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あみの3ブログ

137 福井城@福井市 令和二年(2020) 5月29日 柴田勝家の北庄城を全面改築した、天下普請の巨城

【福井城】
広大な城域を多くの水堀が取り巻く城

【歴史】
天正3年(1575)越前北庄を信長から与えられた柴田勝家は自ら縄張りをして北庄城を築城した。勝家は天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで敗死し、北庄城も焼失する。その後慶長5年(1600)に徳川家康の二男結城秀康がこの地に入り、翌年から6年がかりで北庄城を拡張して、全国諸大名の天下普請による新たな城を築いた。3代目松平忠昌の時、城名は「福居(福井)城」と改名された。創建時の四重天守は寛文9年(1669)に火災により焼失した。

【縄張り】
勝家の北庄城は足羽川と吉野川の合流地点に築かれ、足羽川を堀の一部として利用していたと推定され、安土城に匹敵する巨城であったという。秀康が大修築した福井城も約2km四方に及ぶ広大な城域に四重五重に水堀を巡らし、輪郭式の縄張りを構えていた。本丸北西隅には天守台上に四重五階の天守が築かれていた。
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
、、、櫓門資料館展示




現在本丸跡には「福井県庁」「同議会堂」、「福井県警本部」が建設されている。
また当時の「西二の丸」「西三の丸」は「中央公園」となって市民の憩いの場でもある。

【見所】
内堀に架かるメガネ橋「御本城橋」を渡ると、福井県庁舎・県警本部庁舎がある行政の中心地。



県庁舎前には初代城主「結城秀康」の騎馬像が建立されている。



南西隅の石垣と内堀
背後は福井県警本部庁舎



北西隅の石垣と内堀
天守台上に四重五階の天守が築かれていた



本丸に至る3本の橋の一つ「北側土橋」
天守台から見る内堀と土橋



「西二の丸」「西三の丸」は「中央公園」となって市民の憩いの場でもある。
松平春嶽などの藩主の住居であった「御座所」が西三の丸にあった時代には、藩主は御座所から「御廊下橋」を渡り、「山里口門」を通って本丸へ向かったと考えられています。、、山里口御門パンフより抜粋、



◆本丸に至る三本の橋の一つ「御廊下橋」
平成20年(2008)に復元された



藩主は御座所からこの屋根付きの橋を渡って本丸へ向かった




◆「山里口御門」
平成30年(2018)に復元
福井城本丸の西側を守る門として築城当時からあり、「廊下橋御門」や「天守台下門」と呼ばれていました。寛文9年(1669)の大火事で焼失してしまいましたが、その後再建されました。構造と向きが異なる二つの門(櫓門と棟門)と周囲の石垣が方形の空間(枡形)を形成する枡形門の構えをしており、敵の侵入を食い止める空間となっていました。
、、、山里口御門パンフより抜粋


御廊下橋を渡ると「土塀」が復元されている
枡形石垣の上にあり、外部からの攻撃に備えて内部に砂利が込められた強固な造りとなっている。腰下には笏谷石(足羽山産)の板石を貼り、鉄砲狭間が設けられています。、、、山里口御門パンフより抜粋



「棟門」
枡形に入るための最初の門。二本の柱とその上部を連結する冠木で切妻造りの屋根を支える構えで欅材が使われている。、、、山里口御門パンフより抜粋



「櫓門」
高石垣に挟まれた場所に建っており、門の上に櫓を設けた構をしています。櫓の内部は武具倉庫として使われていました。、、、山里口御門パンフより抜粋



櫓門の内部は「資料館」となっており、無料で見学できます。(土足厳禁)



この櫓門を抜けるとすぐに天守台に登る階段があります。
内堀の外から見上げた際には天守台の石垣には気付かなかったのですが、本丸の平坦地から見るとずいぶん高いですね。



天守台は二段になっており下の段には
個人所有だった城の土地を県に寄付した当時の顕彰碑や



福井の地名の由来伴ったと言われている「福の井」の井戸が復元されている



福の井



なんと天守台が二つもある
大きさが異なる「大天守台」と「小天守台」



小天守台(控え天守台)
1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井大地震で崩壊した石垣



大天守台からみた崩壊した小天守台(控え天守台)の石垣



大天守台の石垣



大天守台の石垣の一部にもズレが見受けられます


大天守台の礎石部分はちょっとした児童公園並みに広い
この全域に天守が築かれていたとは思えないが、往時の巨大さが伺える。



ちなみに設計図が残っており



それをもとにジオラマが製作展示(櫓門内資料館)されています。

本丸御殿を中心に北西隅に天守がそびえ立ち、残り三つの隅には「巽櫓」などが睨みを効かせ
三つの橋にはそれぞれ枡形と櫓門で敵の侵入を阻止する機能があったようです。



また足羽山麓にある高照山瑞源寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明したそうです。



現代では福井城復元アプリでCG化された福井城を楽しむこともできるようです。







【福井城】
《家康の二男結城秀康が築城した天下普請の巨城》

名称(別名);北の庄城、福居城
所在地;福井県福井市大手3丁目17
城地種類;平城
築城年代;慶長6年(1601)
築城者;結城秀康
主な城主;結城氏、越前松平氏
文化財区分;なし
近年の主な復元等;福の井、平成20年御廊下橋、平成30年山里口御門復元
天守の現状、形態;結城秀康1601年北の庄城を全面改築、望楼型4重5階非現存
         
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

コメント一覧

あみの3
Re福井城は、石川県側から旧北陸道経由で訪れたことがあります。
怪しい自転車乗りさんコメントありがとうございます。>

自転車で行かれたんでしょうか?じっくり城下町を散策すると色んなものが見えてきて、発見や学びがつきないものですよね。

加賀藩は巨大だったため草創期には幕府から謀反の嫌疑をかけられ藩主の利長は母」まつ」を人質に江戸へ送ったそうです。和戦両にらみで緊張の時代だったんですね。

これからは熱くなりますが熱中症に留意してお城歩き・街道歩きを楽しんで下さい。 あみの3
怪しい自転車乗り
福井城は、石川県側から旧北陸道経由で訪れたことがあります。
加賀口御門址を過ぎると街道は右左に曲がり、直線路はまず在りませんでした。加賀藩の防衛のためといわれてますが、ここまで凄いのははじめてでした。
城仁関しては、街道のインパクトが凄かったので今一記憶に残ってないです。w
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