あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自分にしかなれない。(自我その439)

2020-11-25 13:11:16 | 思想
小林秀雄は、「人間は、何にでもなることができる、しかし、自分にしかなれない。」と言う。人間は、どのような職業にも就くことができるが、どのような職業に就こうとも自分の生き方しかできないという意味である。小林秀雄の現実をしっかりと受けとめ、運命を自らの力で切り開いていこうとする覚悟は潔い。主体的な生き方の模範となるような姿勢である。それが、小林秀雄自らの「自分にしかなれない」の意味である。しかし、果たして、人間は主体的に生きることができるのだろうか。結論を言えば、ほとんどの人間は主体的に生きられないのである。なぜならば、ほとんどの人間は、安心と快楽を求めて、若しくは、ルーティーンの生活を求めて、若しくは、行動現実的な利得を求めて、思考するからである。だから、現実に押し流され、運命の波間に漂う木の葉のような生き方をするのである。これが、ほとんどの人間の「自分にしかなれない」生き方である。そもそも、人間には、自分という固定したあり方は存在しない。人間は、自分として存在しているのではなく、自我として存在しているのである。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って暮らしている。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。構造体と自我の関係は、次のようになる。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、都道府県という構造体では、都民・道民・府民・県民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、男女という構造体では男性・女性という自我があるのである。人間は、ある構造体に所属して、あるポジションを自我として持ち、他者からそれが認められ、初めて安心できるのである。それが、アイデンティティーを得るということである。人間は、構造体に所属し、自我を持し、アイデンティティーを得て、初めて、人間として生活を送れるのである。さて、自我を動かすのは、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように、自我を主体にして、瞬間的に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、その自我の欲望に動かされて行動するのである。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、他者の思惑を気にして、自我が安心できるように、深層心理は、自我の欲望を生み出しているのである。そして、自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から認められると、快楽を得られるから、他者の思惑を気にして、自我が快楽が得られるように、深層心理は、自我の欲望を生み出しているのである。つまり、深層心理は、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。だから、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して、安心と快楽を求めつつ、活動しているのである。人間が社会的な存在であるという意味は、人間は、常に、構造体の中で、自我を持して、他者と関わりながら生きているということである。人間は、時間ごとに、空間ごとに、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、行動しているのである。だから、人間には、自分そのものは存在しない。ある人は、国という構造体では国民という自我を持ち、青森県という構造体では青森県民の自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持ち、男女という構造体では女性という自我を持って暮らしているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方に過ぎないのである。他者とは構造体の内部の人々であり、他人とは構造体の外部の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さて、ほとんどの人間は、自己としても存在していないのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心と正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、人間は、自我として生きていながら、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。それは、深層心理の無の有化作用から起こる現象である。無の有化作用とは、深層心理が、ある物やことを強く欲望すると、存在していなくても、存在しているように思い込むことである。神がその典型である。ほとんどの人は、深層心理が、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。しかし、一般に、深層心理は、自我を扱い、自己を扱うことができないのである。ほとんどの人の深層心理は、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように思考して、自我の欲望を生み出している。自我を自己へと転換させて、自らの良心と正義感に基づいて、深層心理が主体的に思考する人は稀である。さて、人間の無意識の思考を深層心理の思考と言うが、人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。それを、理性とも言う。しかし、人間が、表層心理で思考するのは、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出し、超自我でそれを抑圧できなかった場合に限るのである。その時、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則という自我に現実的な利得を持たせようという欲望に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。だから、ほとんどの人の表層心理での思考も、現実原則という自我に現実的な利得を得るように思考するから、主体的な思考ではないのである。さて、人間の日常生活は、表層心理で意識して思考することが少なく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多い。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考せずに、行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。無意識の行動が多いのは、人間の日常生活は、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。人間は、表層心理で意識して思考する時は、常に、自我に現実的な利得を持たせようという視点で行うのである。さらに、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在する。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。その場合には、深層心理が生み出した行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、自我の利得に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶する結論を出しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。