千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

山台の変遷・・・

先日書いた宇野功一さんの論文「祭礼観光経済序説」ば
見たら、山台の作りの変遷についても書いてあります。


これは江戸時代の山笠です。
がっしりした作りで京都祇園の「山鉾」に似とりましょう?
昔は舁棒は四本でした。棒の長さも現在とは違います。
それ以前の文献には舁棒は「棒受け」の下に位置してました。
理屈から言うたげんたいそっちの方が理にかなっとります。
いつのころから棒受の上に舁棒が来たとかは不明です。
力学的に言うても現在の舁き山の棒の長さと
動く飾り山(八番山)の棒の長さが違うとも当然です。
おいしゃんの疑問・・・
当時のあの高さのバランスとる舁棒の長さで
昔の今より狭いおい山道順ば舁回れよったとかいな?


こちらは幕末から明治初期の山台です。
前述のがっちりした山台とだいぶ見かけが違います。
すでに「追山」が始まっとうけん、高い櫓の上に軽い竹ば
用いて矢切ば組んでます。
高さは16mって言います。
ようそげな山ば舁きまわりよったて思いますね。
当時の家は平屋かせいぜい二階建てやけん博多の街の
どこば山が走りよるかは一目瞭然やってでしょうね・・・

当時はそげん大きな山は道端に建てよったけん
当然今のごと「山小屋」やらはありません。
たしか大黒流の「須崎町」が初めて山小屋ば建てたて記憶してます。
その建設は山大工が請け負ったとかどうか?は資料には
残っとりません。

当時の「片土居町」の記録によれば舁手は郊外の郡部から
集めよったらしい。金銭では無くて酒ば持ってお願いに行きよったげな。
田舎の農民はこの時期大事な田植えじきやけん
人集めにも苦労したらしい。
山舁にきてもやはり金銭やなくて3合の酒と帰りの弁当持たせて・・
それにいくらかかったか?の記録も残ってます。
昔は山笠期間毎日山が動くことはなく
現在の北海道、芦別の健夏山笠と一緒で三日間だけです。
流舁、朝山、追山のみ・・・・・・

ばってんがはじめは追山が無かけんのんびりちんたらした
いわば山笠巡行やったとです。

それがある時代から「追山」が始まり山笠は「走りぐっちょ」になりました。
東長寺、承天寺も端折って我先にのタイムレースになったとです。

そこで端折られた承天寺が寺社奉行に異議申し立てしたとが
「嘉永の由緒書」であります。
そこから発展して作られた「承天寺山笠発祥」に発展していくとですね・・

ちなみに「追山ならし」は数年禁止されとった追山行事ば再開するとき
混乱なく追山でけるか?忘れとらんか?確認で始まったて
記憶しとります。間違うとったらすいまっせん、まいっぺん読み返しときます。

さて明治時代に電線の関係で低うなった山台がこれです。

早う走るため、そのために危険ば伴うけん山台も進化してきました。
「への字」は山の前でこけた人が下敷きにならんごとの配慮です。
また「番線」はショックアブソーバーの役割ば務めとります。

山笠が「無形文化財」に指定されたともその歴史とともに
この山台の作りも考慮されたて聞き及びます。
「無形文化財」に指定されるにはその歴史ば学術的に説明せないけません。
山台、人形云々は歴然とした歴史のありますばってんが
祭りの始まりは日本全国の祭り同様、誰もわからんや無かですやん?

そこで、博多の山笠は昔から幾度となく廃止の危機ば乗り越えるために
発祥の権威付けばしてきました。
そして確立したとが現在の「疫病退散説」であります。
今のコロナにマッチして良かやないですか・・・・・・

無形文化財に指定される、ユネスコに登録される・・・
それには権威付けが必要
そげなとは博多んもんにやどげんでちゃ良かとです。
昔からこの時期になったら山ば舁く、それ以外のなんでもないとです。
昔の人も「山笠の発祥」やらなんも考えんで山舁いてきたとです。
ただそれだけ・・・・

ただ山ばやめさせるて言われたときはどげな理由付けても
存続させてきたとです。

一部の権威付けのために山があるっちゃなかです!
それば利用するひとはおいしゃんだいきらいですもんね。

山は福岡の博多、田舎の夏祭りやもんね!
チャンチャンです!

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