばざるをえない状況に追いこんだ――しかも連チャンで!
これを鬼畜といわずして、なんと呼べばええんじゃ!?
その後、阿部家は武州岩槻から備後福山へ移封となり、幕末を迎えます。
本来なら、江戸に攻め登る長州藩(☚ 家康以来の仮想敵国)を藩を挙げて食い止めなければならない三河以来の譜代の家・阿部家は敵にあっさり恭順してしまい、以降は倒幕軍の一翼を担うこととなりました
ホント、すんばらしい忠臣ですわっ!