さて、人間が自己として存在するとは、自らの良心と正義感に基づいて、主体的に思考して、行動を決めて、それに基づいて、行動することである。しかし、人間は、主体的に、思考して、自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。なぜならば、人間の深層心理は、基本的に、瞬間的に、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽の欲望を満たすように、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持して暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望だからである。人間の表層心理での思考は、基本的に、長時間を掛けて、長期的な展望に立って、現実原則という現実的な自我の利得を追い求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。つまり、深層心理の快感原則による思考も、超自我のルーティーンを守ろうという作用も、表層心理での現実原則による思考も、自我に基づく思考であり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考とは異なるのである。しかし、それでも、時として、偶然にも、深層心理の快感原則による思考でも、超自我のルーティーンを守ろうという作用でも、表層心理での現実原則による思考でも、その結論が、自らの良心と正義感に基づく主体的な思考による結論と合致する時があるのである。そこで、ほとんどの人は、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考を行っていると思い込んでいるのである。それでは、人間は自我から自己へと転換し、主体的に生きることはできないのか。決して、そうではない。ニーチェは、「真理は存在しない。解釈だけが存在する。」と言う。深層心理による快感原則に基づく思考も、超自我というルーティーンを守る思考も、表層心理での現実原則による思考も、皆、解釈なのである。だから、表層心理で、意識的に、自ら、積極的に、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解き、自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけを行っていき、それを確信にまで高めるべきなのである。確かに、それは、ニーチェが言うように、普遍的な真理ではなく、自分による解釈である。しかし、確信にまで高められた解釈ならば、それが、自分にとっての真理であり、深層心理に根付くのである。深層心理が、それに基づいて、思考するのである。しかし、ほとんどの人間は、誰しも、異常なことがあると、考えるのであるが、異常なことは、日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みだから、快感原則、ルーティーン保持、現実原則に基づいて思考し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは無いのである。なぜならば、ほとんどの人間にとって、異常なこととは、自我が傷つけられて、自我が衝撃を受けることであり、自我が癒されれば、ことはそれで済むのである。つまり、形而下の生活での異常なことは、形而下の思考でとどまり、形而上の思考まで発展することは無いのである。たとえば、自我が傷つけられるのは、高校や大学の入学受験に失敗したり、会社で上司に叱られたこと、学校で教師に叱られたこと、失恋したこと、友人に無視されたことなのである。彼らに誰かが自信をつけれれば、また、時間がたてば、傷ついた自我が癒されていくのである。また、彼らの中には、挫折をきっかけに自分探しをするものも存在するが、その探している自分も誰かに認められている自分であるから、自我にとどまり、自己の存在探求や世界の存在の疑問にまでいかないのである。つまり、形而下の思考にとどまり、形而上の思考にまで高まらないのである。その典型が、政治権力者である。政治権力者は、常に、現実に密着した形而下の思考者であるから、形而上の思考者を、役に立たないものと批判し、時には、弾圧し、粛清さえするのである。形而上の思考者の多くは、現実に妥協することが少なく、権力者の言うがままにならないからである。現在の菅義偉内閣・自民党による学術会議弾圧もそうである。日本の戦前の軍部やドイツのヒットラーやソ連のスターリンや中国の毛沢東などが、多くの哲学者、学者、芸術家、作家などを拷問にかけ、暗殺したのは、権力は常に形而下の思考者であることの宿命である。テレビドラマでは、水戸黄門、徳川吉宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの権力者が正義を貫いているが、それは、絶対にあり得ないことである。正義を貫ける人は、形而上の思想の持ち主であり、権力の亡者である形而下の人たちにはできないからである。そのようなドラマができるのは、大衆が正義を貫ける権力者を待望しており、脚本家がそれに迎合したからである。大衆が存在しえない権力者を待望しているから、主体的に政治を見ることはできず、政治の動向や政治家の本性を見誤り、一向に政治が良くならないのである。人間を現象の一つとみることが必要なのである。現象とは、決まって、ある傾向を示す、事象である。その現象の傾向が研究されて、真理・本質と呼ばれているのである。だから、全ての事象が、現象になるのではない。定まった傾向を示さない事象は、現象化しない。それらは、混沌とした状態にとどまっている。言わば、カオス状態にとどまっている。カントは、「現象とは、時間・空間・カテゴリーに規定されて現れているものである。」と言ったが、これは、自然の傾向を捉えた自然現象についてのみ述べたものである。しかし、自然現象であろうと、社会現象であろうと、カントが言う、時間・空間・カテゴリー以外に、特定の志向性(観点・視点)が存在しなければ、人間は、現象を捉えることができない。志向性が変われば、異なった現象が見えてくる。それが、クーンの言う「パラダイム・シフト」である。しかし、現象を捉える基盤になる、時間・空間・カテゴリー、志向性は、無意識の心の働きである深層心理に、備わっていて、深層心理が、それらを基盤に、現象を捉えるのである。だからこそ、人間は、表層心理で、現象を意識して研究し、本質・真理として、表象化し、深層心理を動かすのである。人間の活動も、また、一つの現象である。人間は、肉体と精神が複雑に絡んで、活動している。人間の肉体の活動を、現象として研究している、中心的な学問が、生物学・医学である。生物学者・医学者は、人間を、健康的にする・長寿を目指すという志向性では一致しているから、細部の違いはあっても、協力して研究できる。言わば、全世界の生物学者・医学者は協力して研究できるのである。人間の精神の活動を、現象として研究している、中心的な学問が、哲学・心理学である。しかし、哲学者・心理学者には、共通した志向性が存在しないので、研究の成果も一致しない。しかし、さまざまな志向性(観点・視点)があり、種々の研究成果があることは、研究分野が広がるという大きなメリットがある。しかし、デカルト、パスカル、キルケゴールなどの哲学者は、志向性に神という夾雑物を入れたために、真摯な研究態度でありながら、人間を現象として捉えることができなかった。現象として人間を理解するのには限界があった。それは、ラカンが「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言っているように、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいたからである。人間は、表層心理で、人間を現象として捉えて、主体的な思考を構築し、それが深層心理に根付くことしか、主体的な思考者になれないのである。




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