大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2020年9月20日主日礼拝説教使徒言行録11章

2020-09-20 14:17:47 | 使徒言行録

2020年9月20日大阪東教会主日礼拝説教「愛は止まらない」吉浦玲子

【聖書】

さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、

わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

 

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。

バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。

【説教】

<命を与えられる神~先行する恵み>

 ペトロがカイサリアで異邦人に洗礼を授けたことが、エルサレムの教会において議論を生みました。「異邦人が神を受け入れた」その喜ばしい知らせに対して、ペトロが異邦人と食事を共にしたことを批判するユダヤ人がいたのです。日本に住む私たちからしたら、伝道が進んだということより、食事のことの方が大事なのか?と突っ込みどころはそこ?と思うようなことです。

 そもそも主イエスもユダヤ人でした。主イエスも生涯、律法の教えを守って生活をなさいました。そして最初に主イエスを信じた弟子たちもまた割礼を受けた者たち、つまり律法の教えに忠実な人々でした。彼らにとって、律法を守ることと、主イエスを信じることはなんら矛盾のないことでした。彼らは、主イエスを信じることによって救われることは分かっていましたが、律法を守ることもまた救いの条件であるかのように考えていました。このことはこののちも繰り返し問題となって来ることです。

 それに対して、ペトロは順序正しく説明をしました。10章に記されている自分自身が見た幻のこと、異邦人コルネリウスが天使によって示されたこと、そして異邦人にも聖霊が降ったことが説明されました。これらのペトロの言葉を聞いて、人々は静まりました。「「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。」とあります。悔い改めによって、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、神から新しい命をいただくことができる、そのことを皆が理解したのです。神のなさる素晴らしいことにユダヤ人たちは感嘆をしました。

 ところで、「10代と歩む洗礼・堅信への道」という本があります。これはその名前通り、10代の小学生中学生への洗礼準備のために神学者や牧師によって記された本です。そもそも幼児洗礼ではない洗礼、信仰告白を伴う洗礼は何歳からかというのは教派や教会によってさまざまな考えがあります。欧米の教会ではだいたい10代の前半に洗礼や信仰告白のための教育をするのが一般的だそうですが、日本においては10代前半に洗礼や信仰告白のための教育をすることはそれほど広まっていません。その本では、もともとがキリスト教国であった欧米とは異なり、日本のようないわゆる異教社会においては、信仰を生涯貫くためには確固たる各自の自覚が必要という考えから、洗礼や信仰告白が10代前半ではなくもう少し年齢が加わった青年期とされることが多いのだろうと推測しています。

 しかしその本では、「確固たる各自の信仰の自覚」を求める時、失われているものがあるということを指摘していて興味深く読みました。それは、「神の恵みはわたしたちの自覚に先行して、すでに存在しているということ」だというのです。信仰告白において、個人の信仰の自覚、個人の成長、個人の選択を重視しすぎる時、神より個人のあり方に重心がおかれます。本来は神が人間を選び、捉え、恵みとして洗礼があるのに、「確固たる各自の信仰の自覚」を重視しすぎる時、人間の側がキリストを選んでいるかのようなことに陥るのです。信仰が神の恵みによって与えられるのではなく、個人の側になんらかのふさわしい要件が備わったことに対して信仰が与えられるような感覚になります。しかし、そうではなく「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。ヨハネ15:16」という主イエスご自身の言葉のように、個人のあり方ではなく、神の選び、神の恵みがあくまでも各人の自覚に先行するのです。その本には「信仰を『確固たる信仰』とさせるものは、本人の自覚ではありません。わたしたちを確固として離さない、キリストの恵みです」と書かれていました。

