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昨日の記事のつづきです。
↓↓
 

 
私は、波切不動明王から
言われたような気がした通りに
合掌をすることで、印を結びました。
 
 
あとから考えると、
結界?をはったのでしょうか。
 
 
祈っている間、
人の多い高野山なのに
参拝客が誰ひとり
訪れることはありませんでした。
 
 
 
 
 
静かな空間に
私と波切不動明王。
 
 
目を閉じて合掌していると
 
 
なぜでしょう。
 
 
かすかに物悲しい気持ちになっている
自分に気づきました。
 
 
ええっ?
ここへ来て、悲しいって、
なんでなんだよ~
よりによって不動明王の前で…
 
 
もうひとりの客観視する自分が
驚きあせっていました。
 
 
でもどうやら私は
過去の悲しみを
今ここで、あえて感じているようでした。
 
 
たしかに
あまり幸せではなかった私の過去。
 
 
それでも、過去の不幸は糧にする!と
がむしゃらに頑張ってきた私。

 

 
その私が、
自分の過去に対して
抱えていたものが、
 
 
本当の本当は
 
 
「悲しみ」だったなんて。
 
 
こんな、か弱くピュアな感情を
私が抱えていただなんて
自分ではすごく意外でした。
 
 
でもそれは、
 
 
たしかにあたっていました。
 
 
私が、気づいてやれなかった
だけだったんだな…。
 
 
この「物悲しい」から始まって
「あたっている」と思うまでの時間は
ほんの一瞬。
 
 
さすがの波切不動明王です。
 
 
そして私は、
 
 
私か、私のブログの読者に
メッセージをください
 
 
と言いました。
 
 
そしたら、返ってきたのが
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「悲しみの火を燃やす」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
え?
 
 
なに?
 
 
意味が全然わからない…
 
 
 
 
もしや、
さっきの私の気づきにひっぱられた
「気のせい」ってやつじゃなかろうか…
 
 
すかさず不安になりましたが
 
 
それでも、おおまかなイメージは
ちゃんと受け取っている私でした。
 
 
それはこんな感じ。
 
 
「悲しみ」を火燃やすのではない
 
 
「悲しみ」を
燃やしてなくすのではない
 
 
そうではなく、
 
 
「悲しみ」をも、
きちんと存在させる。
 
 
こういう感じを
はっきり受け取っていました。
 
 
 
 
とはいえ、
 
 
「希望の火」とか「闘志の火」
ならともかく
 
 
「悲しみの火」よ。
聞いたことないわ。
 
 
やっぱりどこかで
「気のせいかも?」
と思っていました。
 
 
 
ところが、
 
 
 
 
 
 
次に訪れた高野山の霊宝館で
気のせいなんかじゃない
 
 
とわかります。
 
 
 
 
霊宝館に入ると最初に
空海さんの像があります。
 
 
「結縁大師」といい、
空海さんの右ひざに手をそえることで、
ご縁を結ぶことができると
書いてあります。
 
 
 
私も左手でさわってみました。
すると、
 
 
さわっていない
反対側の右手までびりびりするのです。
驚きました。
 
 
もっと驚いたのが、
その空海さん(結縁大師)の目です。
 
 
右目の端っこと左目の端っこに
涙がたまっているのです。
 
 
わざわざそう作られたのかどうかは
わかりませんが、
 
 
たぶん、誰が見ても
そう見えると思います。
 
 
そのとき一瞬で
 
 
さっきの波切不動明王からの
「悲しみの火を燃やす」
 
 
気のせいじゃなかったのかも!
と思いました。
 
 
さらに、
 
 
霊宝館の順路を進むと
大きな2つの曼荼羅
向かいあうようにして
壁に展示されていました。
 
 
(Wikipedia 曼荼羅 より)
 
 
そのひとつの名前が
「大悲胎蔵生曼荼羅
(だいひたいぞうかいしょうまんだら)
でした。
 
 
最初の「大悲」
の文字が私の目に飛び込んできました。
 
 
曼荼羅の名前にも、悲しみが!」
と思いました。
 
 
しかも、私はこの日、
以前、ブログに書いた
曼荼羅みたいなブラウスを
 
 
 
 
本当に、着て来ていました。
 
 
この驚く偶然も、
必然なのかな。
 
 
 
霊宝館を出て
待っていたツインソウルの友達に
さっそく聞いてみました。
 
 
曼荼羅の名前にね、
「大悲」ってついてたの。
どういう意味?
 
 
するとツインが答えました。
 
 
慈悲のことだよ。
仏の大いなる慈悲。
 
 
 
 
 
 
このときね、私はやっと
 
 
「悲しみの火を燃やす」

 

 
波切不動明王が
意図して言ったことだったんだと
 
 
確信しました。
 
 
旅から帰って数日後のこと。
 
 
私の身体にあることが起こり
(↑昨日のメルマガに書いたことね)
 
 
「悲しみの火を燃やす」
 
 
本当は何を言っていたのかが
わかりました。
 
 
 
 
それはこういうことでした。
 
 
 
 
 
 
人が「喜び」や「希望」の炎を
胸に持っているのと同じように
 
 
「悲しみ」の炎も

 

 
こんなの嫌だ、とか、
いらない、などと言って
拒否することなく
 
 
きちんと堂々と
存在させなさい
 
 
そうやって
あなたが悲しみの火を燃やせば
 
 
あなたの過去の悲しみは癒え
 
 
それはやがて、
 
 
他の誰かへ向けた
慈悲になる
 
 
 
 
今でも、これを書いていると
泣きそうになります。
 
 
きっと、
 
 
波切不動明王の
慈愛に
 
 
触れたからなのだと思います。
 
 
 
 
つづく。
 
 
 


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