大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書13章1~20節

2019-07-16 08:39:09 | ヨハネによる福音書

2019年2月17日 大阪東教会主日礼拝 あなたは清くされる吉浦玲子

<過越しの犠牲>

 過越し祭の前のことである、と書かれています。前にもお話ししましたように、過越しの祭りは紀元前1300年ごろの出エジプトの出来事を記念した祭りです。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々はモーセに率いられてエジプトを脱出する夜、神の命令により犠牲の羊を屠り、その羊の血を家の入口の柱と鴨居に塗りました。その犠牲の羊の血が目印となってイスラエルの人々の家を災いは過ぎ越して行きました。その過ぎ越しを記念して、1300年後の主イエスの時代にも過ぎ越し祭の食事では犠牲の羊が食べられたのです。ヨハネによる福音書では十字架の前、主イエスご自身が過ぎ越しの食事をなさったとは記されていません。今日の聖書箇所も「過越し祭の前のこと」だと記されています。つまり、ヨハネによる福音書では、主イエスご自身が犠牲の羊なのだということを明確にする意図を持って「過越し祭の前のことである」と記しているのです。主イエスご自身が汚れなき小羊としてこれから屠られる、人間への災いが過ぎ越していくように、人間の罪への神の怒りが通り過ぎて行くように、主イエスご自身の血が私たちの戸口に塗られるのです。それが十字架の出来事でした。

 その十字架の時が近づいていることを主イエスはご存知でした。「この世から父のもとへ移るご自身の時が来たことを悟り」と1節にあり、3節には「ご自分が神のもとからきて、神のもとへ帰ろうとしていることを悟り」とあります。私たちも、クリスチャンでなくても、人が亡くなるとき、天に帰る、とか、この世を去ったという言い方をします。しかし、主イエスは単純に、父のもとから来られてまた戻られる、ということではありません。たしかに天の父の元にお帰りになりますが、地上からさっと天に帰られるわけではありません。さきほど告白しました使徒信条で「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ死にて葬られ陰府に下り三日目に死人の内よりよみがえり天に昇って」とありますように、この地上の支配者であるローマの総督ポンテオピラトの手によって十字架刑に処され、陰府にまで下られ、復活され、天に昇られるのです。地上からひといきに天に向かわれたのではなくいくつかのことを経て、天の父の元に戻られるのです。それは天の父の元にすべての人を連れていくためでした。すべての人を救い、ご自分の民として父にお与えになるためでした。そのことを通して神に栄光が帰されるためでした。神のもとから来て神のもとに帰られるイエス・キリストはご自分だけが帰ろうとされているのではありませんでした。私たちをも父のもとへ連れて帰るために、過ぎ越しの犠牲の羊となられました。

<愛し抜かれた>

 その犠牲の羊となられる主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。愛し抜かれた、というのは、最後まで愛し通されたということです。キリストの愛はなによりその十字架においてはっきりと示される愛です。しかし、もうこれから自分は十字架にかかるのだから、その十字架の時まではひとまず愛は置いておいて、ということではありません。地上で弟子と過ごされるその最後の残された時間をも、主イエスは弟子たちを愛されたということです。

また文語訳聖書ではここは「極みまで之を愛し給へり」と訳されています。主イエスは弟子たちを極みまで愛された。愛の極みを弟子たちに尽くされたということです。極みまでの愛といいますと、この世では情熱的な恋愛とか、劇的な状況での人間の情感のようなことを私たちは考えます。もちろん主イエスがご自身の命を捧げられる十字架はたいへん劇的なことです。しかし、もっとも素朴に端的に極みまでの愛が示されているのが、今日の聖書箇所に記されている弟子の足を洗うということです。

主イエスは十字架の時を前にして、弟子たち一人一人の足を洗われました。洗足の出来事として名高い場面です。受難週の木曜日を洗足木曜日といい、大阪東教会でも洗足木曜日礼拝を行っています。教会によっては、牧師や長老が実際に人々の足を洗う洗足の儀式をするところもあります。ローマカトリック教会ではローマ法王が毎年洗足の儀式をすることになっていて、今年は法王が誰の足を洗うかがニュースになります。ちなみに昨年はイタリアの刑務所で服役中の人々の足を法王は洗われたそうです。

ローマ法王の洗足式の写真を見ますと、服役中の囚人たちはそれぞれにスニーカーなどの靴を履いていて、足を洗ってもらうとき靴を脱いだようです。翻って、主イエスの時代、人々はスニーカーや革靴などは履いていませんでした。サンダルのような履物だったと考えられます。道も現代の都会のように舗装されていません。埃っぽい道をサンダルのようなもので歩くので、足は大変汚れていたと考えられます。その足を洗うのは奴隷の仕事でした。それも外国人の奴隷に限られた仕事でした。もっとも下賤な仕事とみなされていたのです。汚れた汚い足の上に奴隷は身をかがめて洗うのです。たちまちに盥の水は濁って汚くなったでしょう。主イエスはそのような足を洗うということを12人の弟子全員になさいました。そこに主イエスの愛の極みがありました。謙遜ということを言いますが、自分が謙遜な態度を取るにふさわしい立派な相手に対して謙遜にふるまうことは容易です。優れた人尊敬する人身分の上の人に自分を低い者としてふるまうのは普通のことです。しかしそうではない、優秀でもない、尊敬にも値しない、そのような人を前に謙遜にふるまうのはそれほど容易なことではありません。それでも態度の上で丁重に謙遜にふるまうことは可能かもしれません。しかし、主イエスのように実際に身をかがめて汚れた足を洗うということは容易ではありません。