 これは洗礼を受ける時だけの話ではなく、キリスト教の信仰全体に言えることでもあります。主イエスが私たちを捉えてくださっていること、恵みが注がれていることよりも、自分自身の信仰者としてあり方に重点がいってしまうとき、神の恵みが分からなくなってしまうのです。すでにキリストの十字架と復活によって救われているにもかかわらず平安に乏しく、もっとがんばらねば、もっと成長しなくては、もっと奉仕をしなければ御国に入れないような不安だけが募っていくのです。しかし、すでにキリストは私たちの手を引いて歩んでくださっています。私たちは自分のおぼつかない歩みを悲しむのではなく、むしろ私たちの手を力強く引いてくださるキリストの力に感謝し、喜ぶべきです。もちろん、日々、神の前に悔い改めながら歩みます。しかしその悔い改めによって日々、新しい命に生かされるのです。今日の聖書箇所で、エルサレムの割礼を受けている人々も、割礼やら食事の規定などを自覚的に守っているから救いが与えられるのではないことを悟りました。神が人間を悔い改めに導き、まことの命を与えてくださる、つまり人間ではなく神の方に救いへの力、命への導きの力があるのだと悟ったのです。キリストが先立って、一人一人を愛してくださった、その愛してくださった手を握り返す時、私たちは豊かな命に生かされます。

<主から離れることのないように>

 エルサレムの教会で、異邦人への伝道が受け入れられたことは、大きな前進でした。その流れの中、異邦人への伝道はさらに進み、アンティオキアに最初の異邦人教会が立ちあがりました。アンティオキアは大都市で、かつ、かなり不道徳な雰囲気の町だったそうです。のちに有名な教会が建つコリントに似た猥雑な大きな街でした。しかし、神は不思議なことにそのような不道徳で猥雑な街にむしろ信仰者を起こされたのです。

そして、かつてサマリアに信仰者が起こされたとき、エルサレムの教会からペトロたちがサマリアに派遣されたように、アンティオキアにバルナバが派遣されました。これは開拓され歩みを始めたばかりのアンティオキアの教会を健全に指導するためでした。

 バルナバは、使徒言行録にこれまでも何回か登場しています。バルナバとは『慰めの子』という意味でした。彼は畑を売り払って立ち上がったばかりのエルサレムの教会に捧げた人でした。そしてまた、もともとキリスト教徒を迫害していたサウロが回心して宣教活動をしていたにもかかわらず、エルサレムの教会でなかなか受け入れられなかった頃、バルナバがサウロを使徒たちに紹介し、助けたのでした。今日の聖書箇所にバルナバは「立派な人物で」とありますが、人格的にバルナバが優れていたということより「聖霊と信仰とに満ちていた」と書かれているように、信仰の姿勢がしっかりした人であったということです。「聖霊と信仰に満ち」という言葉は、言葉の順序が少し違いますが、キリスト教における最初の殉教者となったステファノを表現するときにも使われた言葉です。なにより「聖霊と信仰に満ち」たバルナバは、また主を信じるアンティオキアの教会の人々の姿に喜んだのです。おそらく、バルナバから見て、アンティオキアの教会の人々の姿はユダヤ人の伝統や慣習とはかけ離れていたと思われます。しかしなお、「聖霊と信仰に満ちていた」バルナバはそこに神の業を見ることができたのです。現代でも、教会はこれが同じ宗教か?!というほど多様性を持っています。正教会やカトリックの礼拝はプロテスタントの礼拝とはおおよそ見た目も大きく異なります。プロテスタントの中でも、大阪東教会のように静かな礼拝を守る教会もあればロックバンドのようなバンドが大音響で奏楽をして賛美をする教会もあります。しかしそのような違いを越えて、そこに働いておられる神の働きを見ることが大事です。外側や雰囲気の違いを越えて神の働きを聖霊によって感じ取ることが必要です。

 さて、バルナバは「固い決意をもって主から離れることのないように」とアンティオキアの人々に勧めました。さきほど神の先行する恵みを語りました。人間の側がキリストを選んだのではなくキリストが選んでくださった、キリストが人間を捉えてくださった、と。先に恵みを受けたのです。だからこそ、その恵みから離れないようにしましょうとバルナバは勧めました。この勧めはことに、異邦人の教会においては重要なことであったと思われます。もともと彼らは唯一の神や救いということとは遠いところにいた人々ですから、せっかくキリストに捉えられながらも、さまざまな誘惑や異端的な考えに惑わされて、キリストの差し出された手を離してしまう可能性があったと思われます。せっかく恵みにより、いただいた命から死へと後戻りする危険性もあったと考えられます。そういう意味で、ことに異邦人の教会においては信仰の土台をしっかりと作るための励ましや教育は重要だったと考えられます。

