あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は誰でも猛獣使いである。(自我その358)

2020-05-25 17:12:39 | 思想
中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴が反省の弁を述べ、次のように告白している部分がある。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」李徴は、尊大な羞恥心という自らの性情をコントロールできなかったために、虎という尊大な羞恥心を持っている動物になってしまったと言う。李徴は、自らにとって、内なる、コントロールすべきものは尊大な羞恥心という性情であったと言うが、人間一般にとって、内なる、コントロールすべきものは自我の欲望である。人間は自我の欲望をコントロールできなければ、李徴と同じく、自分自身を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、周囲の人に迷惑を掛けるばかりでなく、殺人さえ行う可能性があるのである。もちろん、尊大な羞恥心は、李徴が求めたものではない。気付いた時には、既に、李徴の深層心理に存在し、それが李徴を動かし、惨劇・悲劇を招いたのである。同じように、自我の欲望は、人間自らが、意識して、求めたものではない。人間の無意識のうちに、深層心理が、自我の欲望を生み出し、それが人間を動かし、惨劇・悲劇を招く可能性があるのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。それに対して、表層心理とは、人間の意識しての思考である。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そこに、大きな誤りがあるのである。しかも、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在しているのではない。人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてである。しかも、人間は、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について、表層心理で、常に、審議するわけではない。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。日常生活のルーティーンという同じようなことを繰り返す行動は、無意識の行動である。さて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、感情と行動の指令が合体したものであり、深層心理が、自我を主体にして、思考して、生み出したのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動するのである。さて、それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。それでは、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、深層心理は、何を求めているか。それは、快楽である。深層心理は、構造体の中で、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。スイスで活躍した心理学者のフロイトは、深層心理の快楽を求める傾向を、快感原則と表現している。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、深層心理は、何に基づいて、快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出しているか。それは、欲動である。つまり、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。人間は、自我の欲望という猛獣をコントロールしながら生きていけなければいけないのだが、猛獣のコントロールに失敗すれば、李徴と同じように、猛獣の配下となるしかないのである。つまり、自我の欲望のままに、行動するしかないのである。


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