しかし、主イエスは洗われました。弟子たちの汚れた足を、そして何より、人間の罪の汚れを主イエスは洗われました。人間を清くするために主イエスは来られたのです。人間を清くする、そのことにおいて主イエスは愛の極みを示されました。弟子たちは汚れていただけではありません。皆、主イエスを裏切る者たちでした。2節に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありますように、この時点でユダははっきりと裏切りの気持ちを持っていました。少し前の箇所でベタニアでマリアから主イエスが高価な香油を注がれれる場面がありました。労働者の年収ほどもする高価な香油でした。そんな無駄遣いをしないでその香油を売って貧しい人に施せばよかったのに、とユダはマリアを叱責しました。しかし、イエス様はマリアのしたことをむしろ褒められました。そのことがユダの心がイエス様から決定的に離れる契機だったかもしれません。そしてそのことを主イエスはご存知でした。はっきりとご自分を裏切る意思を持っているユダの足をも主イエスは洗われました。ユダだけを素通りして洗われなかったのではありません。12人全員の足を洗われたのです。

この時点では裏切る意志はもっていなかったにせよ、他の弟子も結局、主イエスを裏切りました。そのことをも主イエスはご存知でした。ご自分が逮捕される時、自分を捨てて逃げていく弟子たちであることを、主イエスはよくよくご存知でした。そのような弟子たちの足を洗われました。

<洗っていただくことが交わり>

弟子たちはもちろん驚きました。主イエスが奴隷のなさるようなことをされていることにいたたまれなかったことでしょう。「わたしの足など、決して洗わないでください」そうペトロは叫びました。これはすべての弟子の思いだったでしょう。エルサレムに王として入って来られたはずの主イエスが奴隷のように身をかがめて自分の汚い足を洗っておられる、それは耐え難いことだったでしょう。群衆がなつめやしの枝をふって歓迎されたお方がなんてことをなさるのか、もったいないという思いがあったでしょう。また一方で仕えられるということに人間は不思議な抵抗感を持つものです。完全に相手が自分より下だと思う相手なら抵抗は少ないかもしれません。しかし多くの場合、人間は人にやってもらわなくても自分でできると思ってしまうのです。仕えられるのはある意味うっとおしいことでもあります。しかしそこに何でも自分でできるという人間の傲慢もあります。自分で自分の汚れくらい洗える、そう思ってしまうのです。しかし人間は自分で自分の罪の汚れを取り去ることはできません。

そしてまた弟子たちは自分たちが師と仰ぐお方に汚い自分の足を見られ触られるのは嫌だったでしょう。敬愛するお方であるゆえに、そのお方に自分の汚いところはお見せしたくなかったでしょう。自分の良いところ立派なところだけを見ていただきたいと思ったでしょう。しかし主イエスはおっしゃるのです。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」さきほども申し上げましたように、主イエスはわたしたちを洗いに来られたのです。私たちの罪の汚れを清くするために来られました。そのことのゆえに私たちは主イエスとかかわりを持たせていただくのです。主イエスの素晴らしい教えや慰めに満ちた言葉を私たちはいただきますが、なにより、主イエスとの交わりは罪をあらっていただくということにあります。

それは、私たちは主イエスの前で、立派でなくてよいということでもあります。罪の姿のままで立てばよいのです。ダメな自分のままで弱い自分のままで私たちは主イエスの前に立ちます。その私たちを主イエスは洗ってくださるのです。私たちの隠していた汚いところをつまびらかにし、叱責なさるのではありません。ただ身をかがめて洗ってくださるのです。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と主イエスに言われたペトロは今度は「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言います。いかにもペトロらしい調子の良さです。もちろんペトロは自分が汚れていることを素朴に自覚してこう言ったのです。しかし主イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」とおっしゃいます。既に主イエスは来られました。ですから私たちは清くされているのです。わたしたちは十字架で清くされています。小羊の血で清くされているのです。時間的な軸で言いますと、洗足の出来事は十字架の前です。しかし、すでに主は十字架における罪と死への勝利を確信しておられました。罪の滅びを知っておられました。そしてまた「全身が清い」ということは洗礼を指しているとも言われます。主イエスの十字架における死と主イエスの名による洗礼によって人間はすでに清くされているのです。主イエスを信じ洗礼を受けた者はすでに清くされているのです。しかし全身は清くても、また折々に罪を重ねる者でもあります。ですから足を洗うのです。洗っていただくのです。

私たちは罪のこの世界を生きていきます。どのように汚れないように気をつけても私たちの足は汚れます。スニーカーを履いても、立派な革の靴を履いても、私たちの生身の足は泥にまみれるのです。生きていくことは罪の泥にまみれることとも言えます。しかしなおその汚れを洗ってくださる方がおられます。

<雪のように白く>

詩編51編は罪の悔い改めの詩編として名高いものです。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」で始まります。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。/わたしが清くなるように./わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」このような言葉もこの詩編にはあります。わたしたちは深い憐れみによって罪をぬぐってください、罪から清めてください、という言葉には心を合わせらます。しかし、雪よりも白くなるように洗ってくださいというのは、なにか大げさな詩的な誇張のように聞いてしまうかもしれません。私たちの汚れた罪の心が、この世を歩んで汚れた足が雪のように白くなるなんてことは実は心からは思っていないかもしれません。真黒な罪が洗われても、私たちはそれが真っ白ではなくグレーくらいのものにように感じるかもしれません。しかし、たしかに主イエスが身をかがめ奴隷として私たちに仕えてくださるゆえに、私たちは雪のように白くなるのです。一点の汚れのない者として父なる神の前に立つことができるのです。主イエスが洗ってくださったからです。



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