①/②
初の千葉県の記事です。
佐倉は江戸の東に位置する要衝の地で、
重きを成す譜代大名が治めていました。
しかしながら藩主家の出入りが激しく、
江戸期を通じて12回も変わっています。
3代続くこと無く入れ替わりましたが、
堀田正亮が老中に就任したことにより、
1万石の加増と共に佐倉へ転封して以後、
堀田家が定着して6代続きました。
京成佐倉駅南口より西へ進み佐倉城跡へ。
「田町門跡」。
城には主要な城門が9つあったようですが、
他の城門が二階櫓門だったのに対し、
唯一田町門だけが一階門だったようです。
「水堀」。
田町門跡の左右には水堀が現存しています。
この水堀は佐倉城を一周していましたが、
現在はこの田町門跡付近の他に、
反対側の2つの出丸の間のみ残っています。
田町門跡から愛宕坂と呼ばれた坂を登る。
「国立歴史民俗博物館(椎木曲輪跡)」。
愛宕坂を登った先は椎木曲輪と呼ばれ、
侍屋敷が集まっていた場所。
佐倉城は廃藩置県後の廃城後、
歩兵第57連隊(佐倉連隊)駐屯地となり、
連隊の兵舎が建てられていたようです。
「椎木門馬出の空堀」。
椎木門と呼ばれる城門前の馬出と空堀。
駐屯地時代に一旦埋め立てられたものを、
掘り返して復元させたものとのこと。
二ノ丸跡へ。
「二ノ丸御殿跡」。
佐倉藩の歴代藩主(堀田家以前も含む)は、
二ノ丸御殿に住んでいたという。
本丸御殿は徳川家康が休憩に来て以来、
恐れ多いと年始や五節句以外は使われず、
将軍御成時の宿所としなったようです。
「佐倉城の敷石」。
博物館の研究棟を建設する為の発掘調査で、
佐倉連隊の兵舎の基礎が発見され、
その基礎が佐倉城の敷石だったという。
廃城の際に城内の建物が取り壊され、
兵舎に転用されたものとのこと。
「空堀」。
あちこちに空堀がめぐらされています。
良好な保存状態という事らしいですが、
石垣の城ばかり見慣れていると、
ただの崖にしか見えない。
先程の馬出の様に整備されてたら、
素人でもよくわかるのですが・・。
「正岡子規句碑」。
正岡子規の詠んだ佐倉城の句が刻まれた碑。
総武鉄道の本所駅―佐倉駅間が開通した際、
正岡子規は初乗りして佐倉を訪れて、
佐倉の町を散策して俳句を詠んでいます。
「常磐木や冬されまさる城の跡」。
この句は田町門跡付近の水堀あたりで、
詠まれたものという。
二ノ丸跡から本丸跡へ。
「一の門跡」。
本丸への入口跡。
本丸から大手門まで本丸より近い順に、
一の門、ニの門、三の門となっています。
「本丸御殿跡」。
本丸跡の敷地はかなりの広さがあります。
前記したようにここにあった本丸御殿は、
将軍宿所として保存されていました。
「天守台」。
天守は外観的に見栄えのするものですが、
利用価値はそれほどなかったりします。
大体は倉庫のような使われ方だったようで、
この佐倉城の天守(三重櫓)も、
武器庫として使われていました。
装飾された武具も保管されていたようで、
その為か2度も泥棒に入られたそうです。
その2度目には泥棒の提灯の火種で出火。
天守は焼失してしまったという。
以後は再建される事無く廃藩を迎えました。
「下総国 佐倉城天守跡」碑。
天守台にある碑。比較的新しいものです。
つづく。
①/②
■関連記事■
・千葉県佐倉市 甚大寺/佐倉藩堀田家墓所
佐倉藩堀田家の歴代墓所。
・滋賀県長浜市 宮川陣屋跡
宮川藩堀田宗家の陣屋跡。
・千葉県佐倉市 佐倉順天堂記念館
蘭医学の最先端であった佐倉順天堂跡。