<「クリスチャン」誕生>

 さて、最初にエルサレムの教会にサウロを紹介したバルナバはアンティオキアの教会を指導していくなかで、サウロこそこの教会に適任だと考えたのでしょう。サウロはダマスコにおいて回心をして宣教活動を始めましたがそこで命を狙う者があり、エルサレムに行きました。しかしそこでもサウロへの陰謀があり、それを逃れて生まれ故郷のタルソスにいたのです。ある意味、サウロは本格的な活動をできないまま、故郷にくすぶっていたという言い方もできるかもしれません。しかしまた別の見方をすると、そもそも神は異邦人伝道のためにサウロを召しておられたのです。教会が異邦人伝道へと向かう流れができた、神がその流れを備えられた、まさにその異邦人伝道の風が吹き出したときに、サウロは本格的に神に用いられるようになったとも言えます。一見、行き詰まりのような状況が、実は神によって最適な場が準備されている過程であったということが私たちにおいても往々にしてあります。

 「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」とあります。バルナバがどれほどサウロに期待していたかがわかります。聖霊と信仰に満ちた立派な人物であるバルナバでしたが、しかし、アンティオキアの教会の働きは彼一人ではできなかったのです。そもそも福音伝道、宣教の働きは、一人の力ではなく、共に働く人々が神によって召され与えられて力を増していくのです。

 そしてここで面白いことが書かれています。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」キリスト者とは、つまりクリスチャンということです。クリスチャンと言う名称が出て来たというのです。それまでは、ユダヤ教の一派のようにみられれていた教会が、明確に新たな信仰共同体として認知されてきたということです。もっともこのキリスト者、クリスチャンという言葉には当初侮蔑的なニュアンスがあったようです。しかし、それはこの最初の異邦人教会がそれだけ目覚ましい働きをし、存在感を放っていたということにほかなりません。

<助け合う教会>

 さて、今日の聖書箇所の後半には、飢饉が起こって、特にユダヤにある教会が困窮し、それを支援するという話が出ています。ここだけでなく、のちのパウロが異邦人の教会からユダヤ人の教会へと献金を届けるということが記述されている箇所が聖書にはあります。ユダヤ人の教会は、ユダヤ教を信じる周囲のユダヤ人社会から孤立をしていました。ですから飢饉などの状況になると、余計、周囲からの支援が得られず困窮することになります。そこでアンティオキアの教会から困っているユダヤの教会の人々に支援が届けられたのです。異邦人教会は、指導者を派遣してくれる、つまり霊的な恵みをユダヤ人の教会から受けていることに対して、感謝のしるしとして、経済的に困窮しているユダヤ人の教会をに支援したのです。

 最初にキリストを信じ、その後にできた多くの教会へ指導者を派遣しているユダヤ人の教会が、逆に、支援を受ける側になるというのは不思議なことです。しかしさきほど申し上げましたように、ユダヤ人の教会も、異邦人の教会も、霊的な援助、物質的な援助、それぞれの教会ができることをなしているのです。どちらがえらいということでもありません。それぞれ、たがいの援助を感謝して受けながら、自分たちは自分たちのできることを捧げていくのです。これは教会同士であってもそうですが、私たちのあり方としても同様です。良くいわれますことが、実際のところ「受ける方が難しい」のです。捧げたり支援することは積極的にできても、捧げられたり支援されたりすることにおいて往々にして遠慮してしまう、特に日本人はそういう傾向があるかと思います。しかし、最初にお話ししたことを思い出してください。私たちは先に神から恵みをいただいているのです。私たちから何かをしたことの見返りとしてその恵みが与えられたのではありませんでした。何もしなかったどころか神に背いていた私たちへ神から恵みが与えられたのです。そもそも私たちは恵みを与えられ、命を与えられてきた存在です。神から与えられ支えられてきた存在でした。そのことを覚える時、もちろん自分たちのできる隣人への愛の支援はなしますが、愛を受けることにおいても謙虚に素直になりたいと思います。助けていただくこと、祈っていただくことを感謝して素直に受け取りたいと思います。そもそも隣人からの助けは隣人を通して神が私たちに与えてくださるものだからです。私たちは与えることにおいても受けることにおいても、そこに神の働きを見させていただくのです。神から愛されたキリスト者、クリスチャンは、その愛を隣人の間でもまた与え受けて歩んでいきます。



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